嫁ぎ先は神様の住処

 仙天横町から帰って来て、部屋に戻ると蝶子は、頭がふわふわしていることに気が付いた。色々なことがあって、心と体が置いてけぼりになっている気がした。

 小腹が空いたと氷雪が言うので、仙天横町でくず餅を頂いた。竹の筒の器に、半透明のくず餅が盛りつけられていて、とてもぷるぷるとしていた。黒蜜ときな粉をまぶし、箸でつかめないほど柔らかい。

 ぱくり、と食べると、ほっぺが落ちそうに美味しくて、蝶子は、実は、もう死んでいるのではないかとさえ思えた。

(木の実、以外の甘味なんて、いつぶりだろうか)

 こんな夢のような出来事が、現実にあっていいはずがない。

 さらに、一本うどんが食べたいと、童子たちが言うので、夕飯として食べることになった。太くて長い、一本のうどんが、丸い丼の中にあり、あっさりとした、お出しと絡んで、とても美味しかった。
 蝶子はくすりと笑った。

(なんだか、餌付けされている、雛鳥みたいね。わたし)

 屋敷につくなり、水の入った桶を用意され、童子たちが蝶子の足を洗ってくれようとしていた。

 蝶子は断り、逆に桶を受け取って、氷雪の足を洗った。気のせいか氷雪の目が、赤らんでいるように思えたが、きっと疲れていたのだろう。

 そのまま蝶子は湯殿に通され、お風呂に入り、部屋に入ると仙天横町で買った着物が六枚ほど置いてあり、さらに、呉服店で反物を仕立てていたことを思い出す。

(これは夢ではないだろうか)

 あまりにも現実離れしすぎて、蝶子は、ほっぺたを捻った。

(痛い)

 部屋の違い棚には、香炉が置かれ、ゆらりと煙があがり、微弱な甘い香りが立ちこめていた。
 氷雪の香りだった。

 蝶子は襖を開け、縁側に出る。さわさわと優しい風が、風呂でのぼせた体を、撫でて行く。
 星々を見上げる。こんなにゆっくりと空を眺めるのは、いつぶりだろうか。

 と、そのとき。

 どん。
 と大きな音が玄関の方からして、同時に、ぱっと花火があがったように玄関側が光った。

「なに?」

 どん。どん。どん。と断続的にその音はした。

「蝶子。大丈夫だよ」

 童子のひとにが、いつの間にか、うしろに立ち、声をかけ「お部屋に入ろう」と促した。

「えっ。でも、何かあったのですか、急に空が明るく」
「ああ、あれね、気にしないで」
「でも」

笑顔で答える、ひとにに、蝶子は疑念を抱く。
 気にしないでと言われても。先ほどから、微弱に、空気が震動していた。

 なにかがあったとしか思えない。
 顔に出ていたのか、ひとには蝶子を安心させるように言う。

「ほら、朝、仙天横町に行く時に、参道を通ったとき、雪が言ったでしょう」
「?」
「鬼門が開いたんだよ」
「鬼門……」
「そう、悪鬼が入り込もうと、門をこじ開けたんだ」
「大変」

 良からぬ物が入り込んだのだ。蝶子は自分に出来ることはないか思案する。

「大丈夫。良くあることだから、ね。雪が祓ってくれるよ。残滓は仙漁の餌になるし」

 そう言えば、そんなことを申されていた気がする。話している間にも、どん、と音は鳴り止まない。蝶子は、さらに不安になる。

「雪は強いから平気だよ。蝶子が行ったら、よけいに邪魔になっちゃう。ねっ。お部屋に戻ろう」

 確かに、たかが蝶子に何が出来るというのだろうか。蝶子はコクリと頷いた。ひとには蝶子と手を繋いで、襖を開けて部屋に入る。いつの間にか布団を用意されていて、僅かに、ぎょっとした。

 ひとには、蝶子を布団の上に座らせた。「少し待ってて」と言うと部屋を出て、お盆を持って戻ってくる。お盆の上には湯気のあがる湯飲み。

「さぁ、蝶子。これを飲んで」

 ひとには、一杯の茶を蝶子に渡した。
 氷雪が悪鬼を退治しているのに、蝶子が呑気にお茶を飲んでいてもいいのだろうか。

「落ち着くから」

 ひとには、にこにこと言う。

「ありがとう」

 折角の心遣いだ。蝶子はごくりとお茶を飲んだ。風呂上がりで、少し喉が渇いていた。喉が潤う。蝶子は、ほぅと息をこぼした。

「さっぱりとした、お茶ですね。美味しい」
「白茶って、言うんだよ」
「初めて飲みました」
「雪が好んで飲むんだ。唐土(中国)から取り寄せてるんだよ」
(これを氷雪様が)

 氷雪の好む茶が飲めて、なんだか嬉しくなった。
 蝶子は湯飲みの中の淡い琥珀色のお茶を見つめ、もう一口飲む。爽やかな甘みが広がり、なんだか氷雪から香る匂いに似ていた。

(あれ)

 飲み終わると、急に視界が、ぐにゃりとして歪んだ気がした。ぐらつきながら湯飲みを、ひとにに渡す。

(なんか凄く。眠い)

 意識が遠のく。

(どうしたのかしら)

 目が開けていられない。
 蝶子は、そのまま布団に倒れ込んだ。

「大丈夫。蝶子は気にしなくていいんだよ」

 ひとにの、そんな声が朧気に聞こえた気がした。

******

「まったく。ついに鬼門を開けて、入って来やがったか」

 氷雪は忌ま忌ましげに溜め息を吐いた。
 折角、蝶子と出かけて機嫌良くしていたのに、水池の異変に気がつき、飲みかけの湯飲みを置いて、慌てて玄関に飛び出す。鳥居を潜り、水池へと足を踏み入れ、ぱしゃぱしゃと水の上を走ると、くるりと振り返る。

 東門と北門の間の宙に、黒い渦が広がっていた。
 案の定、鬼門が開こうとしていた。
 こんな日ぐらい、遠慮してほしいものだ。氷雪は眉間に深い皺を寄せた。

「雪」

 氷雪のあとを童子たちが追う。わらわらと氷雪に近寄ると、心配げに氷雪を見上げた。

「大丈夫だ。たく、蝶子が来てから、毎日、呪詛を送って来やがって」

 蝶子を嫁にした夜から、人間界と繋がる北門からは邪が入り込もうとしていた。
 ここでいう邪は、誰かが使役した式神のことだ。

 使い道によっては、善にもなるし悪にもなる。しかし、入り込もうしている邪物は悪でしかない。酷い臭気を発している。

 蝶子が来た日から、頻繁に、北門の鳥居にある人間界への通り道に、邪物が神域に入り込もうと、体当たりしていた。

 ぶつかって来ようが、ここは結界が施されている。邪物の類いは、入って来られない。しかし、度重なる体当たりに、多少なりと結界は緩む。それが毎晩だ。
 連日、氷雪は、結界を強化していた。

「今朝は、お前のせいで蝶子に在らぬ誤解をされた。俺に蝶子、以外の女がいるなど……」

 蝶子の態度を思い出し、氷雪は心が折れそうになった。
 妾がいると勘違いされたうえに、蝶子が、いるはずも無い女のお世話をするなど、言語道断。

 日増しに邪物は増えていくが、昨晩は、本当にしつこかった。人間界の門の結界に、ぶつかっては消滅する。入れないとわかっているだろうに、相手は丑三つ時(午前二時から二時半頃)から明け方まで、絶え間なく、次から次へと続けた。

 術を掛ける方も、そうとうな消耗だろうし、そろそろ正気でいられなくなっているかもしれない。

「それでも」

 奴も、蝶子を諦めない。
 いい加減にしろ。

(蝶子は、すでに俺のものだ)

 昨日は少々そのことに苛ついた。
 だから、昨晩は、つい、氷雪は結界の外の人間界に出て、相手と応戦した。

 屋敷で眠っている蝶子を起こしたくもなかった。
 屋敷は唯一、蝶子の安心できる場所でありたい。
 余計なことに心を煩わせてなるものかと思った。

 それにしても、日増しに邪気が強まっている。もう、無視もできなくなってきた。
 人間界へと続く鳥居を攻めくるだけなら、まだ、よかった。

 まさか、水池の別の門である、鬼門をこじ開けて来ようとは。
 どれだけの対価を払ったのやら。
 氷雪は頬をひきつらせた。

 何を対価にしたのか、考えるだけで反吐が出る。
氷雪は上空を見上げる。

 鬼門をこじ開け、邪物が入ろうと北東の宙には次元を歪ませる渦が広がり、薄らと黒い柱が浮かび上がっていた。

 徐々に輪郭がはっきりし、黒い鳥居が宙に立つ。扁額には、蚯蚓《みみず》が這ったような血文字で”鬼門”と書かれていた。

 氷雪は、忌ま忌ましげに鬼門を見る。大きな陰が揺れる。

「土蜘蛛か」

 巨大な土蜘蛛が真っ赤な目をギラつかせ、鬼門から足を蠢かし、出てきた。

 そのまま、ぼとりっと水池に落ちる。池の水が波のように高くあがり、氷雪と童子に降りかかった。ざぶん、と水が覆い、去る。

『蝶子を返せ』
「断る」

 土蜘蛛から嗄れた声が響き、氷雪は間髪入れずに答えた。水を頭から被ったというのに氷雪は、まったく濡れていない。

『返せ』
「それしか、言えんのか」

勝ち誇った氷雪の言葉に、相手は戦慄き、怒りをあわらにした。

『返せ』

 話にもならない。戯れ言だ。
 氷雪は「ふん」と鼻で笑う。その態度が気に入らなかったのか、真っ赤な目玉をギラつかせて、土蜘蛛が氷雪に突進して来た。

 浅はかな行動だ。
 そんなことで蝶子が手に入るはずもない。させやしないが。
 強行突破でもしようとする土蜘蛛に氷雪は、冷たい視線を送る。

(阿呆が)
「ふん。おい、誰か蝶子の様子を見てこい」

 先ほどからの震動で、もしかしたら蝶子が気がつき、心を揉んでいるかもしれない。優先すべきは蝶子。氷雪は童子に命令した。

 しかし、童子たちは誰も動こうとしなかった。仕方なく、氷雪は「ひとに」と指名して促した。

「でも」

 ひとには上目遣いで氷雪を見つめた。
 どうやら氷雪を置いて、蝶子の元へ行くのを躊躇っているようだ。

「俺は、大丈夫だ。行け」

  ひとには、それでも立ち止まっていた。
 確かに連日の戦闘で心身ともに疲れてはいる。それを見抜かれて童子たちが心配をしているのだろう。

 しかし、氷雪は過信していた。
 こんな輩に負けはずがない。自信もある。

「ひとに、頼む」

 ひとにはキリリと眉をあげて頷くと、すぐに屋敷へと駆けて行った。氷雪は、それを横目で流し、近づいてくる土蜘蛛を凍てついた視線で見据えた。

「まったく、こんなくだらない物を残した、お前の先祖を恨みたくもなる」

 この式を放った者の血筋を考えると、氷雪は少し、ぞっとする。

 氷雪は腰差しから刀を取り出す。
 その間に、毛むくじゃらの太く尖った針のような土蜘蛛の足が、頭上から、振り降ろされた。

 氷雪は、鞘からすらりと刀を引き抜き、振り落ちた土蜘蛛の足を、刀で、下から受け止めた。

 どん。
 と、その衝撃波で、火花が散り、眩しく光る。突風が巻き起こる。水場がちゃぷちゃぷと揺れた。

 凄い力だ。
 ぐぐっと押され。刀と土蜘蛛の足が交差して、圧し合う。

(なるほど、あちらさんも、なりふり構ってられないってところか)

 氷雪は払いのけ、水池のなかを走った。
 波紋がいくつか残る。土蜘蛛は氷雪の後を追い、三、四、と前足をあげ、攻撃をした。受け、払う。土蜘蛛よりも前に出る。

 銀の髪を靡かせて、立ち止まると。氷雪は、水を蹴り、跳躍する。土蜘蛛よりも頭上高く飛ぶ。体が銀色に煌めく。皮膚が鱗に変化し、大きく膨れ上がる。土蜘蛛よりも大きく。高く渦を巻く大蛇。尾を地面に叩き付ければ、その衝撃で、地面の水が飛び跳ね、ゴゴゴと震動した。

邪骨刀(じゃこつとう)を使うほどでもない」

 瞳孔を開き、舌をチロリと出し大蛇は言う。
 邪骨刀は、神剣。己の骨で創った刀だ。

 土蜘蛛は、すっかり小さく見える。その体に大蛇は巻き付いた。ぎゅうぎゅうと、奇妙な軋む音を立てながら、締め付けられ、土蜘蛛の体が、歪んでいく。

『蝶子……ちょう』

土蜘蛛から響く、か細い声が途切れる。と、ぶちゃ。土蜘蛛は潰れ、黒い霞へと変わり、水池に散乱した。

 ぱしゃり、ぱしゃりっと池から、仙魚が跳ね出して、霞を吸い込み、むしゃぶり食い尽くす。

 氷雪の体が再び、銀に光り、人間の姿に変わる。童子たちは鬼門を塞ぐために、手のひらを鬼門に向けていた。

 銀色の雲が蛇状になり、鬼門をぐるりと渦を巻いて包む。そこから、浄化の雨が降る。はらはらと降る雨に鬼門は、徐々に薄れ、すっと消えて、閉じた。
 氷雪は、がくりと膝をついた。

「雪」

 氷雪の様子に、童子たちは顔色を無くし、駆け寄った。

「大丈夫だ」
「でも、このところ、邪物に触れすぎだよ」

 童子たちは訴えた。
 神様とて、邪に触れれば、ただでは済まない。最悪、死に至ることもある。

「大したことはない」
「雪。腕が」

 童子たちは、ぎょっとする。氷雪の右手が、どす黒くなっていた。氷雪は硬い笑顔を童子に見せる。童子たちは傷ついたような表情を浮かべた。これは、なぜ土蜘蛛を刀で倒さなかったのか、悟られてしまったようだ。

「はは。しくじった。土蜘蛛の毒足が、掠めてな」

 毒の回った右腕では刀は使えない。痺れ、力が入らない。そのうえ、大蛇になって、土蜘蛛に巻き付いたことで、全身に土蜘蛛の剛毛が刺さり、そこから毒が回っている。言えないが。

 格好つけて、平気なふりをしているが、痛みが全身に駆け巡っていた。
 この失態は己の過信からだ。

 こんなに手こずるはずではなかったのだが。
 こんなところを蝶子に見られたくは無い。それに蛇の姿も二度と見せたくない。

 あの怯えきった顔を見ると、こんな化け物の姿を醜く思える。
 童子たちは目にいっぱい、涙を溜めて氷雪を囲った。安心させてやりたいけれど、余裕がなく、氷雪は背を丸めた。

「くっ」

 力が、ますます入らなくなってきた。だから、邪物は厄介なのだ。

「雪。揺り篭に行こう」

 揺り篭に入れば明日には、黒くなった腕や体は綺麗に元通りになっているだろう。

「あそこは、寒い。寒くて、朝が辛いんだが……」

 体が冷えて、動くのがままならない。あまり入りたい所ではない。
 童子たちは、小さな手を伸ばして、氷雪の服を、ぎゅっと掴んだ。

「蝶子に、言っちゃうよ」

 脅しのような叱咤に、氷雪は「わかった。蝶子には言うな」と釘を刺した。
 水辺は静まり返る。氷雪は溜め息を吐いた。

 のろのろと重い足を引きずって、東の門の鳥居を潜り、屋敷のなかに入って行く。

 童子たちに促されて、屋敷の奥にある、奥の間の、揺り篭へと向かった。
 氷雪は皮肉めいた笑みを零す。

 また、明日は日向ぼっこをしないと、まともに動けないな。氷雪は、ぼそりと呟いた。