音に溺れる



綺麗な歌を、歌いたい。

祈りのように優しく。

誰も傷つかない。誰も傷つけない。

……傷跡さえも癒せるような、そんな歌を。

私はずっと、そう思いながらノートに言葉を紡いできた。
日向の作る、氷のように澄み切った美しいメロディに乗せるため。そして、私自身の平坦で何もない心を守るため。

……傷跡を敢えて無遠慮に抉るような詩を、私はどうやったって書けなくて。

そもそも『触れてほしく無い傷跡』なんて持ち合わせるほど、深い人生経験を積んでもいない。

誰かを憎んだことも、狂おしいほど執着したことも、自分を壊してしまいたいと願ったこともない、からっぽな私。

だからこそ。

ツアー最終日の『サマーレモネード』とのステージは……本当に、嫉妬なんてする隙もないほどに、圧倒された。

恵比寿リキッドルームの、広く暗いフロア。

800人の観客の熱気を切り裂くように響き渡る、歩美先輩の叫びのような歌声。

痛くて、醜くて、ドロドロしていて。目を背けたくなるような人間のエゴや未練を、彼女は一切隠すことなく、剥き出しの傷口から血を流すように歌い上げていた。

『ーーお願い もっとあたしを 置き去りにして』

マイクを握りしめ、ステージの中心で感情を爆発させるその姿は、痛々しいほどに凄みがあった。

フロアの観客たちは皆、彼女のその『傷』に魅入られ、自分自身の心の奥底にある隠したい感情を重ね合わせるように、熱狂の渦へと巻き込まれていく。

綺麗事だけじゃ、人の心の最も深い場所までは届かない。

本当の音楽は、時には人を深く抉り、血を流させることでしか救えないものがある。

薄暗い舞台袖からその光景を見つめながら、私はただ、立ち尽くすことしかできなかった。

悔しいとさえ思えなかった。次元が違いすぎた。

私と日向が作ってきた『綺麗で純情な音楽』が、ひどく薄っぺらい無菌室のガラス細工のように思えてしまうほどの、暴力的なまでの命の熱量が、そこにはあったのだ。