今日だってそうだ。
講義棟を出て、駅へと向かう夕暮れの並木道。
「今日、さ。終わったら家行っていいか」
泥のように眠りたかった。けれどそれ以上に、彼女の体温に触れて、自分が彼女の『特別』であることを確かめなければ、どうにかなってしまいそうだった。
水瀬は歩みを止めず、少しだけ困ったように眉を下げてこちらを見た。
「あー、ごめんね。今日は陸上部の飲み会」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で稼働していた理性のシステムに、ノイズが走る。
陸上部。彼女が所属するそのコミュニティは、俺の全く手の届かない、干渉できない世界だ。
「……男と?」
最低な質問だと分かっていた。
余裕のある大人の男なら、「そっか、楽しんでおいで」と笑って送り出すべき場面だ。けれど、口を突いて出たのは、自分のひどく幼くて醜い独占欲だった。
「も居るけど」
水瀬は嘘をつくことも、取り繕うこともせず、ただ淡々と事実だけを述べた。
その隠し立てのない態度が、逆に俺の焦燥感を煽る。
酒が入る場。俺の知らない男たちが、俺の知らない彼女の笑顔を見て、気安く話しかける空間。
想像するだけで、胃の奥が粟立つような不快感に襲われた。
俺は歩みを止め、必死に『彼氏としての正論』という名のシステムを再構築する。
「……終わったら、連絡頂戴。迎えに行く」
夜道は危ないから。酔っ払っていると心配だから。
いくらでも付け焼き刃の理由は用意できた。彼女を自分の管理下に置くための、もっともらしい言い訳。
しかし。
水瀬は立ち止まり、振り返って俺を真っ直ぐに見つめた。
あの、すべてを見透かすような、美しくて冷たいガラス細工の瞳で。
「ーー日向」
咎めるような、呆れるような、けれどひどく残酷なほどに冷静な声。
「そういうの、いいよ」
「……危ないだろ。時間も遅くなるし」
「結局、自分が不安なだけでしょ?」
「……っ」
息が、完全に止まった。
彼女の放ったその一言は、俺が必死に纏っていた『彼氏としての優しさ』というメッキを、一瞬にして木端微塵に粉砕した。
彼女はわかっているのだ。
俺が『彼女を心配して』迎えに行きたいわけじゃないことを。
ただ、他の男の目に触れるのが嫌で、自分が安心したいがために彼女の行動を縛ろうとしている、その身勝手な弱さを。
図星を突かれ、俺は反論の言葉一つ紡げずに立ち尽くした。
この女の前じゃ、俺はシキ達の前でそう振る舞っているように、自信のあるリーダーなんかじゃいられない。
ただ、自分に自信が持てなくて、大好きな彼女を繋ぎ止める方法すら分からない、惨めで不器用な子供がそこにいるだけだった。
「……ごめん。帰って、覚えてたら連絡するから」
水瀬は小さくため息をつくと、それ以上俺を責めることはせず、夕暮れの駅の雑踏へと背中を向けて歩き出した。
俺は、遠ざかっていく彼女の背中を追いかけることもできず、ただ自分の幼さと、ひび割れた自尊心の欠片を抱えたまま、その場に縫い付けられていた。
……『覚えてたら』。
『連絡するから』。
自室の暗いベッドの上。
一縷の望みを賭けて光らないスマートフォンを何度見つめても。
ーー結局、その夜、彼女からの連絡がくることは無かった。

