「……シキは?」
手元のブラックコーヒーを見つめたまま、俺は静かに問いを投げ返した。
「夢、あるの」
シキはココアの缶を両手で包み込んだまま、少しだけ視線を落として、ぽつりと呟いた。
「……日向みたいに、曲が作れたらなって、思うことはあるけど」
「曲? 何で?」
思いがけない答えに、俺は思わず聞き返した。
シキは少しだけ自嘲するように、ふっと息を吐く。
「……私はあくまで、今は詩を書いてるだけだから。ゼロから音を作って、表現するって、やっぱり憧れる。……最近になって、ずっとそう思うようになった」
詩を書いてるだけ。そうか、彼女自身はそんな認識なのか。
ーー俺は逆に、お前が持っているその生々しい言葉の引き出しに、ほんの少しの劣等感と、どうしようもない憧憬を抱くことがあるけれど。
そんな本音は、薄暗い夜風の中に溶かして、言わないでおいた。
そっと、シキがコートのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を開いた。暗いベンチを、液晶の青白い光が照らす。
表示されていたのは、ツアーを宣伝したInstagramの投稿。そのコメント欄には、沢山の応援のメッセージが並んでいた。
『職場でうまくいかなくて、もう消えてしまいたいと思った時に、たまたま開いたYouTubeでSound Jamのことを知りました。
本当に、シキちゃんの歌声が最近の生きる糧です。全国ツアー、全公演は難しいけどできる限り参加します。これからもずっと、歌っていて欲しいです』
丁寧にスクロールする彼女の指先を、俺も黙って目で追う。
「……いつか、わたし自身の作った曲で、こんな風に言ってもらえたらなって思うの」
画面を見つめるシキの横顔は、とても穏やかで、静かな熱を帯びていた。
「……日向って割と現実主義でしょう。だから、笑われちゃうかも、しれないけど」
シキはスマートフォンの画面を消し、夜空を見上げるようにして続けた。
「いろんな場所を、旅しながら歌ってみたい」
「……また、鎌倉の時みたいに、路上とかでってこと?」
俺が尋ねると、彼女はゆっくりと頷き、そして、さらに遠くを見つめるような瞳で口を開いた。
「たとえば。言葉すら通じないような、知らない国で、知らない場所で。誰か一人でも、わたしの歌声に耳を傾けてくれたなら」
そこで言葉を切り、彼女は真っ直ぐに俺の目を見た。
冬の冷たい空気の中で、彼女の瞳だけが、熱を帯びて静かに光っている。
「あの日、初めて出会った日。日向が私を、沢山のバンドの中から見つけてくれたみたいに」
ドクン、と。
胸の奥で、心臓が一つ大きく跳ねたような気がした。
「全く話したこともない、私のことなんて微塵も知らない誰かが。わたしの歌声を、純粋に好きだと思ってくれたら。それってすごく……素敵だなって、思う」
ただ純粋に、声と音だけで誰かと繋がりたい。
俺が彼女の才能を見つけ出したあの日の衝撃を、今度は彼女自身の手で、見知らぬ世界の誰かに届けてみたい。
打算も、計算も、金も、システムも存在しない。
ただ圧倒的なまでに純粋で、無防備な彼女の夢。
それを聞いた瞬間、俺の胸の中にあった冷たくて重たい泥のような何かが、少しだけ、すうっと浄化されていくような気がした。

