一週間が経った。
経ってしまったと言う方が正解かもしれない。熱は二日で引いたのだが、念のためと言われ、布団から出ることを許されなかった。大丈夫だと何度も訴えたのに。
蝶子は上布団を折り曲げ、上体を起こした。窓の襖からは、朝日が優しく差し込んでいる。
「今日こそは」
蝶子は意気込み、ぱんっと軽く両頬を打った。
(わたしってば、ここに来てから何もしてない)
やったことは、寝ているだけ。休んでいるだけ。ただ飯を食べているだけ。ただの穀潰しでしかない。このままではいけない。
蝶子は己の手を見た。働き詰めだった手が、綺麗になってきた。
水仕事で常にカサカサに荒れていた手。爪の中は、夏子お嬢様が好きなヤマグワの実を摘み、赤く染まっていた。枝や薪を獲りに、竹籠の背負子を担ぎ、山に登り縄が肩に食い込み、いつも肩は赤黒く痣になっていた。それもずいぶんと綺麗になっていた。
蝶子は腰まである髪を、すっと撫でた。
ここに来てから、童子に櫛で髪を解いてもらい、ぱさぱさだった髪が、艶やかになっている。
「今日こそは」
気合いを入れて蝶子は立ち上がると布団を畳み、元結(和紙のひも)で髪を結い、借り物の服を着て、部屋を出た。
******
「そーれ」
渡り廊下を通ると、童子たちが桃のようなお尻をあげて、競争しながら、廊下の水拭きをしていた。ふりふりと揺れる小さなお尻が、なんとも愛らしく、蝶子の心がほっこりした。
「あっ。蝶子、起きてきた」
「もう、いいの」
「まだ、寝ててもいいのに」
童子たちは蝶子に気が付くと、拭き掃除を止めて、わらわらと集まり、蝶子を囲んだ。
「はい。もうすっかり大丈夫です。あの、廊下のお掃除、わたしもお手伝いを」
と蝶子が言いかけると、童子たちは揃って、右手を歌舞伎役者のようにしてあげ、制した。
「蝶子は、なにもしなくていいよ」
「雪のお嫁さんなんだから」
(えっ。でも、お嫁だからこそでは)
蛇神様に食われないのならば、蝶子のすべきことは、家事全般をこなすことのはず。けれども、童子たちは頑なに、それを拒んだ。
「蝶子にそんなことさせたら、雪に、ぼくたちが怒られちゃうよ」
童子たちが叱られるのは、よろしくない。童子たちには童子たちの使命があるのだろう。来たばかりの蝶子が出過ぎたことをしてはいけない。
では、何をすればいいのだろうか。
蝶子が悩んでいると
「起きたか」
と、縁側の外から声が降ってきた。
(氷雪様のお声。あれ、でも、どこにいらっしゃるのかしら)
蝶子は中庭に目を向けた。
中庭は小池と剪定された松の木、紅葉の木が植えられていた。しっかりと朝日が差し込み、眩しさに蝶子は目を細めた。
かさり、と青葉の紅葉が一枚ひらりと舞い落ちる。その紅葉の木を見上げると、氷雪が太い幹に、またがり背中を凭れ、器用に本を読んでいた。
朝日に銀の髪が煌めく。かた足をだらしなく幹から下ろし、着物が少し乱れていて、艶やかだった。
「氷雪様。なぜ、そのような場所で、ご本を読んでいらっしゃるのですか」
つい、ぽろりと本音がでてしまい、蝶子は慌てて口を押さえる。
「あのね。雪はね、朝が弱いの」
「冬も弱いね」
「それ、言ったら、わたしたちも冬は苦手」
童子たちが、くいくいと蝶子の袖をひっぱった。
しかし、それと木の上で本を読むことと、何が関係しているのか理解が出来ず、蝶子は目を丸くした。
「雪は蛇だから、寒さに弱いの」
「だから、ああやって朝日を浴びて、体を温めているんだよ」
「低血圧? なんだよ」
蝶子の脳裏に、大蛇姿の氷雪が浮かび、背筋がすっと冷えた。それに朝とはいえ、葉月(八月)。暑くはないのだろうか。
「ぼくたちは、身を寄せ合って寝てるから平気」
「「「ねー」」」
声を揃えて童子たちは言った。
「うるさい」
氷雪はぴしゃりと言うが、童子たちは、へっちゃらの様子で、どうどうと言う
「雪は、朝は機嫌悪いよ」
「気を付けてね」
(えっと……どうやって気を付ければよいのでしょうか)
童子たちは言うだけ言って、散ると掃除を再開した。
「蝶子。体の調子は」
氷雪は軽々と木から飛び降りると、蝶子のいる方へと足を向けた。蝶子は少したじろぐ。
「もう、大丈夫です」
「そうか」
ふうっと氷雪は眉間に手を添えて、息を吐いた。どうも気怠そうに見える。それに顔が白い。
「あの……お加減が、お悪いのでは」
「いや。昨夜は、あいつが、しつこかったから、少し体調が優れないだけだ」
(あいつ……しつこい)
蝶子は僅かに左頬を引き攣らせた。
「お馬鹿ですね」
「お馬鹿ね」
「阿呆ですね」
廊下をたたたっと水拭きしながら、童子たちが口々に言うと、ようやく、氷雪は、はっとした。
「まて、何か勘違いをしていないか」
「いえ、わたしごときが氷雪様の生活に、口出しはいたしません」
「まて、まて、違うからな。言っておくが、蝶子以外に成人の女人は、ここには、いないからな」
「はぁ。そうなのですね」
「……それだけか」
「? はい。なにか」
「……嘘をついて、女がいるかもとか、腹が立つとかないのか」
「いえ、そのようなこと、思いもしませんし、いらっしゃるなら、わたしがお世話をしたほうが」
「いない」
ふいっと、ふて腐れたように、氷雪は顔をそむけると腕を組んだ。
やはり、朝は機嫌が悪いようだ。
「朝食は食べたのか」
「いえ、ですが」
普段、日に一食だけか、食べられない時がほとんどなので、働きもしないで朝食を頂くなど恐れ多い。しかし、言葉を出す前に氷雪は、童子たちに蝶子だけのために朝食を用意しろと命令した。申し訳なく必要ないと訴えたが、ちゃかちゃかと童子たちは「運ぶだけだから」と言って、お膳を運んで持って来た。
「雪もわたしたちも食べ終わったから、ゆっくり食べてね。蝶子」
と童子は言うと、仕事に戻った。
蝶子は、ちょこんと通された部屋に座り、お米をぱくりと食べた。
こんな役立たずではいけない。
味噌汁を啜り、漬け物に、小魚。残さないように、お腹いっぱいになりながら食べきった。
朝食を終わると、すぐに氷雪は蝶子を呼んだ。やはり、一週間も何もせず、お世話になっているので、立場をわきまえべきだと、蝶子は身を引き締めた。
氷雪の部屋に通され、三つ指をつく。
ところが、氷雪は「一緒に出かけるぞ」と素っ気なく言った。
「えっと。お出かけですか?」
「ああ。蝶子の着物を買いにな」
「そんな、わたしなどのために、勿体ないです」
間違ったことを言ってしまったのか、ジロリと睨まれ、蝶子は首根っこが、ヒヤリとした。
「着る服はあるのか」
蝶子は「あっ」と声を漏らした。
贄として嫁に出され、死ぬだけだと思っていた。死ぬのなら、身一つでいい。
普段からぼろぼろの着物は二枚しか無い。それも嫁入り道具として必要がない。どうせ殺される。
必要なのは、氷雪が用意したという、白無垢だけ。
今現在、蝶子には着る服が無かった。
「あの、人間界に取りに戻っても」
「許さぬ。もとより、蝶子が嫁として来たら、買いに行く予定だった。まさか、一枚も持って来てないとは、思わなかったが」
「すみません」
「いや……。俺の大きすぎる着物を着ているのも……悪くもないが」
今、蝶子は氷雪の着物を拝借させていただいている。童子たちが丈を折り曲げて見繕った、簡易な物ではある。
衿はときどき、開いてしまい。袖は指先まで、すっぽり隠れてしまう。
氷雪の言う”悪くもないが”とは、このような、みそぼらしい姿が蝶子に釣り合っている、という意味だろう。
蝶子にしてみれば仕立ての良い着物を着させてもらっているので、恐縮してしまう。
「こほん。兎に角。仙天横町に行く」
「仙天横町ですか」
「ああ、西の市とも言うがな。あそこには、あらゆる物が売っている」
聞き慣れない言葉に、蝶子がきょとんっとする。
そんな場所に蝶子が足を踏み入れて良いのだろうか、と思案していると、ちちちっと鳴きながら青雀と紅雀が、窓壁の丸い襖から入って来た。
嘴には可愛らしい黄色い菊を咥えている。床の間に降り立つと、とととっと細い足で飛び跳ねて、花器の中の剣山に咥えた花を生けた。
見事なバランスの良さの生け花を見て
(小鳥ですら、お仕事があるのに……)
と蝶子は落ち込んだ。
屋敷中にある生け花は、きっと、この小鳥たちが運んでいるのだろう。
それにくらべ、蝶子には仕事すらなかった。衣食住を、お世話になる始末。
(わたし、どこに行っても。役立たずだ)
谷底に落とされたみたいに、悲しい気分が襲う。
そこに、青雀がくるりと丸い体を振り返ると、蝶子の存在に気が付き、はたと固まった。と、感極まったように、飛ぶのも忘れた様子で両翼をバタバタと煽ぎ、蝶子の元へと走って来た。
「ちちち、ちちちちち」
何を訴えているのかわからないが、蝶子の存在を知って、心配してくれていたようだ。
大きく瞳を潤ませて涙まで流している。蝶子の足元に擦り寄り、ちょんちょんと飛び回り、頬摺りをしては、喜びをアピールした。
「えっと」
そこに紅雀が飛んできて、横合いから青雀を蹴りつけた。青雀は、「ぴ」と、ひ弱に鳴き、勢いよく飛び、てん、て、てん。と畳の上で跳ねると、お尻を仰向けて「ぴー」と悲しげに鳴いた。
蝶子は唖然とした。
「ちー、ちちちちち」
声を張り上げた紅雀は、青雀に叱咤しているようだった。
これはいわゆる、焼き餅、と言うものではないのだろうか。
紅雀は蝶子の肩に飛び乗ると、蝶子の頬に擦り寄った。ふかふかの羽毛が頬を掠めて、なんだか、こそ痒い。
(あれ、青雀がわたしに近づいたことに怒ったのじゃなくて、わたしに青雀が近づいたから焼き餅焼いたのかしら)
好かれることに慣れていない蝶子は、心がむずむずした。
「余興はすんだか」
白けた様子で氷雪が割って入ってくる。蝶子だけでなく、紅雀までも居住まいを正す。
「では、支度をして出かけるぞ」
「……はい」
有無を言わせず蝶子は頷く。肩の上で紅雀は額に方翼を広げ、氷雪に敬礼でもするようにしていた。
(わたしがお供していいのかしら)
穀潰しの蝶子に、物を買い与える人など、村に住む啓太以外に、誰もいなかった。
ふと、中庭を見るとシャボン玉が、ふわふわと飛んでいた。
仕事の合間に童子たちが、また、シャボン玉を吹いて遊んでいるのだろう。
真っ青な空に向かって飛ぶ七色の玉が、とても綺麗だった。
経ってしまったと言う方が正解かもしれない。熱は二日で引いたのだが、念のためと言われ、布団から出ることを許されなかった。大丈夫だと何度も訴えたのに。
蝶子は上布団を折り曲げ、上体を起こした。窓の襖からは、朝日が優しく差し込んでいる。
「今日こそは」
蝶子は意気込み、ぱんっと軽く両頬を打った。
(わたしってば、ここに来てから何もしてない)
やったことは、寝ているだけ。休んでいるだけ。ただ飯を食べているだけ。ただの穀潰しでしかない。このままではいけない。
蝶子は己の手を見た。働き詰めだった手が、綺麗になってきた。
水仕事で常にカサカサに荒れていた手。爪の中は、夏子お嬢様が好きなヤマグワの実を摘み、赤く染まっていた。枝や薪を獲りに、竹籠の背負子を担ぎ、山に登り縄が肩に食い込み、いつも肩は赤黒く痣になっていた。それもずいぶんと綺麗になっていた。
蝶子は腰まである髪を、すっと撫でた。
ここに来てから、童子に櫛で髪を解いてもらい、ぱさぱさだった髪が、艶やかになっている。
「今日こそは」
気合いを入れて蝶子は立ち上がると布団を畳み、元結(和紙のひも)で髪を結い、借り物の服を着て、部屋を出た。
******
「そーれ」
渡り廊下を通ると、童子たちが桃のようなお尻をあげて、競争しながら、廊下の水拭きをしていた。ふりふりと揺れる小さなお尻が、なんとも愛らしく、蝶子の心がほっこりした。
「あっ。蝶子、起きてきた」
「もう、いいの」
「まだ、寝ててもいいのに」
童子たちは蝶子に気が付くと、拭き掃除を止めて、わらわらと集まり、蝶子を囲んだ。
「はい。もうすっかり大丈夫です。あの、廊下のお掃除、わたしもお手伝いを」
と蝶子が言いかけると、童子たちは揃って、右手を歌舞伎役者のようにしてあげ、制した。
「蝶子は、なにもしなくていいよ」
「雪のお嫁さんなんだから」
(えっ。でも、お嫁だからこそでは)
蛇神様に食われないのならば、蝶子のすべきことは、家事全般をこなすことのはず。けれども、童子たちは頑なに、それを拒んだ。
「蝶子にそんなことさせたら、雪に、ぼくたちが怒られちゃうよ」
童子たちが叱られるのは、よろしくない。童子たちには童子たちの使命があるのだろう。来たばかりの蝶子が出過ぎたことをしてはいけない。
では、何をすればいいのだろうか。
蝶子が悩んでいると
「起きたか」
と、縁側の外から声が降ってきた。
(氷雪様のお声。あれ、でも、どこにいらっしゃるのかしら)
蝶子は中庭に目を向けた。
中庭は小池と剪定された松の木、紅葉の木が植えられていた。しっかりと朝日が差し込み、眩しさに蝶子は目を細めた。
かさり、と青葉の紅葉が一枚ひらりと舞い落ちる。その紅葉の木を見上げると、氷雪が太い幹に、またがり背中を凭れ、器用に本を読んでいた。
朝日に銀の髪が煌めく。かた足をだらしなく幹から下ろし、着物が少し乱れていて、艶やかだった。
「氷雪様。なぜ、そのような場所で、ご本を読んでいらっしゃるのですか」
つい、ぽろりと本音がでてしまい、蝶子は慌てて口を押さえる。
「あのね。雪はね、朝が弱いの」
「冬も弱いね」
「それ、言ったら、わたしたちも冬は苦手」
童子たちが、くいくいと蝶子の袖をひっぱった。
しかし、それと木の上で本を読むことと、何が関係しているのか理解が出来ず、蝶子は目を丸くした。
「雪は蛇だから、寒さに弱いの」
「だから、ああやって朝日を浴びて、体を温めているんだよ」
「低血圧? なんだよ」
蝶子の脳裏に、大蛇姿の氷雪が浮かび、背筋がすっと冷えた。それに朝とはいえ、葉月(八月)。暑くはないのだろうか。
「ぼくたちは、身を寄せ合って寝てるから平気」
「「「ねー」」」
声を揃えて童子たちは言った。
「うるさい」
氷雪はぴしゃりと言うが、童子たちは、へっちゃらの様子で、どうどうと言う
「雪は、朝は機嫌悪いよ」
「気を付けてね」
(えっと……どうやって気を付ければよいのでしょうか)
童子たちは言うだけ言って、散ると掃除を再開した。
「蝶子。体の調子は」
氷雪は軽々と木から飛び降りると、蝶子のいる方へと足を向けた。蝶子は少したじろぐ。
「もう、大丈夫です」
「そうか」
ふうっと氷雪は眉間に手を添えて、息を吐いた。どうも気怠そうに見える。それに顔が白い。
「あの……お加減が、お悪いのでは」
「いや。昨夜は、あいつが、しつこかったから、少し体調が優れないだけだ」
(あいつ……しつこい)
蝶子は僅かに左頬を引き攣らせた。
「お馬鹿ですね」
「お馬鹿ね」
「阿呆ですね」
廊下をたたたっと水拭きしながら、童子たちが口々に言うと、ようやく、氷雪は、はっとした。
「まて、何か勘違いをしていないか」
「いえ、わたしごときが氷雪様の生活に、口出しはいたしません」
「まて、まて、違うからな。言っておくが、蝶子以外に成人の女人は、ここには、いないからな」
「はぁ。そうなのですね」
「……それだけか」
「? はい。なにか」
「……嘘をついて、女がいるかもとか、腹が立つとかないのか」
「いえ、そのようなこと、思いもしませんし、いらっしゃるなら、わたしがお世話をしたほうが」
「いない」
ふいっと、ふて腐れたように、氷雪は顔をそむけると腕を組んだ。
やはり、朝は機嫌が悪いようだ。
「朝食は食べたのか」
「いえ、ですが」
普段、日に一食だけか、食べられない時がほとんどなので、働きもしないで朝食を頂くなど恐れ多い。しかし、言葉を出す前に氷雪は、童子たちに蝶子だけのために朝食を用意しろと命令した。申し訳なく必要ないと訴えたが、ちゃかちゃかと童子たちは「運ぶだけだから」と言って、お膳を運んで持って来た。
「雪もわたしたちも食べ終わったから、ゆっくり食べてね。蝶子」
と童子は言うと、仕事に戻った。
蝶子は、ちょこんと通された部屋に座り、お米をぱくりと食べた。
こんな役立たずではいけない。
味噌汁を啜り、漬け物に、小魚。残さないように、お腹いっぱいになりながら食べきった。
朝食を終わると、すぐに氷雪は蝶子を呼んだ。やはり、一週間も何もせず、お世話になっているので、立場をわきまえべきだと、蝶子は身を引き締めた。
氷雪の部屋に通され、三つ指をつく。
ところが、氷雪は「一緒に出かけるぞ」と素っ気なく言った。
「えっと。お出かけですか?」
「ああ。蝶子の着物を買いにな」
「そんな、わたしなどのために、勿体ないです」
間違ったことを言ってしまったのか、ジロリと睨まれ、蝶子は首根っこが、ヒヤリとした。
「着る服はあるのか」
蝶子は「あっ」と声を漏らした。
贄として嫁に出され、死ぬだけだと思っていた。死ぬのなら、身一つでいい。
普段からぼろぼろの着物は二枚しか無い。それも嫁入り道具として必要がない。どうせ殺される。
必要なのは、氷雪が用意したという、白無垢だけ。
今現在、蝶子には着る服が無かった。
「あの、人間界に取りに戻っても」
「許さぬ。もとより、蝶子が嫁として来たら、買いに行く予定だった。まさか、一枚も持って来てないとは、思わなかったが」
「すみません」
「いや……。俺の大きすぎる着物を着ているのも……悪くもないが」
今、蝶子は氷雪の着物を拝借させていただいている。童子たちが丈を折り曲げて見繕った、簡易な物ではある。
衿はときどき、開いてしまい。袖は指先まで、すっぽり隠れてしまう。
氷雪の言う”悪くもないが”とは、このような、みそぼらしい姿が蝶子に釣り合っている、という意味だろう。
蝶子にしてみれば仕立ての良い着物を着させてもらっているので、恐縮してしまう。
「こほん。兎に角。仙天横町に行く」
「仙天横町ですか」
「ああ、西の市とも言うがな。あそこには、あらゆる物が売っている」
聞き慣れない言葉に、蝶子がきょとんっとする。
そんな場所に蝶子が足を踏み入れて良いのだろうか、と思案していると、ちちちっと鳴きながら青雀と紅雀が、窓壁の丸い襖から入って来た。
嘴には可愛らしい黄色い菊を咥えている。床の間に降り立つと、とととっと細い足で飛び跳ねて、花器の中の剣山に咥えた花を生けた。
見事なバランスの良さの生け花を見て
(小鳥ですら、お仕事があるのに……)
と蝶子は落ち込んだ。
屋敷中にある生け花は、きっと、この小鳥たちが運んでいるのだろう。
それにくらべ、蝶子には仕事すらなかった。衣食住を、お世話になる始末。
(わたし、どこに行っても。役立たずだ)
谷底に落とされたみたいに、悲しい気分が襲う。
そこに、青雀がくるりと丸い体を振り返ると、蝶子の存在に気が付き、はたと固まった。と、感極まったように、飛ぶのも忘れた様子で両翼をバタバタと煽ぎ、蝶子の元へと走って来た。
「ちちち、ちちちちち」
何を訴えているのかわからないが、蝶子の存在を知って、心配してくれていたようだ。
大きく瞳を潤ませて涙まで流している。蝶子の足元に擦り寄り、ちょんちょんと飛び回り、頬摺りをしては、喜びをアピールした。
「えっと」
そこに紅雀が飛んできて、横合いから青雀を蹴りつけた。青雀は、「ぴ」と、ひ弱に鳴き、勢いよく飛び、てん、て、てん。と畳の上で跳ねると、お尻を仰向けて「ぴー」と悲しげに鳴いた。
蝶子は唖然とした。
「ちー、ちちちちち」
声を張り上げた紅雀は、青雀に叱咤しているようだった。
これはいわゆる、焼き餅、と言うものではないのだろうか。
紅雀は蝶子の肩に飛び乗ると、蝶子の頬に擦り寄った。ふかふかの羽毛が頬を掠めて、なんだか、こそ痒い。
(あれ、青雀がわたしに近づいたことに怒ったのじゃなくて、わたしに青雀が近づいたから焼き餅焼いたのかしら)
好かれることに慣れていない蝶子は、心がむずむずした。
「余興はすんだか」
白けた様子で氷雪が割って入ってくる。蝶子だけでなく、紅雀までも居住まいを正す。
「では、支度をして出かけるぞ」
「……はい」
有無を言わせず蝶子は頷く。肩の上で紅雀は額に方翼を広げ、氷雪に敬礼でもするようにしていた。
(わたしがお供していいのかしら)
穀潰しの蝶子に、物を買い与える人など、村に住む啓太以外に、誰もいなかった。
ふと、中庭を見るとシャボン玉が、ふわふわと飛んでいた。
仕事の合間に童子たちが、また、シャボン玉を吹いて遊んでいるのだろう。
真っ青な空に向かって飛ぶ七色の玉が、とても綺麗だった。
