そう。
音楽をやっている瞬間だけは、俺は全てを忘れられた。
ようやく迎えたツアー初日。仙台CLUB SHAFT。
指先から紡ぎ出される冷たいピアノの旋律が、フロアの熱気を切り裂いていく。
医学部の殺人的な課題も、重くのしかかる奨学金の返済も。彼女からの連絡を待つ惨めな執着も、決して埋まることのない自尊心の欠落も。
何もかもが、本当にどうでもよくなるほどに。
俺は今、目の前でマイクに向かって歌を紡ぐ彼女に、ただ深く酔いしれられていた。
ーー冬の香りを閉じ込めるように、シキが声を震わせる。
そのあまりにも透き通った、痛いほどの美しさに、背筋を微かな粟立ちが駆け抜ける。
ふと鍵盤から視線を上げ、フロアへと目をやれば、そこにいる観客の誰もが、俺と同じようにこの圧倒的な声に心酔し、息を呑んで立ち尽くしているのがわかった。
(……あぁ、そうだ。これが、俺の欲しかったものだ)
現実の世界では、俺は水瀬の心ひとつ繋ぎ止められない空っぽな男かもしれない。
けれど、ここだけは違う。俺が血を吐くような思いで組み上げた盤面で、俺が作り出した旋律に乗せて、この絶対的な歌姫が俺の存在意義を肯定するように歌ってくれている。
ため息に似た声をふっとマイクに吐き出して。
そして、青く冷たい残響だけを残し、曲は静かに終わっていく。
一瞬の、完璧な静寂。
「……ツアー初日、ありがとうございました。Sound Jamでした」
シキのその静かな言葉を合図に、堰を切ったように鼓膜を揺らす歓声がライブハウスに爆発する。
俺は鍵盤からゆっくりと指を離し、熱狂の渦の中心で凛と立つ小さな背中を見つめながら、ひどく静かな熱情とともに深く息を吐き出した。

