音に溺れる





ーー瞬間。

手の中のスマートフォンが、唐突に無機質な振動を立てた。

びくりと肩が跳ねる。

『覚えてたら、連絡するから』

その言葉が脳裏をよぎり、水瀬じゃないか、と。
一瞬だけ、本当に馬鹿みたいにすがりつくような期待をしてしまったけれど。

暗闇の中で光を放った画面に表示されていたのは、彼女の名前ではなかった。

来週予定している、ツアー先の仙台のライブハウスのスタッフからだった。

ギリッと奥歯を噛み締め、俺はひどく重い指先で通話ボタンをスワイプし、画面を耳に押し当てた。

「……はい、御崎です」

『あ、もしもし、御崎さんですか? 夜分遅くにすみません、来週の仙台の照明の配置に関してなんですがーー』

電話の向こうから聞こえてくる、少し遠慮がちで事務的な大人の男の声。
俺はゆっくりとベッドから身を起こし、深く、静かに息を吸い込んだ。

そして、どろどろに溶け出していたみっともない『ただの二十歳の男』を心の奥底の冷たい箱に押し込め。代わりに、冷徹で完璧な『Sound Jamのリーダー』という役割を、強制的に再起動させる。

「ええ、大丈夫ですよ。……照明の件ですね。先日お送りしたリストの、3曲目のサビの入りでのカットアウトのタイミングのことでしょうか」

声のトーンを一段下げ、淀みなく、大人の男と対等に渡り合うための論理的な言葉を紡ぐ。

水瀬からの連絡は来ない。彼女の心はコントロールできない。

けれど、この電話の向こう側にある『音楽の世界』だけは違う。

俺が計算式を組み、指示を出し、完璧に盤面を支配できる世界。俺の能力が正当に評価され、頼られ、俺がいなければ決して回らない世界。

『ーーはい、そうです! 実は機材の都合で、少しタイミングがズレるかもしれなくて……』

「構いません。その代わり、ボーカルのピンスポットをコンマ5秒遅らせてください。シキのブレスのタイミングに合わせます」

電話口で恐縮する大人のスタッフに的確な指示を与えながら、俺は暗い部屋の片隅で、冷たく口角を上げた。

……あぁ、そうか。

シキが俺に『無敵のリーダー』という幻想を押し付けていたように。

俺もまた、水瀬の隣で粉々に砕け散りそうになる自尊心を繋ぎ止めるために。自分が価値のある絶対的な存在なのだと思い込むために、このバンドを利用し、依存していたのだ。

俺はもう、このバンドがなければ、息をすることすらできない。