嫁ぎ先は神様の住処

 嫁とはいったい何をすることだろうか。

 蝶子は幼少時に通っていた寺子屋の塾を思い浮かべていた。住まう武家屋敷の付近には、私塾と寺子屋の学舎があり、読み書き、算術、教育等を習っていた。とはいえ、女が習うのは、おもに、花嫁修業だった。多少、読み書きも習ったが、女が男よりも賢くなりすぎるのは、世間的に節度が無いとされた。

 寺子屋で通う子供は六歳から十三歳の年頃の男児と女児。蝶子が通っていた寺小屋は、二十人ほどの女児の集まりだった。
 女師匠の名は忘れたが、「嫁とは」と、くどくど、言っていたのを思い出す。

 講座は、裁縫、生け花、茶の湯、武芸だった。あの頃の蝶子は、ちょっと、お転婆で、将来は鷹匠になりたかった。男女差別を反発する、お年頃でもあり、身だしなみに厳しい女師匠に、なにかと目を付けられ、叱られていた記憶がある。若気の至りである。

『良き妻とは、蝶子さん、わかりますか』

 未だに、師匠の甲高い、癇癪を含んだ声が耳に残る。あのとき、もっとちゃんと聞いていれば良かったと思う。

 その後、蝶子は、武家から百姓になり、やむを得ず、野菜の育て方を少々。裁縫は奉公先で上達した。それと料理に洗濯、掃除、と自然と身についた。

 誰にも嫁ぐことなどないと思っていた。
 いったい、良き妻とは、どんな人のことをいうのだろうか。

 薄らと、先生は、旦那様の言葉には、従順に従いなさい。と言っていた気がする。

 しかし、それは奉公先でもしていたことで、同じ様に氷雪に接しているけれど、同じ様にしなくてもよいっと、仰せになる。

 では、どうすれば、嫁らしいことができるのだろうか。蝶子の身近にいたのは、奉公先の奥様。

「……」

 正直、参考にならない。召し使いに家事全般をやらせ、虐めること。どうにも蝶子には出来ない。

 氷雪に嫁いでからというもの、屋敷の清掃、食事、氷雪の世話。それらはすべて、童子や雀たちが、こなしていた。非常に困ったことに、蝶子には仕事がない。

 仙天横町を訪れてから、すでに、もう三日も経っていた。

(駄目だわ、これでは)

 仕事をしないで、ご厄介になるなど、どんなに気の良い旦那様でも、いずれ”出て行け”と言われるだろう。

 出て行けと言われれば、出て行く。が、折檻も無く。衣食住もまともにさせてもらい。優しく接していただける所など、そうそう無い。
 できることならば、長くいたい。

(絶対。仕事をいただかなくては)





 朝、蝶子は布団から出ると、隣の寝間の襖を勢いよく開けた。氷雪の寝床である。本来ならば、床に膝をつき、両手で襖を開けなくては行儀が悪い。しかし、そのときの蝶子は急いていた。つい、子供のころのように叱られるような行為をしてしまった。

「氷雪様。あの、わたしに、お仕事を──」
「……」
「……」

蝶子と氷雪は、たっぷりと、硬直し、見つめ合った。
 目の前には、氷雪の全裸。

「……」

 考えてみればわかることだ。起きたら着替える。断りもなく開けば、こんな場面に遭遇することもあるだろう。

蝶子が襖を開けた瞬間、氷雪は、しゅるりと腰紐を解き、寝着を床に落とした。
 直視する。

 氷雪の銀糸のような、さらさらの髪が、白い裸体に絡み付く。胸板には、梅の蕾のような粒が二つ。華奢な外見に反して割れた腹筋。棒立ちになっている、白い両足。太股の間に目を落として。

 蝶子は、みるみる熟れた西瓜のように、頬を染める。

「ごごごごご、ごめんなさい」
(やってしまった)

 しっかりと、見てしまった。
 蝶子は慌てて、ぱしりと、襖を閉めた。
 心臓が、ばくばくと脈を打った。

 どうしましょう。殿方の……。を、しっかり目に焼きつけてしまった。動揺が止まらず、膝を折って床にしゃがみ込む。
 これでは痴女ではないか、と蝶子は頭を抱えた。

「蝶子」

 ごそごそと襖の向こうから衣擦れの音がする。どうやら氷雪が、急いで着替えをしているようだ。

 このままでは、着替えを済ませた氷雪と対面することになる。
 蝶子は居たたまれなくなった。

「ご、ご、ごめんなさい」

 合わせる顔がない。女としてあるまじき失態。蝶子は、兎に角、その場から逃げ出したかった。

(ここから、離れなきゃ)

 慌てて立ち上がる。
 すぱん。
 驚くほどの素早さで、氷雪は、締めたばかりの襖を、開けた。

「ああああああああ」

 蝶子は赤面し、青ざめ、逃げた。廊下を走り、少しでも氷雪と距離をとる。

「蝶子」

 氷雪は蝶子を追った。蝶子はさらに逃げる。屋敷のなかは広く、沢山の襖があり、蝶子は襖を開けては、閉じた。が、うしろからは、襖の開く音だけが聞こえてくる。

(追いかけられている)

 泣きたい気持ちが押し寄せてくる。

「蝶子」
「お許しください」
「落ち着きなさい」
「見ちゃいました」
「ああ。まぁ」
「しかり見ました」
「……よい」
(よくないです)

 蝶子は完全にパニックに陥っていた。と、ついに氷雪が腕を掴み、背後から蝶子を抱き留める。温もりが背中から広がり、蝶子はますます、顔を赤くした。冬場なら確実に頭から湯気があがっていたかもしれない。

「あ、ごめんなさい。ごめんなさい」
「こら。暴れるな。落ち着きなさい」

 蝶子が氷雪から離れようとする度、氷雪の腕が強まり、羽交い締めにされる。痛いわけではないが、蝶子は身動きが出来なくなった。

「まったく。恥ずかしいのは、見られた、俺の方なんだが」
「ああああ。ごめんんなさい」
「だから、落ち着きなさい。俺は朝は、あまり動けないんだぞ」

 なおも、逃げおおせようとする蝶子に、氷雪は言い聞かせた。

(そう言えば、氷雪様は体温が低いため、朝は日光浴をされていた)

 気怠そうな氷雪の姿を思い出し、蝶子はしゅんと項垂れた。

「ごめんなさい」

 ようやく、暴れるのを止める。しかし、心臓は未だに、どくどくと早鐘を鳴らしていた。沈黙。風が頬を掠めると、蝶子は落ち着きを取り戻す。

「あの、失礼なことをして」
「もう、謝るな」

 そう氷雪は言って、なぜか、蝶子の頭に擦り寄り、顎を蝶子の頭に乗せた。密着度が高まり、蝶子はどうしていいのかわからなくなった。

(離して下さらない)

 落ち着きだした心臓が、また、騒ぎ出す。

「怒っていらっしゃいますよね」
「なぜ、そんな風に思う」

 優しく問われ、蝶子は言葉を詰まらせた。
 いつまでもお手を離してくれない。逃げないように。
 心なしか、腕に回された手に力がこもったような気がして恥ずかしかった。

「普通は怒るところかと」
「夫婦になったのにか?」
「えっと」
(まだ、契りを結んでないので、夫婦と言えるのでしょうか)
「ふふ。いずれ見慣れる」

  氷雪は蝶子の心の声を呼んだように楽しげに言い、その言葉に蝶子の顔が、また茹で蛸のようになった。

「ちょっと、虐め過ぎたな。なにか用事が、あったのではないのか」
「あの、わたし、なにか、お仕事が欲しくて」
「しなくても良い」

 氷雪は蝶子の頭から顎を除けて、腕の力を緩めると、微かに唇を尖らせて蝶子の横顔を見つめた。緩まった腕から、蝶子は頭だけで振り返る。

「ですが……わたし、氷雪様に、なにかしたくて、あの、もしよろしければ、今晩はわたしが手料理を作ってもよろしいでしょうか、お嫌でなければ」

 蝶子は、羞恥の潤んだ目で、氷雪を見上げた。

「手料理、俺に食わせたいと」
「はい」

 氷雪の頬が、微かに赤みを帯びた。蝶子を見つめ、喉がコクンと嚥下する。朝食がまだなので、お腹が空いたのかもしれない。
 氷雪はそっぽをむいて、ようやく、手を離した。

「好きにしなさい」

 蝶子は感極まって、微笑んだ。

「お口に、あうかわかりませんが頑張ります。それから、なにか他に出来ることがあれば、お言いつけください」
「他に」

 氷雪は目元を少し赤らめ、目を彷徨わせ、悪戯っぽい笑みを零した。

「ならば──」



「あの、氷雪様」
「なんだ」
(なんだって)

 氷雪は、ごろりと寝っ転がって、蝶子の膝を枕にして寝転んだ。
 生温かな体温が、じわりと広がる。

 あろうことか、氷雪は蝶子に縁側に座れと命じた。先ほどの失態で、やはり、激怒されているのだと思い、蝶子は折檻されることを覚悟した。すっかり綺麗になった痣も、また増えるのかと気落ちしていると、膝にずっしりと重みが乗る。まさか、膝枕をご所望とは理解ができなかった。

「えっと。これが、わたしに出来ることなのでしょうか」
「そうだ。俺は朝が弱い、こうして日向ぼっこをしなくてはいけない」

 日光浴に膝枕は不必要なのではないだろうか。蝶子は慣れない行為に緊張して、体を強ばらせた。

「うたた寝をされるのでしたら、枕を持って来ましょうか」
「これが、温かくていい」

 間髪入れずに氷雪は言い、子猫の様に蝶子の膝に擦り寄った。これは、蝶子を困らせて、楽しんでいるのではないだろうか。膝に温もりが伝って動揺が隠しきれない。

「……やっぱり、怒っていらっしゃいますか」

 氷雪は意地悪そうに「くっく」と笑うと、さらさらの銀髪が揺れて、蝶子の手を掠め、こそ痒かった。

「ならば、罰だと思いなさい。それなら甘んじて受け入れるだろう」
「これが、罰ですか」

 氷雪の考えることは、よくわからない。こんなことが罰になるのだろうか。
 どうにも、お尻の辺りが、そわそわして落ち着かない。

 ぽかぽかと柔らかな日差しが二人に降り注ぎ、頭が、のぼせそうだ。
 しばらく、沈黙が続く。氷雪は、ぽそっと呟いた。


「初めてか」

 蝶子は、きょとんとして首を傾げた。

「何がですか」
「膝枕をするのは」

 蝶子は、上を向いて記憶を巡った。そういえば。

「昔……」

 瞬間、氷雪の目が、細く鋭くなった。

「昔、なんだ」

 氷雪の冷たい声に、蝶子はたじろいだ。叱られているようだ。

「えっと。村に住む啓太に」
「ほう。したのか」

 蝶子は、氷雪の責めの言葉と視線から逃れようと、目を彷徨わせた。背に、じわりと嫌な汗が流れる。

 どうされたのだろうか。
 氷雪の眉間に皺がより、あからさまに不機嫌に見えた。
 不愉快になるようなことを、言っただろうか。

「耳かきが下手だと聞いたので、やってあげただけです。子供の頃です」
「ほう。したのか」
「えっと。はい」
「したんだな」

 なぜ、こんなにも、しつこく聞かれるのだろうか。蝶子は原因がわからず困惑する。

 氷雪の機嫌を戻すには、どうすればいいのだろうか。人と接してこなかった蝶子には、氷雪の扱いがわからない。

 氷雪は小さな溜め息を零し、おもむろに拳を額に当て、とんとん、と二回、軽く額を叩くと身動ぎした。ゴロリと氷雪は反転し、顔を蝶子の帯に向けた。と、両腕を広げ、蝶子の腰に手を回す。

「わぁ」

 蝶子は驚いた。
 氷雪は寝たまま、ぎゅうっと蝶子の腰を引き寄せて、あまつさえ、ぐりぐりと蝶子に、擦り寄ってきた。これはすでに膝枕ではない。蝶子のお腹に氷雪が顔を埋められ、蝶子は頬を染めた。

(近い、近い、近い)
「なんですか。えっええ」

 氷雪の行動に蝶子は酷く心を乱した。

(なんでしょう。今日の氷雪様は、そうとう寒がりなのでしょうか、やたらと……)

 殿方は寒いと、このように甘え、擦り寄って来るのだろうか。何度目かの、擦り寄りに蝶子は狼狽する。

 氷雪は、ますます、手に力を入れて抱きしめる。ずしりと氷雪の重みを膝に感じ、蝶子の鼓動が早くなる。

「氷雪様」
「ふふ。補充ぐらいさせろ」
「補充とは、何か欠けていらっしゃいましたか」
「はは。欠けている。自分で考えろ」
(いったい、何が足りないと言うのでしょうか)

 温もりが足りないってことでしょうか。
 それならば、湯殿を湧かすのに。温かな茶を用意するのに。

 なぜに、嬉しそうに抱きつかれているのだろうか。
 これが補充になるのだろうか。
 蝶子は走り出して逃げたい衝動に駆られた。

 氷雪の息遣いが近い。氷雪の温もりが暑い。氷雪の腕が力強い。
 蝶子は息苦しさを感じて、呼吸がしづらかった。

 氷雪は寒いのかも知れないが、蝶子には日向が暑すぎる。だから、のぼせて頭が回らないのだ。

(うう。うう。今日は凄く、暑くなりそう)

 じりじりと日差しが焼け付いて、蝶子は、ぱたぱたと手で顔を仰いだ。葉月(八月)も中旬に入る。朝方は少し肌寒いが、日中は葦(よしず)を、窓辺に掛けた方が、いいのかもしれない。

「あの、氷雪様、なにか、食べたい物はありますか」

 話題を変えるように蝶子は言う。

「揚げ出し豆腐」

 ぼそりと氷雪は言った。その後、童子が朝食に招くまで、氷雪は蝶子を離すことはなかった。