ぱっと視界が開くとそこは、数多ある商店街だった。
飲食店、呉服店、雑貨、あらゆる種類の店が連なっていた。
「いらっしゃい。いらっしゃい」
ざわざわと絶えず落ち尽きなく、あちらこちらから、元気な声が飛び交っている。蝶子は口をあんぐりと開けて、棒立ちで仙天横町を見回した。
猫っぽい者。狸っぽい者。狐っぽい者。はたまた、見たことも無いような異形の者が、売ったり、買ったりしていた。
よく見ると、至る所に朱色の鳥居があり、そこから多種多様な種族の者たちが出入りしていた。かくいう、蝶子が潜ってきた鳥居からも、続々と、うしろから、よくわからない生き物が出入りしていた。
「蝶子、そこに立っていると、他の者の邪魔になる」
「は、はい」
蝶子はキョロキョロして氷雪を追った。つい、誰かにぶつかりそうになる。氷雪は振り返り、蝶子を守る様に、歩調を合わせた。
「ごめんなさい」
「よい。好きなだけ観覧しなさい」
ふと、人垣を見つけた。心地の良い三味線の音色が響き、蝶子は興味を惹く。氷雪も気になったのか、無言で向かった。
そこには、煌びやかな着物を着た、二尺(約60センチ)ほどの人形が、舞台の前で立ち回りしていた。真っ白な、お顔は繊細で穏やか、が、一瞬で鬼の形相に変わり、蝶子は驚いた。辺り一面で、拍手喝采が起こる。
「人間界に流行っている、浄瑠璃だ」
「初めて見ました」
氷雪は得意げに、にまっと笑い、両方の腕を交差させ組んだ。
しばらく浄瑠璃を見て、氷雪はおひねりを投げると「行こう」と言った。まだ見ると言う童子を引きずって、蝶子と呉服店へと向かった。
暖簾を潜り、店に入ると人型をした女将が、奇人を見る目をした。
「いらっしゃい。あれまぁ。お前さん、なんて格好してるんだい」
女将は口に手を当てて言った。蝶子は未だに大きな氷雪の服を着ていて、羞恥で、ほんのり頬を染める。氷雪は、ひょうひょうと女将に言う。
「なにか似合いそうな、今すぐ着れる服を見繕ってくれ」
「はいよ」
「それと、良さげな反物を何点か。着物の仕立ても頼みたい」
蝶子は、ぎょっとする。
「いえ、そんな、お金が勿体ないです。古着で十分ですし、なにか安い反物があれば、わたしが縫います」
そう氷雪に訴えるが、一切聞き入れられず、女将と氷雪と童子まで加わって、こっちのが似合う、あっちがいい、本人そっちのけで言い争っていた。
「お嬢ちゃん、とりあえず、これに着替えな、さぁさぁ、こっちにおいで」
女将は嬉しそうに、店の奥へと蝶子を連れて行った。いいのかしらと戸惑いながらも、着せ替え人形の様に、蝶子は肌触りの良い着物を着せられた。白生地に赤い牡丹。金色と銀色の蝶がバランスよく描かれた、友禅染の着物だった。
着終わった蝶子は、そろそろと店に顔をだす。一瞬、氷雪が固まったようにみえた。着物が上等すぎて不釣り合いだったのだろうか。
「良さそうだな」
氷雪は目を泳がせてコホンと咳払いをする。やはり、見るに堪えない姿なのだろう。蝶子は手をぎゅっと握った。
畳のうえに購入した反物が重ねられているのが目に留まり、ぎょっとする。
(こんなに沢山……)
蝶子は恐縮過ぎて、怒られるのではないかと、上目使いで氷雪の様子を窺う。その目はどこまでも朗らかで、澄んでいた。
「次に行こう」
「えっ」
「髪飾りが欲しいな」
言葉の意味を考えると、髪飾りも買うということだろう。
これ以上買っていただくなどと申し訳ない、蝶子が断ろうと言葉をあぐねていると、氷雪はさっさと店を出て行き、蝶子はそのあとを追った。
櫛屋へ入店すると、綺麗な彫刻や絵柄をした、つげ櫛が並んでいた。奥には簪まである。蝶子は居たたまれなくなり、口を開いた。
「あの、氷雪様。櫛なら、わたし、持っています」
「持っている?」
蝶子は、どうしても捨てられなかった櫛を、帯から出した。櫛の歯は、ほぼ欠けて、みすぼらしいが、蝶子は大切にしていた。
「それは?」
「えっと、昔、貰ったんです」
「誰に」
心なしか、氷雪の目が冷たく、細められた様な気がした。
「村に住む……啓太から」
「男から」
なぜでしょうか、少し怖い。背筋がぞくぞくさせながら蝶子は頷いた。
「えっと、なので買わなくても」
「捨てなさい」
「えっ。でも」
「それほどまでも、大切な物なのか、あの、白牡丹の花びらの栞よりも、大切なのか」
「いえ、栞は一番の宝物です。ですが」
「なら、こちらに渡しなさい」
なぜ、そんなことを申されるのだろうか。
蝶子は渋い顔をしながら、啓太から頂いた櫛を手に持ち、思案する。童子たちは氷雪から三歩離れて、なぜかジト目を送っていた。
「うわ~」
「最低です」
氷雪が手を差し出す。
「蝶子」
きっと、持っていてはいけない理由があるのだろう。蝶子は頷くと、ずいっと櫛を氷雪に手渡した。
氷雪は優しげに笑いながら、氷の様な目で──バキ。と、櫛を二つに折った。蝶子は突然のことに唖然とした。
(折ってしまわれた)
「最低です」
なにやら、さらに童子たちが氷雪から二歩下がって、ボソボソと言い合っていた。氷雪はジロリと童子たちを睨む。「はっぴゅ」と変な息を吸って、童子たちは怯えたように、両手で口を押さえた。氷雪は目を細める。
「帰りに金平糖を買ってやろうと思ったが、いらないようだな」
「はぴゅ」
「はぴゅ」
「はぴゅ」
童子たちは言うと、半泣きになり、わらわらと氷雪の膝元に掛けよって、裾を掴んで訴えた。
「生類憐れみの令ぃぃぃ」
「命ある生き物の殺生を禁ずるぅぅぅ」
氷雪はすかさず、反論する。
「阿呆が、誰が殺生をした。それに、くだらん悪法を持ち出すな。犬公方など」
「憐れみ」
「憐れみ」
「憐れみ」
童子たちは一致団結して講義した。
蝶子は頭を巡らす。生類憐れみの令は、確か、蝶子が産まれる、ずっと前の法令だったはず。蝶子の父は鷹匠だったし、祖父は御鳥見の仕事だった。そのもっと前の時代のことだ。
なんだったか、犬を縄で縛ってはいけない。とか、怪我した犬を見かけたら助け治療しないといけない。とか、犬を放置し、虐待する者は斬り殺されたり、罰を与えられたとかの法令だったと、蝶子は思い出す。
(あれって、将軍様が犬年のお産まれだったから、犬の殺生を禁じていたとか、だったかしら)
そんな昔の歴史まで知っている童子に驚き、見た目と知識とは、随分と掛け離れているように思えた。
童子たちは、はらはらと涙まで流し出した。それほどまでに、金平糖が欲しいのならば、蝶子に櫛を買うよりも、童子たちに、金平糖を買い与えて欲しいと、可哀想になった。
「あの」
蝶子が言いかけたところで、店の外から、白い中型犬が店に入り、蝶子の言葉を奪いさった。
「てやんでい、犬って呼んだか」
へっへっへっと舌を出して犬は氷雪に近づく。氷雪の回りは、可愛らしい生物に囲われていた。
「なんでもない」
「おいら、耳はいいんだ。犬って、言っただろう、そう聞こえたぞ」
「生類憐れみの令」
「まだ、言うか」
童子たちの悲しそうな訴えに、氷雪は溜め息を吐く。しかし「生類……」と犬は呟くと、みるみるうちに、恐ろしい形相に変わっていった。頭の毛と胸の毛が、わさわさと黒くなっていく。
「あの、クソ、悪法かぁ、人間めぇ」
牙を剥き出し、蝶子は、その変貌ぶりに戦慄き、一歩下がる。
「クソ、クソ。てやんでぇ。バカ野郎が。憐れみだって、なにが憐れみだ。おいらの仲間は増やすだけ、増やしやがって、狂犬病になって気が狂うは、最終的には、犬収納所に詰め込まれて、処分されたんだぞ、この野郎」
「処分……」
蝶子は、ぼそりと呟いてしまった。
「そうでぇい、処分たら、処分だ」
後ろ足をタシタシと蹴って興奮している犬に、さっと氷雪は蝶子を庇うように前に立ちはだかった。蝶子は目をしばたいた。
「おい。怒りを抑えろ。地獄に行きたいか」
どす声で氷雪が言うと、犬は、はっとしたようだった。
「いけねぇ。つい腹が立って、人間全部を嫌ってるわけじゃねぇーんだった。餌もくれたりする、優しい奴もいたしな。それに、おいらは運がいい。なにせ処分された跡地に、桃の花を植えてもらえたから、怨みを浄化されて、ここにいられるんだからなぁ。怨みを持ったままの仲間なんて、未だに、がりがりに痩せ細って、ひもじくて、お腹もいつも空かせて、地獄に落ちちまった。それも、そこで人間を怨みながら、働いてるって聞いたぜ。ああは、なりたくないねぇ。その点、おいらは、ここで、届け物屋として、働かせてもらってる。うんうん。おいらは、飛脚なんかより、早いからね。えっへん」
犬は言いながら、落ち着いてきたのか、黒に染まりかけた毛が、真っ白な毛に戻った。氷雪の顔に警戒の色が解かれた。蝶子は生唾を飲んだ。
神様の世も色々あるようだ。
「店主。手紙だよ。ここに置いておくぜぇ」
そう犬は言うと、手紙を口で咥え机の上に置き、ご機嫌にお尻を振って「ルンタ。ルンタ」と言いながら後足をリズムよく蹴って、店をあとにした。
「犬畜生が」
ぼそりと氷雪はぼやくと、くるりと蝶子の真っ正面に立った。
「さぁ、櫛を買おう」
「えっと……」
うやむやにして終わらせようとしていたのだが。
蝶子は氷雪の絶対に買う。とゆう圧に勝てず、椿の彫刻の、つげ櫛を買ってもらった。そのついでに、青い鹿の子(リボン)も付いてきた。
こんなに買ってもらっていいのだろうか。
蝶子は遠慮して安物を選ぶが、ことごとく、氷雪に却下され、上等な贈り物を頂いた。
「金平糖」
「金平糖」
「わかったから、騒ぐな」
一行は櫛屋を出た。童子たちは嬉しそうに兎のように、ぴょんぴょこ道路で跳ねると「飛ぶな」と氷雪は注意して叱った。
「さぁ、次に行くか」
「他にも、なにか買われるのですか」
蝶子は、耳を疑った。すでに反物につげ櫛をいただいている。これ以上は申し訳無い。
「俺の店に行く」
「氷雪様の店?」
神様とは祀られるだけの存在だと思っていた。
商いをする神様に蝶子は首を傾げた。
「神だろうが生活があるからな。それに、金はタダでは、懐に入って来ない」
そうか。高天原でも市場があるのだ。物買いするのに、先だった金は不可欠。
人間界だろうが天界だろうが、勝手にお金が入ってくる訳がない。
蝶子の顔が曇った。いったい今日だけで、どれだけ、お金を使わせてしまったのだろうか。
たかが蝶子に、高価の物を買い与えてくださった。
たかが蝶子のために、貴重なお金を使わせてしまった。
そのお金は、氷雪が汗水垂らして働いた対価だ。
気が塞ぐ蝶子。
しかし、氷雪は蝶子の様子に目ざとく気が付き、心配そうにした。
「どうした蝶子。まだ体調が悪いか」
「いえ」
どうやら、沈んでいる理由には気づかれていないようだ。
微笑を浮かべる蝶子に、氷雪はそれでも心配げに見下ろしてくる。視線を感じるが、蝶子は下を向いて、足取り重く、とぼとぼと歩いた。
しばらく沈黙が続く。
ある果物店の前を通ると、長い白髭のお爺さんが、唐突に声を掛けてきた。
「風邪気味なら、桃がいいぞ。どうだ。買わんか」
どうやら、先ほどの会話を盗み聞きしていたようだ。
とんだ、地獄耳である。
人の良さそうな、しわくちゃな笑顔を老人はして「甘いぞ」と促す。
商売上手の老人は、答えを聞かずに、枯れ木のような痩せた指で「これが旨そうだ」と勝手にみずみずしくて大きな桃を差した。
氷雪は足を止めた。
「いるか」
覗き込むように蝶子を見て氷雪は聞くが、蝶子は首をフルフルと横に振った。
これ以上、買っていただくなどできない。
「いる」
ところが、横合いから、ピシッと垂直に小さな手が十三本あがり、真剣な面持ちで童子たちが、氷雪におねだりをした。氷雪の眉間に深い縦皺が刻まれる。
「お前たちに、聞いたんじゃないんだが」
「蝶子もいるって」
「言ってないだろう」
「欲しいよね。蝶子」
「ね、ね。蝶子いるよね」
蝶子は童子たちに答えてあげたいが、お金を持っていない。蝶子が買うわけではないので困り果てた。蝶子を見かねてか、氷雪は溜め息を吐いてから言葉を挟む。
「蝶子を困らせるな」
氷雪は蝶子の意見も聞かずに「店主、桃をくれ」
と言うと、美味しそうな桃を八個、買った。
「もーも」
「もーも」
童子は、声を揃えて桃が手に入ったことを喜んだ。
「桃は冷やして食べると美味しいね」
「甘くて、じゅわっと滴る蜜。早く食べたい」
「今から、ひとつ」
「食べるな」
次から次へと言葉が飛び交い、氷雪の一声で、童子たちは黙った。
老人から桃を童子の小さな手に、ひとり、ひとりに渡され、ひとにがほくほくとしながら、懐から風呂敷を出した。浅黄色の風呂敷をひらりと広げると、そのなかに童子たちは桃を、ひとつずつ置いていく。ひとには桃を包み、しっかり風呂敷を縛る。すると、どうしてか、膨らんでいた風呂敷が、ぺたんっと、ただの風呂敷になった。
呉服店でも驚いたが、風呂敷の中身は、転送されて屋敷に届くらしい。
「まいどあり」
老人は嬉しそうにしていた。まだ何かをねだりそうな童子に、氷雪は促した。
「行くぞ」
しかし、童子たちの嬉しそうな表情と裏腹に、氷雪の顔は堅かった。
もしや、お金が底を尽きてしまったのでは無いかと、蝶子はちらちらと不躾に氷雪を見て伺う。しばらく歩いてから、氷雪は、ぽつりと呟いた。
「さっきの老人は、元は名のある神様だったんだ」
蝶子は予想外の言葉に目を丸くした。
お金の心配をされていた訳ではないことに、少し安堵するが、先ほどの老人の素性に蝶子は驚いた。
どこからどう見ても、気のいいご老人だったが。
「神様だったんですか」
「ああ。あれは、神落ちをした者だ」
「神落ち……」
となると、すでに神ではない。
どんなことをされれば、神落ちをするのか、蝶子にはわからなかった。
氷雪は着物の袖に、両手を入れて組んだ。
「立派な、山の主だったんだが、人間が、銀金を発掘するために山を切り開き、汚染させ、山や川を壊してしまったんだ」
「そんな」
神落ちされた理由が、人間の利己主義の犠牲だと知り、蝶子は眉をひそめる。
「あの方は、荒神になることを拒んで、神落ちされ、ここで働いている。仙天横町は、人ならざぬ者の住み処でもあるからな」
「荒神様」
神落ちと荒神様の違いが蝶子にはわからなかった。
「荒神とは正気を失われた、神のことだ。神とは名ばかりで、やっていることは鬼と変わらない。すべての生き物を憎み殺す、殺戮の神になるだけ」
荒神の恐ろしさに、蝶子は自然と手のひらを握りしめた。
そんな恐ろしい神になどなりたくないだろう。
だから、老人は荒神になることを拒み、神落ちして、働いているのだ。
蝶子は、ちらりとうしろを見た。老人はふぉふぉふぉっと楽しげに笑って商売をしているようだった。その過去に、どれだけ辛い思いをされたのだろうか。
蝶子が老人のことを想像していると、氷雪は寂しげに言った。
「あの方は、俺の末路かもしれないな」
「えっ」
驚いて、蝶子は顔をあげた。氷雪は寂しげに微笑を浮かべた。
「いずれは蛇神の森も人間の手によって、無くなるだろう」
無くなる。
あの綺麗な山が。
蝶子は言葉を詰まらせる。
考えもしなかった。蛇神の森がなくなるなんて。
「そんな顔をするな。いずれだ。まだ、遠い先の話だ」
それは蝶子が生きている間なのか、死んだあとなのかはわからない。それでもいずれは、緑深い蛇神の森は失われる。
森が無くなっては氷雪の居場所がなくなる。あの老人の様に氷雪も、なってしまう。
慰める言葉すら浮かばず、蝶子は自分の不甲斐なさに恥じた。
無言で、てくてくと歩いていると、氷雪は「ここだ」と、足を止めた。
老人のことで忘れていたが、氷雪の店に向かっていたのだった。
店はこぢんまりとした瓦屋根の店だった。紺の暖簾の商標は蝶の絵柄で、屋号には『かはひらこ』と書かれていた。
「他にも店はあるが、ここを中心に商いをしている」
「他にもあるのですか」
多店舗もあるとは、どうりでお金を湯水ように使われるわけだ。氷雪は何でも無いように頷く。
「蛇神の森の特産物を多店舗で売ったりもしているが、そんな物は、ここいらにはゴロゴロあるからな、今から入る店は独自に開発した物しか売っていない。さぁ、入りなさい」
「はい」
蝶子が頷くと、氷雪は蝶子が通りやすいように暖簾を押さえてくれた。その自然な動きに、蝶子はくすぐったさを感じた。蝶子が暖簾を潜ると氷雪も手を離し、あとに続き、店内に入る。
明るい外から、薄暗い店内に目が収縮をする。
店内は、点々と散りばめられた照明があり、瞬く星々の中に身を投じているようだった。
落ち着いた雰囲気の店は、氷雪らしさを醸し出している。
目をこらすと、店内の明かりは、幾つかの透明な水の球体で、ふよふよと飛んでいた。
蝶子は当惑した。
明らかに蝋燭や行灯の光とは異なっていた。
傍らに立つ氷雪は袖のなかに両手を突っ込み、首をしゃくって球体を差した。
「あれは、蛇神神社の、ご神木の木霊たちだ」
「木霊様ですか」
どうやら水の球体は精霊だったようだ。
初めて蝶子は木霊の存在を確認し、少し、嬉しくなった。
(このような、お姿をされているのですね)
可愛らしい木霊に、蝶子の頬が緩む。
木霊は、掌サイズの球体で店内に無数に飛び交っていた。ほんのりと黄緑に発光し、まるで蛍火のようだった。
(綺麗)
蝶子は、その優美さに、しばし見入った。
『イラッシャイマセ』
突如、頭の中で子供の片言が響いた。驚いていると、ひとつの木霊が蝶子の目前まで、ふよふよと飛んで来て、体をくねらせる。
どうやら、お辞儀をしているようだ。
ふふっと蝶子は笑い、同じ様にお辞儀をした。
先ほどの甲高い声は木霊のものだろう。
と、ぽろんっと琴の音色が聞こえて来た。店の片隅に置かれた琴の玄が弾かれる。五玉の木霊が、飛び跳ねて、楽しそうに琴を奏でていた。
他の木霊は机のうえをコロコロと転がっているものもいる。机は何脚かあり、竜や朱雀、花の柄等の立派な香炉が、たくさん置かれていた。
壁の棚には高価そうな香木が瓶に詰まれて並ばれ、他にも、細長いお香や、三角の形のお香もあった。
お店に入った瞬間から、いろいろな香りがしたが、どうやらここは、お香のお店のようだ。
そこに、ふわっと急に、甘く優しい香りが一段と匂い立つ。蝶子はそちらに目を落とす。二玉の木霊が、香炉を頭に乗せて、ふわふわと蝶子の近くまでやって来た。嗅いだことのある香り。そうだ。
(氷雪様から香る匂いだわ)
原料が気になって蝶子は木霊に聞いた。
「この香りは、なにを使われているのですか」
『ぽけけけ』
『ぱぺぺぺ』
木霊からは不明瞭な言葉が返えってきた。
(言葉がわからなかったかしら)
蝶子は戸惑う。と、裾をつんつん捕まれて、蝶子は目線を落とした。
「蝶子。練り香水もあるよ」
木霊との会話を遮られ、童子の、ろくねが手のひらの陶器を蝶子にかかげた。
どうやら、匂いを嗅いで欲しいようだ。
店の奥には、多種多様の陶器が並ばれている。練り香水も売っているようだ。蝶子はしゃがんで、ろくねの持つ陶器に鼻を近づける。
「あれ、この香り」
お香よりも少し甘い香りだが、またしても、氷雪から香る匂いと同じだった。
「あの、この香りは、いったい……」
ろくねは黙ったまま、にこにこしている。
「えっと……」
答える気が無いのか、ろくねは笑顔を絶やさない。
なるほど、きっと企業秘密なのだろう。
蝶子は納得し、ろくねに微笑んだ。
蝶子がろくねの笑顔に和んでいると、背後を覆うように、氷雪が身をかがめ、蝶子の肩に、そっと触れた。
「その香りでいいか」
間近で聞く、吐息混じりの声に、蝶子の首筋がぞわりとした。
体温で香水の匂いは変わると聞くが、氷雪からは、さらに甘い芳香がした。さらさらの銀髪が蝶子の頬を掠める。
氷雪は、ろくねの持つ練り香水を、すっと受け取ると、体をあげた。肩から手が離れた。体温が遠のく。蝶子は、なぜか、かっと体が熱くなった気がした。
どうしたのだろうか。
まともに氷雪の顔を見られない。そわそわする。
感じたことの無い感情に蝶子は困惑した。
「この練り香水を蝶子に」
しかし、氷雪の言葉に一瞬で我に返り、蝶子は立ち上がった。
氷雪は、あろうことか、高価な練り香水まで贈り物として蝶子に渡そうとしていた。
「そんな、これほど沢山の物を買って頂いたのに、こんな高価なものなど」
「夫からの贈り物だ。不服か」
少し口を尖らせてみせる氷雪が、拗ねているように思えた。蝶子は目をぱちくりさせ、意気込みがすっかり萎えてしまう。
「いえ」
「そうか」
嬉しそうに口の端で笑う氷雪に、蝶子は足の力が抜けそうになった。
木霊が練り香水を、蝶柄の紙で包装する。氷雪は木霊から練り香水を受け取ると、蝶子に手渡し、蝶子は「ありがとうございます」と言って受け取った。
紙に包まれていても、仄かに香る練り香水。氷雪と同じ香り。血潮がざわめく。
(なぜ、氷雪様は、ここまで良くしてくださるのでしょうか)
忌み嫌われきた蝶子に、ここまですることはない。
不思議に思いながら、蝶子は店を出た。
「金平糖」
「金平糖」
「わかったから、喚くな」
店を出るなり、童子たちは氷雪の周りをうろついて、一斉に金平糖を要求する。氷雪は面倒くさそうにあしらい、シッシッと手で追い払う動作をした。
童子と氷雪を見ていると蝶子は幸福な気持ちになる。
「早く、早く」
さんねが蝶子の左手を握り、引っ張る。ななにが蝶子の右手をとって、ぶらぶらと振る。数人の童子たちが氷雪と蝶子の背を押した。
お店に着くなり、童子たちは一目散に金平糖に集まった。
「まったく」
そう言う氷雪の眼差しが憂いを帯びていて、蝶子は胸が温かくなる。
金平糖は透明な丸い瓶に収められて、色鮮やかな宝石のようだった。
童子たちは金平糖を買って貰うと、大事そうに抱えた。ついでとばかりに「ぽっぺん」と、ガラスの玩具を見つけ、氷雪に「欲しい」と言っていた。
「買わない」
「むー」
蝶子は笑いたくなるのを抑えた。
ふと、蝶子は氷雪の優しい眼差しを横目で見上げる。
初めこそ、蛇の姿に戦慄いたし、今も、あの姿を見ればきっと怖い。
(氷雪様は、いったいなぜ、わたしを嫁にしたのでしょうか)
蝶子など嫁にして、なんの得にもならないのに。
もしや、くじ引きでもして当てたのが、たまたま蝶子だったのだろうか。
稚拙な発想だとは思う。しかし、それ程までに、不思議でならなかった。
村にお告げがあったと聞いたが、真実はわからない。
蝶子は、じっと氷雪を見る。
「ん? どうした」
「いえ」
食い入るような視線に、氷雪は不快に感じたのかもしれない。蝶子はさっと目を逸らす。
「危ない」
よそ見をしたいたことで、蝶子は正面から向かってくる猫娘の出で立ちをした者とぶつかりそうになる。氷雪は蝶子の肩を掴み、強く抱き寄せた。
「気を付けなさい」
「はい」
布越しでも分かる体温。
どうして、ここまで良くしてくれるのだろうか。
これほどまでに親切にしてくれた人など、両親以外に誰もいなかった。
(なにか、氷雪様の役に立つことをしたい)
蝶子は、心からそう思えた。
飲食店、呉服店、雑貨、あらゆる種類の店が連なっていた。
「いらっしゃい。いらっしゃい」
ざわざわと絶えず落ち尽きなく、あちらこちらから、元気な声が飛び交っている。蝶子は口をあんぐりと開けて、棒立ちで仙天横町を見回した。
猫っぽい者。狸っぽい者。狐っぽい者。はたまた、見たことも無いような異形の者が、売ったり、買ったりしていた。
よく見ると、至る所に朱色の鳥居があり、そこから多種多様な種族の者たちが出入りしていた。かくいう、蝶子が潜ってきた鳥居からも、続々と、うしろから、よくわからない生き物が出入りしていた。
「蝶子、そこに立っていると、他の者の邪魔になる」
「は、はい」
蝶子はキョロキョロして氷雪を追った。つい、誰かにぶつかりそうになる。氷雪は振り返り、蝶子を守る様に、歩調を合わせた。
「ごめんなさい」
「よい。好きなだけ観覧しなさい」
ふと、人垣を見つけた。心地の良い三味線の音色が響き、蝶子は興味を惹く。氷雪も気になったのか、無言で向かった。
そこには、煌びやかな着物を着た、二尺(約60センチ)ほどの人形が、舞台の前で立ち回りしていた。真っ白な、お顔は繊細で穏やか、が、一瞬で鬼の形相に変わり、蝶子は驚いた。辺り一面で、拍手喝采が起こる。
「人間界に流行っている、浄瑠璃だ」
「初めて見ました」
氷雪は得意げに、にまっと笑い、両方の腕を交差させ組んだ。
しばらく浄瑠璃を見て、氷雪はおひねりを投げると「行こう」と言った。まだ見ると言う童子を引きずって、蝶子と呉服店へと向かった。
暖簾を潜り、店に入ると人型をした女将が、奇人を見る目をした。
「いらっしゃい。あれまぁ。お前さん、なんて格好してるんだい」
女将は口に手を当てて言った。蝶子は未だに大きな氷雪の服を着ていて、羞恥で、ほんのり頬を染める。氷雪は、ひょうひょうと女将に言う。
「なにか似合いそうな、今すぐ着れる服を見繕ってくれ」
「はいよ」
「それと、良さげな反物を何点か。着物の仕立ても頼みたい」
蝶子は、ぎょっとする。
「いえ、そんな、お金が勿体ないです。古着で十分ですし、なにか安い反物があれば、わたしが縫います」
そう氷雪に訴えるが、一切聞き入れられず、女将と氷雪と童子まで加わって、こっちのが似合う、あっちがいい、本人そっちのけで言い争っていた。
「お嬢ちゃん、とりあえず、これに着替えな、さぁさぁ、こっちにおいで」
女将は嬉しそうに、店の奥へと蝶子を連れて行った。いいのかしらと戸惑いながらも、着せ替え人形の様に、蝶子は肌触りの良い着物を着せられた。白生地に赤い牡丹。金色と銀色の蝶がバランスよく描かれた、友禅染の着物だった。
着終わった蝶子は、そろそろと店に顔をだす。一瞬、氷雪が固まったようにみえた。着物が上等すぎて不釣り合いだったのだろうか。
「良さそうだな」
氷雪は目を泳がせてコホンと咳払いをする。やはり、見るに堪えない姿なのだろう。蝶子は手をぎゅっと握った。
畳のうえに購入した反物が重ねられているのが目に留まり、ぎょっとする。
(こんなに沢山……)
蝶子は恐縮過ぎて、怒られるのではないかと、上目使いで氷雪の様子を窺う。その目はどこまでも朗らかで、澄んでいた。
「次に行こう」
「えっ」
「髪飾りが欲しいな」
言葉の意味を考えると、髪飾りも買うということだろう。
これ以上買っていただくなどと申し訳ない、蝶子が断ろうと言葉をあぐねていると、氷雪はさっさと店を出て行き、蝶子はそのあとを追った。
櫛屋へ入店すると、綺麗な彫刻や絵柄をした、つげ櫛が並んでいた。奥には簪まである。蝶子は居たたまれなくなり、口を開いた。
「あの、氷雪様。櫛なら、わたし、持っています」
「持っている?」
蝶子は、どうしても捨てられなかった櫛を、帯から出した。櫛の歯は、ほぼ欠けて、みすぼらしいが、蝶子は大切にしていた。
「それは?」
「えっと、昔、貰ったんです」
「誰に」
心なしか、氷雪の目が冷たく、細められた様な気がした。
「村に住む……啓太から」
「男から」
なぜでしょうか、少し怖い。背筋がぞくぞくさせながら蝶子は頷いた。
「えっと、なので買わなくても」
「捨てなさい」
「えっ。でも」
「それほどまでも、大切な物なのか、あの、白牡丹の花びらの栞よりも、大切なのか」
「いえ、栞は一番の宝物です。ですが」
「なら、こちらに渡しなさい」
なぜ、そんなことを申されるのだろうか。
蝶子は渋い顔をしながら、啓太から頂いた櫛を手に持ち、思案する。童子たちは氷雪から三歩離れて、なぜかジト目を送っていた。
「うわ~」
「最低です」
氷雪が手を差し出す。
「蝶子」
きっと、持っていてはいけない理由があるのだろう。蝶子は頷くと、ずいっと櫛を氷雪に手渡した。
氷雪は優しげに笑いながら、氷の様な目で──バキ。と、櫛を二つに折った。蝶子は突然のことに唖然とした。
(折ってしまわれた)
「最低です」
なにやら、さらに童子たちが氷雪から二歩下がって、ボソボソと言い合っていた。氷雪はジロリと童子たちを睨む。「はっぴゅ」と変な息を吸って、童子たちは怯えたように、両手で口を押さえた。氷雪は目を細める。
「帰りに金平糖を買ってやろうと思ったが、いらないようだな」
「はぴゅ」
「はぴゅ」
「はぴゅ」
童子たちは言うと、半泣きになり、わらわらと氷雪の膝元に掛けよって、裾を掴んで訴えた。
「生類憐れみの令ぃぃぃ」
「命ある生き物の殺生を禁ずるぅぅぅ」
氷雪はすかさず、反論する。
「阿呆が、誰が殺生をした。それに、くだらん悪法を持ち出すな。犬公方など」
「憐れみ」
「憐れみ」
「憐れみ」
童子たちは一致団結して講義した。
蝶子は頭を巡らす。生類憐れみの令は、確か、蝶子が産まれる、ずっと前の法令だったはず。蝶子の父は鷹匠だったし、祖父は御鳥見の仕事だった。そのもっと前の時代のことだ。
なんだったか、犬を縄で縛ってはいけない。とか、怪我した犬を見かけたら助け治療しないといけない。とか、犬を放置し、虐待する者は斬り殺されたり、罰を与えられたとかの法令だったと、蝶子は思い出す。
(あれって、将軍様が犬年のお産まれだったから、犬の殺生を禁じていたとか、だったかしら)
そんな昔の歴史まで知っている童子に驚き、見た目と知識とは、随分と掛け離れているように思えた。
童子たちは、はらはらと涙まで流し出した。それほどまでに、金平糖が欲しいのならば、蝶子に櫛を買うよりも、童子たちに、金平糖を買い与えて欲しいと、可哀想になった。
「あの」
蝶子が言いかけたところで、店の外から、白い中型犬が店に入り、蝶子の言葉を奪いさった。
「てやんでい、犬って呼んだか」
へっへっへっと舌を出して犬は氷雪に近づく。氷雪の回りは、可愛らしい生物に囲われていた。
「なんでもない」
「おいら、耳はいいんだ。犬って、言っただろう、そう聞こえたぞ」
「生類憐れみの令」
「まだ、言うか」
童子たちの悲しそうな訴えに、氷雪は溜め息を吐く。しかし「生類……」と犬は呟くと、みるみるうちに、恐ろしい形相に変わっていった。頭の毛と胸の毛が、わさわさと黒くなっていく。
「あの、クソ、悪法かぁ、人間めぇ」
牙を剥き出し、蝶子は、その変貌ぶりに戦慄き、一歩下がる。
「クソ、クソ。てやんでぇ。バカ野郎が。憐れみだって、なにが憐れみだ。おいらの仲間は増やすだけ、増やしやがって、狂犬病になって気が狂うは、最終的には、犬収納所に詰め込まれて、処分されたんだぞ、この野郎」
「処分……」
蝶子は、ぼそりと呟いてしまった。
「そうでぇい、処分たら、処分だ」
後ろ足をタシタシと蹴って興奮している犬に、さっと氷雪は蝶子を庇うように前に立ちはだかった。蝶子は目をしばたいた。
「おい。怒りを抑えろ。地獄に行きたいか」
どす声で氷雪が言うと、犬は、はっとしたようだった。
「いけねぇ。つい腹が立って、人間全部を嫌ってるわけじゃねぇーんだった。餌もくれたりする、優しい奴もいたしな。それに、おいらは運がいい。なにせ処分された跡地に、桃の花を植えてもらえたから、怨みを浄化されて、ここにいられるんだからなぁ。怨みを持ったままの仲間なんて、未だに、がりがりに痩せ細って、ひもじくて、お腹もいつも空かせて、地獄に落ちちまった。それも、そこで人間を怨みながら、働いてるって聞いたぜ。ああは、なりたくないねぇ。その点、おいらは、ここで、届け物屋として、働かせてもらってる。うんうん。おいらは、飛脚なんかより、早いからね。えっへん」
犬は言いながら、落ち着いてきたのか、黒に染まりかけた毛が、真っ白な毛に戻った。氷雪の顔に警戒の色が解かれた。蝶子は生唾を飲んだ。
神様の世も色々あるようだ。
「店主。手紙だよ。ここに置いておくぜぇ」
そう犬は言うと、手紙を口で咥え机の上に置き、ご機嫌にお尻を振って「ルンタ。ルンタ」と言いながら後足をリズムよく蹴って、店をあとにした。
「犬畜生が」
ぼそりと氷雪はぼやくと、くるりと蝶子の真っ正面に立った。
「さぁ、櫛を買おう」
「えっと……」
うやむやにして終わらせようとしていたのだが。
蝶子は氷雪の絶対に買う。とゆう圧に勝てず、椿の彫刻の、つげ櫛を買ってもらった。そのついでに、青い鹿の子(リボン)も付いてきた。
こんなに買ってもらっていいのだろうか。
蝶子は遠慮して安物を選ぶが、ことごとく、氷雪に却下され、上等な贈り物を頂いた。
「金平糖」
「金平糖」
「わかったから、騒ぐな」
一行は櫛屋を出た。童子たちは嬉しそうに兎のように、ぴょんぴょこ道路で跳ねると「飛ぶな」と氷雪は注意して叱った。
「さぁ、次に行くか」
「他にも、なにか買われるのですか」
蝶子は、耳を疑った。すでに反物につげ櫛をいただいている。これ以上は申し訳無い。
「俺の店に行く」
「氷雪様の店?」
神様とは祀られるだけの存在だと思っていた。
商いをする神様に蝶子は首を傾げた。
「神だろうが生活があるからな。それに、金はタダでは、懐に入って来ない」
そうか。高天原でも市場があるのだ。物買いするのに、先だった金は不可欠。
人間界だろうが天界だろうが、勝手にお金が入ってくる訳がない。
蝶子の顔が曇った。いったい今日だけで、どれだけ、お金を使わせてしまったのだろうか。
たかが蝶子に、高価の物を買い与えてくださった。
たかが蝶子のために、貴重なお金を使わせてしまった。
そのお金は、氷雪が汗水垂らして働いた対価だ。
気が塞ぐ蝶子。
しかし、氷雪は蝶子の様子に目ざとく気が付き、心配そうにした。
「どうした蝶子。まだ体調が悪いか」
「いえ」
どうやら、沈んでいる理由には気づかれていないようだ。
微笑を浮かべる蝶子に、氷雪はそれでも心配げに見下ろしてくる。視線を感じるが、蝶子は下を向いて、足取り重く、とぼとぼと歩いた。
しばらく沈黙が続く。
ある果物店の前を通ると、長い白髭のお爺さんが、唐突に声を掛けてきた。
「風邪気味なら、桃がいいぞ。どうだ。買わんか」
どうやら、先ほどの会話を盗み聞きしていたようだ。
とんだ、地獄耳である。
人の良さそうな、しわくちゃな笑顔を老人はして「甘いぞ」と促す。
商売上手の老人は、答えを聞かずに、枯れ木のような痩せた指で「これが旨そうだ」と勝手にみずみずしくて大きな桃を差した。
氷雪は足を止めた。
「いるか」
覗き込むように蝶子を見て氷雪は聞くが、蝶子は首をフルフルと横に振った。
これ以上、買っていただくなどできない。
「いる」
ところが、横合いから、ピシッと垂直に小さな手が十三本あがり、真剣な面持ちで童子たちが、氷雪におねだりをした。氷雪の眉間に深い縦皺が刻まれる。
「お前たちに、聞いたんじゃないんだが」
「蝶子もいるって」
「言ってないだろう」
「欲しいよね。蝶子」
「ね、ね。蝶子いるよね」
蝶子は童子たちに答えてあげたいが、お金を持っていない。蝶子が買うわけではないので困り果てた。蝶子を見かねてか、氷雪は溜め息を吐いてから言葉を挟む。
「蝶子を困らせるな」
氷雪は蝶子の意見も聞かずに「店主、桃をくれ」
と言うと、美味しそうな桃を八個、買った。
「もーも」
「もーも」
童子は、声を揃えて桃が手に入ったことを喜んだ。
「桃は冷やして食べると美味しいね」
「甘くて、じゅわっと滴る蜜。早く食べたい」
「今から、ひとつ」
「食べるな」
次から次へと言葉が飛び交い、氷雪の一声で、童子たちは黙った。
老人から桃を童子の小さな手に、ひとり、ひとりに渡され、ひとにがほくほくとしながら、懐から風呂敷を出した。浅黄色の風呂敷をひらりと広げると、そのなかに童子たちは桃を、ひとつずつ置いていく。ひとには桃を包み、しっかり風呂敷を縛る。すると、どうしてか、膨らんでいた風呂敷が、ぺたんっと、ただの風呂敷になった。
呉服店でも驚いたが、風呂敷の中身は、転送されて屋敷に届くらしい。
「まいどあり」
老人は嬉しそうにしていた。まだ何かをねだりそうな童子に、氷雪は促した。
「行くぞ」
しかし、童子たちの嬉しそうな表情と裏腹に、氷雪の顔は堅かった。
もしや、お金が底を尽きてしまったのでは無いかと、蝶子はちらちらと不躾に氷雪を見て伺う。しばらく歩いてから、氷雪は、ぽつりと呟いた。
「さっきの老人は、元は名のある神様だったんだ」
蝶子は予想外の言葉に目を丸くした。
お金の心配をされていた訳ではないことに、少し安堵するが、先ほどの老人の素性に蝶子は驚いた。
どこからどう見ても、気のいいご老人だったが。
「神様だったんですか」
「ああ。あれは、神落ちをした者だ」
「神落ち……」
となると、すでに神ではない。
どんなことをされれば、神落ちをするのか、蝶子にはわからなかった。
氷雪は着物の袖に、両手を入れて組んだ。
「立派な、山の主だったんだが、人間が、銀金を発掘するために山を切り開き、汚染させ、山や川を壊してしまったんだ」
「そんな」
神落ちされた理由が、人間の利己主義の犠牲だと知り、蝶子は眉をひそめる。
「あの方は、荒神になることを拒んで、神落ちされ、ここで働いている。仙天横町は、人ならざぬ者の住み処でもあるからな」
「荒神様」
神落ちと荒神様の違いが蝶子にはわからなかった。
「荒神とは正気を失われた、神のことだ。神とは名ばかりで、やっていることは鬼と変わらない。すべての生き物を憎み殺す、殺戮の神になるだけ」
荒神の恐ろしさに、蝶子は自然と手のひらを握りしめた。
そんな恐ろしい神になどなりたくないだろう。
だから、老人は荒神になることを拒み、神落ちして、働いているのだ。
蝶子は、ちらりとうしろを見た。老人はふぉふぉふぉっと楽しげに笑って商売をしているようだった。その過去に、どれだけ辛い思いをされたのだろうか。
蝶子が老人のことを想像していると、氷雪は寂しげに言った。
「あの方は、俺の末路かもしれないな」
「えっ」
驚いて、蝶子は顔をあげた。氷雪は寂しげに微笑を浮かべた。
「いずれは蛇神の森も人間の手によって、無くなるだろう」
無くなる。
あの綺麗な山が。
蝶子は言葉を詰まらせる。
考えもしなかった。蛇神の森がなくなるなんて。
「そんな顔をするな。いずれだ。まだ、遠い先の話だ」
それは蝶子が生きている間なのか、死んだあとなのかはわからない。それでもいずれは、緑深い蛇神の森は失われる。
森が無くなっては氷雪の居場所がなくなる。あの老人の様に氷雪も、なってしまう。
慰める言葉すら浮かばず、蝶子は自分の不甲斐なさに恥じた。
無言で、てくてくと歩いていると、氷雪は「ここだ」と、足を止めた。
老人のことで忘れていたが、氷雪の店に向かっていたのだった。
店はこぢんまりとした瓦屋根の店だった。紺の暖簾の商標は蝶の絵柄で、屋号には『かはひらこ』と書かれていた。
「他にも店はあるが、ここを中心に商いをしている」
「他にもあるのですか」
多店舗もあるとは、どうりでお金を湯水ように使われるわけだ。氷雪は何でも無いように頷く。
「蛇神の森の特産物を多店舗で売ったりもしているが、そんな物は、ここいらにはゴロゴロあるからな、今から入る店は独自に開発した物しか売っていない。さぁ、入りなさい」
「はい」
蝶子が頷くと、氷雪は蝶子が通りやすいように暖簾を押さえてくれた。その自然な動きに、蝶子はくすぐったさを感じた。蝶子が暖簾を潜ると氷雪も手を離し、あとに続き、店内に入る。
明るい外から、薄暗い店内に目が収縮をする。
店内は、点々と散りばめられた照明があり、瞬く星々の中に身を投じているようだった。
落ち着いた雰囲気の店は、氷雪らしさを醸し出している。
目をこらすと、店内の明かりは、幾つかの透明な水の球体で、ふよふよと飛んでいた。
蝶子は当惑した。
明らかに蝋燭や行灯の光とは異なっていた。
傍らに立つ氷雪は袖のなかに両手を突っ込み、首をしゃくって球体を差した。
「あれは、蛇神神社の、ご神木の木霊たちだ」
「木霊様ですか」
どうやら水の球体は精霊だったようだ。
初めて蝶子は木霊の存在を確認し、少し、嬉しくなった。
(このような、お姿をされているのですね)
可愛らしい木霊に、蝶子の頬が緩む。
木霊は、掌サイズの球体で店内に無数に飛び交っていた。ほんのりと黄緑に発光し、まるで蛍火のようだった。
(綺麗)
蝶子は、その優美さに、しばし見入った。
『イラッシャイマセ』
突如、頭の中で子供の片言が響いた。驚いていると、ひとつの木霊が蝶子の目前まで、ふよふよと飛んで来て、体をくねらせる。
どうやら、お辞儀をしているようだ。
ふふっと蝶子は笑い、同じ様にお辞儀をした。
先ほどの甲高い声は木霊のものだろう。
と、ぽろんっと琴の音色が聞こえて来た。店の片隅に置かれた琴の玄が弾かれる。五玉の木霊が、飛び跳ねて、楽しそうに琴を奏でていた。
他の木霊は机のうえをコロコロと転がっているものもいる。机は何脚かあり、竜や朱雀、花の柄等の立派な香炉が、たくさん置かれていた。
壁の棚には高価そうな香木が瓶に詰まれて並ばれ、他にも、細長いお香や、三角の形のお香もあった。
お店に入った瞬間から、いろいろな香りがしたが、どうやらここは、お香のお店のようだ。
そこに、ふわっと急に、甘く優しい香りが一段と匂い立つ。蝶子はそちらに目を落とす。二玉の木霊が、香炉を頭に乗せて、ふわふわと蝶子の近くまでやって来た。嗅いだことのある香り。そうだ。
(氷雪様から香る匂いだわ)
原料が気になって蝶子は木霊に聞いた。
「この香りは、なにを使われているのですか」
『ぽけけけ』
『ぱぺぺぺ』
木霊からは不明瞭な言葉が返えってきた。
(言葉がわからなかったかしら)
蝶子は戸惑う。と、裾をつんつん捕まれて、蝶子は目線を落とした。
「蝶子。練り香水もあるよ」
木霊との会話を遮られ、童子の、ろくねが手のひらの陶器を蝶子にかかげた。
どうやら、匂いを嗅いで欲しいようだ。
店の奥には、多種多様の陶器が並ばれている。練り香水も売っているようだ。蝶子はしゃがんで、ろくねの持つ陶器に鼻を近づける。
「あれ、この香り」
お香よりも少し甘い香りだが、またしても、氷雪から香る匂いと同じだった。
「あの、この香りは、いったい……」
ろくねは黙ったまま、にこにこしている。
「えっと……」
答える気が無いのか、ろくねは笑顔を絶やさない。
なるほど、きっと企業秘密なのだろう。
蝶子は納得し、ろくねに微笑んだ。
蝶子がろくねの笑顔に和んでいると、背後を覆うように、氷雪が身をかがめ、蝶子の肩に、そっと触れた。
「その香りでいいか」
間近で聞く、吐息混じりの声に、蝶子の首筋がぞわりとした。
体温で香水の匂いは変わると聞くが、氷雪からは、さらに甘い芳香がした。さらさらの銀髪が蝶子の頬を掠める。
氷雪は、ろくねの持つ練り香水を、すっと受け取ると、体をあげた。肩から手が離れた。体温が遠のく。蝶子は、なぜか、かっと体が熱くなった気がした。
どうしたのだろうか。
まともに氷雪の顔を見られない。そわそわする。
感じたことの無い感情に蝶子は困惑した。
「この練り香水を蝶子に」
しかし、氷雪の言葉に一瞬で我に返り、蝶子は立ち上がった。
氷雪は、あろうことか、高価な練り香水まで贈り物として蝶子に渡そうとしていた。
「そんな、これほど沢山の物を買って頂いたのに、こんな高価なものなど」
「夫からの贈り物だ。不服か」
少し口を尖らせてみせる氷雪が、拗ねているように思えた。蝶子は目をぱちくりさせ、意気込みがすっかり萎えてしまう。
「いえ」
「そうか」
嬉しそうに口の端で笑う氷雪に、蝶子は足の力が抜けそうになった。
木霊が練り香水を、蝶柄の紙で包装する。氷雪は木霊から練り香水を受け取ると、蝶子に手渡し、蝶子は「ありがとうございます」と言って受け取った。
紙に包まれていても、仄かに香る練り香水。氷雪と同じ香り。血潮がざわめく。
(なぜ、氷雪様は、ここまで良くしてくださるのでしょうか)
忌み嫌われきた蝶子に、ここまですることはない。
不思議に思いながら、蝶子は店を出た。
「金平糖」
「金平糖」
「わかったから、喚くな」
店を出るなり、童子たちは氷雪の周りをうろついて、一斉に金平糖を要求する。氷雪は面倒くさそうにあしらい、シッシッと手で追い払う動作をした。
童子と氷雪を見ていると蝶子は幸福な気持ちになる。
「早く、早く」
さんねが蝶子の左手を握り、引っ張る。ななにが蝶子の右手をとって、ぶらぶらと振る。数人の童子たちが氷雪と蝶子の背を押した。
お店に着くなり、童子たちは一目散に金平糖に集まった。
「まったく」
そう言う氷雪の眼差しが憂いを帯びていて、蝶子は胸が温かくなる。
金平糖は透明な丸い瓶に収められて、色鮮やかな宝石のようだった。
童子たちは金平糖を買って貰うと、大事そうに抱えた。ついでとばかりに「ぽっぺん」と、ガラスの玩具を見つけ、氷雪に「欲しい」と言っていた。
「買わない」
「むー」
蝶子は笑いたくなるのを抑えた。
ふと、蝶子は氷雪の優しい眼差しを横目で見上げる。
初めこそ、蛇の姿に戦慄いたし、今も、あの姿を見ればきっと怖い。
(氷雪様は、いったいなぜ、わたしを嫁にしたのでしょうか)
蝶子など嫁にして、なんの得にもならないのに。
もしや、くじ引きでもして当てたのが、たまたま蝶子だったのだろうか。
稚拙な発想だとは思う。しかし、それ程までに、不思議でならなかった。
村にお告げがあったと聞いたが、真実はわからない。
蝶子は、じっと氷雪を見る。
「ん? どうした」
「いえ」
食い入るような視線に、氷雪は不快に感じたのかもしれない。蝶子はさっと目を逸らす。
「危ない」
よそ見をしたいたことで、蝶子は正面から向かってくる猫娘の出で立ちをした者とぶつかりそうになる。氷雪は蝶子の肩を掴み、強く抱き寄せた。
「気を付けなさい」
「はい」
布越しでも分かる体温。
どうして、ここまで良くしてくれるのだろうか。
これほどまでに親切にしてくれた人など、両親以外に誰もいなかった。
(なにか、氷雪様の役に立つことをしたい)
蝶子は、心からそう思えた。
