音に溺れる



窓の外はすっかり暗くなり、深夜のアパートの静寂を、遠くを走る車の走行音が時折撫でていく。

先ほどまでテレビで流れていたバラエティ番組はとうに終わり、画面には味気ないニュース映像が音を潜めて映し出されていた。

「……日向は?」

マグカップの縁を指でなぞりながら、水瀬がふと視線を上げて俺を見た。

「進路のこと、考えてる?」

彼女が思い描く『救急科』という果てしない未来の話を聞いた後で、俺は自分の足元にある、ひどく個人的で重苦しい執着の形を思い浮かべる。

少しの沈黙の後、俺は手元のマグカップを見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。

「……まだ、分からない、けど……」

あの夜。たった一人で、激しい胸の痛みと死の恐怖に怯えながら事切れた母親の姿が、脳裏を掠める。

「春休みの早期実習の希望、循環器内科で出してみた。……心臓、診てみたくって」

すべてを自分の手でコントロールし、自分の、或いは誰かの大切な人を絶対に死なせないための防壁。俺が選んだ『医者』という生き方の、最も核となる場所。

その理由の重さを一切表に出さずに淡々と告げると、水瀬は少しだけ目を丸くし、それからひどく嬉しそうに笑った。

「いいねぇ、激務科だね」

彼女のその響きには、同情も心配もない。ただ純粋な、同じ医療という過酷な最前線に立つ者へのリスペクトだけが込められていた。

「ーーいつか、戦友みたいになれるといいな」

水瀬が、冗談めかして、けれど確かな本音として紡いだその言葉。

それは、自立した彼女なりの最大級の愛情表現であり、最高の賛辞だったのだろう。

けれど。俺の胸の奥は、絶望的なまでに冷たく凍りついていた。

「……あぁ、そうだな」

無理やり口角を上げ、ひきつりそうになる声で短く同意する。

戦友。

それは、同じ戦場で背中を預け合い、そしてそれぞれの任務のために別の場所へと散っていく、独立した個と個の関係だ。
俺が狂おしいほどに求めている、『安心して帰れる場所』とは、あまりにも対極にある響きだった。

(……お互いの描く理想に、お互い残酷なまでに存在しない)

俺の守りたい世界に、彼女という自由な鳥を閉じ込めることはできない。
彼女の羽ばたく空に、俺が求めている小さな箱庭はない。

……それでも、今はまだ。一緒にいたい。

俺は彼女の手を離せない。

こうやって深夜のアパートで、交わることのない互いの夢を語って。

俺の嘘になんて気づきもしない彼女の表情が、ひどく柔らかかったこと。

彼女が俺のために淹れてくれたコーヒーが、確かに温かかったこと。


……この温もりのすべてを、どうしようもない痛みを伴う『苦い記憶』だとして忘れ去る日は。

どうか、まだ少しだけ先でいい。

冷えかけたコーヒーを喉の奥に流し込みながら、俺はただ、隣で笑う彼女の横顔から目を逸らすことしかできなかった。