音に溺れる




その夜は、珍しく、サトルと2人きりで、居酒屋からの帰り道を歩いていた。

「送るよ」と彼に言われても、普段なら気を使って断っていた。けれど、その日は本当になぜか、一人で夜道を歩きたくなくて、彼のその優しい提案に素直に頷く気分になったのだ。

深夜の静かな住宅街。並んで歩く足音だけが、等間隔に響く。

「……日向が彼女連れてくるなんて思わなかったから、少しびっくりしたな」

ぽつりと、サトルが夜の空気に溶かすようにそう呟いた。
その声に嫌味や茶化すような響きはなく、ただ純粋な驚きと、少しだけの感嘆が混じっていた。

「……綺麗な人だったね。本当に」

私が静かに相槌を打つと、サトルも「うん」と短く頷いた。

誰もがその美しさに見惚れてしまうだろうほどの女性だった。
頭も良くて、自分をちゃんと持っていて。男ばかりのバンドの打ち上げという場でも、変に媚を売ったり、逆に壁を作ったりもしない、凛とした立ち振る舞い。

「……なんていうか。本当に、日向って、普段は私達とまったく違う世界で生きてるんだろうなって……そう思った」

気がつけば、そんな本音が口をついて出ていた。

スタジオ練習の合間の休憩時間。私たちが他愛のない話で笑い合っている横で、彼は一瞬で思考のチャネルを切り替えて、分厚くて難しい英語の医学書を読んでいた。

あの時の、こちらを一切寄せ付けないような、冷たくて真剣な横顔を思い出す。


(ーーこれから彼は医者になって、多くの命を救っていくんだろう)

彼が背負っている責任や、見据えている未来のスケールは、私たちが生きている薄暗いライブハウスのステージとは、あまりにも次元が違いすぎた。

彼とあの水瀬さんという人は、光の当たるその正しく美しい世界で、これからもずっと肩を並べて生きていくのだ。

「……奇跡みたいだなって、思うよ」

「奇跡?」

「うん」

本当に、ただの奇跡みたいに、彼が私の声を気に入ってくれて。

あんなにも住む世界が違う彼が、私と一緒に音楽がやりたいと言ってくれて。

そうやって、たまたま、一瞬だけ、私たちの道が交わっただけなのだ。

このバンドがいつか終わりを迎えたら。彼が医者になり、私たちがそれぞれの現実へと帰っていくその日が来たら。

今後私の人生において、あんなにも圧倒的で、どうしようもなく惹きつけられる『光』が現れることは、きっと一生ない。

「……そっか。そうだな」

サトルはそれ以上何も聞かず、ただ私の少し前を歩きながら、ぽんぽんと優しいリズムで自分のカバンを叩いた。

その穏やかな背中を見つめながら、私は夜風に冷えていく頬をマフラーに埋め、交わってしまった奇跡の儚さを、静かに噛み締めていた。