「疲れちゃったのね」
「ここは神域だから、悪い物が抜けたんだよ」
「ずっと。張り詰めてきたもんね」
「おい。にーに。ねーね。あまりぺちゃくちゃ喋るな、蝶子に障る」
「はーい。本当に蝶子のことになると」
「黙れ」
高熱に浮かされながら、朧気にそんな幻聴を聞いた気がした。ときどき、額に冷たさを感じ、気持ちが良かった。水に浸した布を額に宛がわれている感覚がする。
「布団をさらに」
「これ以上乗せたら蝶子が潰れちゃうよ」
「うっ」
「いいから、雪は、そこに座っていて」
夢幻で氷雪は童子たちに叱咤されていた。
(ふふ)
熱で浮かされながら、嫁いだことも夢だったのではないだろうかと思う。
しだいに、深い睡魔が襲ってくる。
「すまない蝶子、熱が出たのは、俺のせいだ」
「仕方ないです。──を抑えるためだもの」
の声が、掠れ掠れに聞こえ、蝶子の意識は、闇に手放した。
*******
「とと様。わたしも大きくなったら、とと様のような鷹匠になりたいです」
九歳の蝶子は目元を潤ませながら、帰って来たばかりの父に訴えた。
昨日から蝶子は熱を出した。
父は気が気ではなかったのか、仕事が終わるなり、息せき切って、すっ転びそうになりながら襖を開けた。駆け寄ったところで、蝶子が、唐突に言ったのだった。
父は蝶子の額に手を置くと、熱を測る。すでに熱は下がり、父は安堵したようだった。が、眉をハの字にした。
「蝶子。何度も言っているであろう。女では、鷹匠になれないと」
「むむ。でもなりたいのです」
昔、父は鷹匠で、御家人だった。
御家人といっても、雨漏りをするような古びた武家屋敷である。それでも蝶子はそれなりに幸せに暮らしていた。
蝶子は潤んだ目で頬を膨らませると、父は溜め息を零し、聞き分けの無い我が子の脇に手を差し込み「よっこらせ」と言って、持ち上げ膝に乗せた。温かくて大きな体が、すっぽりと包み込み、蝶子は、ほっとする。
鷹匠は将軍が鷹狩りをする際に、調教された御鷹を、何不自由なく狩りが出来るように、鷹を訓練する役職だった。鷹は猛禽類で生きた雀などを食す。
生きた獲物を捕らえ、血肉を貪る。その姿は女である蝶子には堪え難い物だと、父は殺生について語った。蝶子には、よくわからない。
父の言い分は、残酷でもあり、そんな簡単な仕事では無いと言いたかったようだ。
そこに「まぁまぁ、なんですか」と言いながら、母が部屋に入って来た。
「まったく。子供に殺生など、血肉など語らないでください」
「あ、いや、その。だって」
「だって。ではありません」
ぴしゃりと言う美人な母は、眉をつり上げて、いつもの様に父を叱りつけた。
「それに、また妹君に、お金を貸しましたね」
父はビクリと肩を跳ね上げ、もごもごと口ごもる。ちょいちょい見かける風景に蝶子ですら呆れてしまう。人の良い父は、嫁いだ妹に、こっそりお金を貸してやっているようなのだ。その嫁いだ先の武家任は借金だらけで「妹は苦労していて」と父は言い訳をする。それだけではなく、父の甥っ子にも、同じことをしていて、母は切り盛りするのに困っていた。これも、父の言い訳は、亡くなった弟の子供を助けてやりたい。だった。
「まったく。あなたは──仕方のないかたね」
母は慈愛を込めた目で、ふふっと笑った。厳しいことを言うが、母は、こんな優しい父を好いていた。
「すまない」
「とと様。かか様。子供の前で、喧嘩は駄目だと、わたしは思うのです」
蝶子はかしこまって言うと、ふふふっと家族三人で笑いあった。
こんな父だが蝶子は知っていた。
父が鷹匠見習いから鷹匠になったとき、蝶子は、こっそり父が御鷹を訓練している姿を見に行ったことがあった。
水鳥の生息する湖に父は凜と立ち、右腕を垂直に構え、鋭い目付きの綺麗な御鷹を乗せていた。父が御鷹を促すと、御鷹は湖に真っ直ぐに飛び立ち、尾っぽに装着された鈴が、ちりちりと涼しげに音を立てていた。
父と御鷹に、日差しがさんさんと降り注ぎ、蝶子は、その美しさに見とれたものだった。
普段とは違う父の凜々しい顔が、誇らしくもあった。
「わたしは鷹匠になりたいのです」
「だーかーら。蝶子。頼むから、やめてくれ。いいか、蝶子は良いところに嫁ぐんだ」
「そうですよ。蝶子を大事にしてくれる殿方と結婚するのが、蝶子の幸せですよ」
「んんん。まて、まて、蝶子には幸せになって欲しい。だが、だが、他の男にくれてやるのは嫌だ。嫌だったら、嫌だ」
父は駄々っ子のように蝶子に擦り寄って、喚いた。母は呆れ、蝶子も呆れた。
******
両親の声が遠くなっていく。視界が暗がり、喉が苦しく窒息しそうになると、朧気に遠くから声が聞こえた。
幻聴だろう。
「蝶子。早く元気になって」
「もう、何も心配ないよ」
布団をぽふぽふと叩かれるような感覚がした。
「こら、蝶子の寝る布団に乗るな」
これは幻聴だ。蝶子を心配してくれる人などいるはずもない。けれど、蝶子は喉の苦しさが、和らぐのを感じていた。
(そういえば、病気をしたとき、父と母が、いつも側にいてくれたな)
幻聴だとわかっていても、あの夢と今が重なるようだった。
もう、戻る事もできない。
こうして夢で見ることしか、もう蝶子にはできない。
久しく見なかった、両親がいたころの温かな夢を垣間見て、蝶子はうつら、うつらとした。
優しい手が蝶子の頭に触れ、何度も往復した。気持ちよさに、ほっとする。
(懐かしい感覚)
蝶子は温もりに安心して、ぐっすりと眠った。
******
ほんのりと甘い匂いがする。
(なんだろう。どこかで嗅いだことがあるような……)
夢現のなか蝶子は、その香を懐かしいと感じた。そして、どれだけ眠っただろうか。夜間に、蝶子は、ぱちりと目を覚ました。
(えっ。……)
瞳に飛び込んできたのは、氷雪と童子たちだった。
部屋の四隅に設置された行燈に、淡く照らされながら、こくり、こくりと氷雪は船を漕ぎ寝ていた。
その膝や傍らには、ぴー。ぷー。と鼻提灯をつくりながら、童子が腹を向けて、すやすやと眠っている。よく見ると蝶子の布団にも、凭れかかるように、童子たちが、行儀悪い体勢で寝ていた。
(どうしてここで、みんなで寝ているのかしら)
不思議に思いながらも、ようやく頭がガンガンしていることに気が付き、体も怠く重かった。
(わたし……)
目を泳がせると、枕元には木桶があり、額には濡れタオルが置かれ、氷枕で頭を冷やされていた。ふかふかのお布団は三段も被され、暑いくらいだった。
なんてことだろう。風邪を引いて寝込んでしまったようだ。
起きなくては。そう思うのに、体が思う様に動かない。
「すー」
氷雪の息遣いが聞こえてきた。蝶子は、見入ってしまった。
手を差し出せば触れる距離にいる。
こんな風に、体調の悪いときに誰かが側にいたことは、いつぶりだろうか。
今までなら病気でも働かないといけなかった。
『──体調が悪い。それなら寝ているといい』
一度だけ、微熱が出て奥様に懇願すると、真冬に藁小屋に放り込まれたことがあった。酷く寒く。さらに熱があがり、凍えて死ぬかと思った。あれ以来、どんなに体調が悪くても隠し、働いた。
ばれないように、咳を我慢し、ふらつかないようにした。
『いっちょまえに、風邪など引くなんて、薬なんてないよ。自力で治しな。それか、死んでおしまい』
風邪だと気づかれたときは、そう言われたことは、沢山あった。
──蝶子は火照りながら氷雪を凝視した。
頭に置かれた氷枕が、軽く身動ぎするとガラリと音を立てる。氷雪は、真下の畳に顔を向けて、居眠りをされていた。
まさか、こんな風に看病されるなんて、労ってくれるなんて思いもしなかった。
童子たちの、ぴー。ぷー。と間の抜けた寝息が愛らしい。蝶子は戸惑った。
死ぬだけだったのに。死すら望んでいたのに。
ふいに、氷雪の肩から銀糸のような綺麗な髪が流れ落ちた。すると蕾が開くように氷雪の瞳がゆっくりと目覚めた。
「…蝶子」
目が合う。氷雪は立ち上がろうとした。しかし足元に童子たちがいて、身動きができないようだった。
「なんで、お前たちまでここで寝ている……。まあいい。蝶子、調子はどうだ」
蝶子は、はっとする。
「申し訳ありません。すぐに起きます。なにとぞ」
「よい。寝ていろ」
「でも」
「体を休めろ」
起き上がろうとする蝶子に氷雪は顔を顰め、強く言った。蝶子は潤んだ目で、ぱちぱちと何度も瞬きをする。
そんなことを申す人など、奉公先ではいなかった。蝶子は困惑しながらも体の力を抜いて、布団に沈んだ。
(寝ててもいいのだろうか)
呼吸が乱れる。それなのに、心に軽さがあった。
こんなに高熱を出したのは初めてだった。きっと、これが村だったら、働かされ、そこいらの道端で、野垂れ死んでいたに違いない。
「わたし、ごめんなさい」
「なぜ、謝る」
「……」
「吐き気はないか」
「……はい」
蝶子は申し訳なくて、いつものように謝るが、氷雪は叱るでも無く、労わられ、蝶子は慣れず戸惑った。
なぜ、このように看病をしてくださるのだろうか。
蛇神様が人間を労うなど聞いたことがない。
水色の透き通る氷雪の瞳が、心配げに蝶子を伺う。
氷雪とはいったい、どんな神様なのだろうか。
蝶子が見つめ過ぎてしまったのか、氷雪の白い手が、すっと、伸びてくる。条件反射で蝶子は目を瞑る。待てども、なにも起きず、そっと目を開ける。氷雪の手は、蝶子の傍らにいる童子を揺すり起こしていた。蝶子に向けられた手だと勘違いした。
「おい。起きろ。蝶子の額のタオルを、水に浸け替えてやれ」
「むにゃ。むにゃ」
「よに」
よに、と呼ばれた童子が目を擦りながら、目を覚ました。「もう、なに」と言いながら上体を起こし、足を投げ出した体勢で、ぼんやりと蝶子と目が合った。と、弾かれたように
「あっ。蝶子。起きた」
と言った。その言葉を合図に「えっ」「えっ」と次々と童子たちが目を覚ます。童子たちは寝ぼけながらも蝶子の回りに集まる。
まるでダンゴムシに囲まれているみたいだと蝶子は思った。
「「蝶子。大丈夫」」
「……うん」
童子たちは、眉をハの字にして、心配げに見上げた。
蝶子はくすぐったさを隠しながらも頷いた。
童子たちも氷雪と同様に、蝶子を心から心配しているようだった。
これ以上、心優しい方々に心配をさせてはいけない。
働かねば。
「もう、大丈夫です。明日には……」
「まだ駄目だ。しっかり寝ろ。それから薬を飲め。誰か飲ませてやれ」
氷雪は蝶子の言葉を遮り、眉間に皺を寄せた。
躊躇いなく、蝶子のような者に、薬を飲ませようとする氷雪に、蝶子は焦った。
乾物の漢方薬は高価だ。甘草、芍薬、桂皮など多種多様な漢方薬はあるが、どれも百姓の者が簡単に手に入る代物ではない。薬門屋で買えるのは武家や、金回りのいい商家ぐらいだろう。
蝶子は視線を彷徨わせて動揺した。
「そのような高価の物を」
蝶子の否定を促す言葉に氷雪は、鋭く瞳を光らせた。腕を組みジロリと蝶子を睨む。蝶子は居たたまれなくなり、首までお布団を引き上げた。
氷雪は無言で飲め。と言いたげだった。その圧が、ひしひしと感じ取れて、蝶子は、蛇に睨まれた蛙とは、こんな感じだろうと思った。
「蝶子。お薬」
童子の、よにが、水の入った湯飲みと、紙包みに包まれた、お薬をお盆に乗せて持って来る。蝶子の傍らに辿り着くと、よには小さな手で、蝶子の背を起こした。
「ありがとうございます」
熱に浮かされた赤顔で蝶子は、渡された粉薬を受け取った。刺さる視線に、居心地が悪い。
(見ていらっしゃる)
しっかりと氷雪が見守る。
これは飲んだ振りは通用しない。高価なお薬を飲むしかない。
しぶしぶと蝶子は紙包みを開き、薬を口のなかに流し、湯飲みの水で飲みほした。苦みで蝶子の眉間がピクリと痙攣する。すると氷雪が、ふと笑ったような気がした。
「よし。これを」
氷雪は金平糖に包まれた懐紙を、童子の、いちねを通して蝶子に渡した。
「口直しだ。これを食べなさい」
「はい。あの、ありがとうございます」
「礼はいい。早く治せ」
「はい」
蝶子は黄色の金平糖をひとつ手にとって、口に入れる。染み渡る甘みが口の中に広がった。一宿一飯の恩を心に刻んだ。
(わたしのような者に、こんなに良くしていただいて、早く治して、ここで、しっかり働かせてもらいます)
それぐらいしか蝶子にはできないから。蝶子は背を布団に預ける。
細められた氷雪の目に見守られながら、童子に上布団を被された。
ところが、突然、氷雪は表情を引き締め、すくりと立ち上がった。
「どうかされたのですか」
「なんでもない」
「……」
気のせいか、緊迫した空気に変わった。先ほどまで和やかな雰囲気だったのに。一抹の不安がよぎる。
「本当に、なんでもない。そんな顔をするな。少し用事が出来た。蝶子は養生しなさい」
蝶子の不安顔が表に出ていたのか、氷雪にそう言われた。
しかし、養生とはいったいどうすればいいのだろうか。
すでに明日には働く気でいるのだが、この雰囲気は許されない気がした。口ごもる蝶子の様子に、氷雪の眉間に皺が寄る。
「返事は」
返事の無い蝶子に、氷雪は焦れてか返答を促した。
「は、はい」
蝶子は動揺し頷く。答えに満足したのか、氷雪は口の端だけをあげて頷き、着物の裾をひるがえして、襖を開けて出て行った。
その綺麗な氷雪の後ろ姿を、蝶子は静かに見送った。
(こんな真夜中に、ご用事とは……)
どれだけ眠っていたのかはわからない。夜中なのはわかる。暁八つ(深夜一時から三時)ほどだとは思う。
行燈の明かりがゆらりと揺れる。いつの間にか童子たちも姿を消していた。
取り残された蝶子は、ぽつりとどこか寂しさを感じた。
しかし、看病のおかげで熱が引いてきた。とても体が軽くなっていた。
「ここは神域だから、悪い物が抜けたんだよ」
「ずっと。張り詰めてきたもんね」
「おい。にーに。ねーね。あまりぺちゃくちゃ喋るな、蝶子に障る」
「はーい。本当に蝶子のことになると」
「黙れ」
高熱に浮かされながら、朧気にそんな幻聴を聞いた気がした。ときどき、額に冷たさを感じ、気持ちが良かった。水に浸した布を額に宛がわれている感覚がする。
「布団をさらに」
「これ以上乗せたら蝶子が潰れちゃうよ」
「うっ」
「いいから、雪は、そこに座っていて」
夢幻で氷雪は童子たちに叱咤されていた。
(ふふ)
熱で浮かされながら、嫁いだことも夢だったのではないだろうかと思う。
しだいに、深い睡魔が襲ってくる。
「すまない蝶子、熱が出たのは、俺のせいだ」
「仕方ないです。──を抑えるためだもの」
の声が、掠れ掠れに聞こえ、蝶子の意識は、闇に手放した。
*******
「とと様。わたしも大きくなったら、とと様のような鷹匠になりたいです」
九歳の蝶子は目元を潤ませながら、帰って来たばかりの父に訴えた。
昨日から蝶子は熱を出した。
父は気が気ではなかったのか、仕事が終わるなり、息せき切って、すっ転びそうになりながら襖を開けた。駆け寄ったところで、蝶子が、唐突に言ったのだった。
父は蝶子の額に手を置くと、熱を測る。すでに熱は下がり、父は安堵したようだった。が、眉をハの字にした。
「蝶子。何度も言っているであろう。女では、鷹匠になれないと」
「むむ。でもなりたいのです」
昔、父は鷹匠で、御家人だった。
御家人といっても、雨漏りをするような古びた武家屋敷である。それでも蝶子はそれなりに幸せに暮らしていた。
蝶子は潤んだ目で頬を膨らませると、父は溜め息を零し、聞き分けの無い我が子の脇に手を差し込み「よっこらせ」と言って、持ち上げ膝に乗せた。温かくて大きな体が、すっぽりと包み込み、蝶子は、ほっとする。
鷹匠は将軍が鷹狩りをする際に、調教された御鷹を、何不自由なく狩りが出来るように、鷹を訓練する役職だった。鷹は猛禽類で生きた雀などを食す。
生きた獲物を捕らえ、血肉を貪る。その姿は女である蝶子には堪え難い物だと、父は殺生について語った。蝶子には、よくわからない。
父の言い分は、残酷でもあり、そんな簡単な仕事では無いと言いたかったようだ。
そこに「まぁまぁ、なんですか」と言いながら、母が部屋に入って来た。
「まったく。子供に殺生など、血肉など語らないでください」
「あ、いや、その。だって」
「だって。ではありません」
ぴしゃりと言う美人な母は、眉をつり上げて、いつもの様に父を叱りつけた。
「それに、また妹君に、お金を貸しましたね」
父はビクリと肩を跳ね上げ、もごもごと口ごもる。ちょいちょい見かける風景に蝶子ですら呆れてしまう。人の良い父は、嫁いだ妹に、こっそりお金を貸してやっているようなのだ。その嫁いだ先の武家任は借金だらけで「妹は苦労していて」と父は言い訳をする。それだけではなく、父の甥っ子にも、同じことをしていて、母は切り盛りするのに困っていた。これも、父の言い訳は、亡くなった弟の子供を助けてやりたい。だった。
「まったく。あなたは──仕方のないかたね」
母は慈愛を込めた目で、ふふっと笑った。厳しいことを言うが、母は、こんな優しい父を好いていた。
「すまない」
「とと様。かか様。子供の前で、喧嘩は駄目だと、わたしは思うのです」
蝶子はかしこまって言うと、ふふふっと家族三人で笑いあった。
こんな父だが蝶子は知っていた。
父が鷹匠見習いから鷹匠になったとき、蝶子は、こっそり父が御鷹を訓練している姿を見に行ったことがあった。
水鳥の生息する湖に父は凜と立ち、右腕を垂直に構え、鋭い目付きの綺麗な御鷹を乗せていた。父が御鷹を促すと、御鷹は湖に真っ直ぐに飛び立ち、尾っぽに装着された鈴が、ちりちりと涼しげに音を立てていた。
父と御鷹に、日差しがさんさんと降り注ぎ、蝶子は、その美しさに見とれたものだった。
普段とは違う父の凜々しい顔が、誇らしくもあった。
「わたしは鷹匠になりたいのです」
「だーかーら。蝶子。頼むから、やめてくれ。いいか、蝶子は良いところに嫁ぐんだ」
「そうですよ。蝶子を大事にしてくれる殿方と結婚するのが、蝶子の幸せですよ」
「んんん。まて、まて、蝶子には幸せになって欲しい。だが、だが、他の男にくれてやるのは嫌だ。嫌だったら、嫌だ」
父は駄々っ子のように蝶子に擦り寄って、喚いた。母は呆れ、蝶子も呆れた。
******
両親の声が遠くなっていく。視界が暗がり、喉が苦しく窒息しそうになると、朧気に遠くから声が聞こえた。
幻聴だろう。
「蝶子。早く元気になって」
「もう、何も心配ないよ」
布団をぽふぽふと叩かれるような感覚がした。
「こら、蝶子の寝る布団に乗るな」
これは幻聴だ。蝶子を心配してくれる人などいるはずもない。けれど、蝶子は喉の苦しさが、和らぐのを感じていた。
(そういえば、病気をしたとき、父と母が、いつも側にいてくれたな)
幻聴だとわかっていても、あの夢と今が重なるようだった。
もう、戻る事もできない。
こうして夢で見ることしか、もう蝶子にはできない。
久しく見なかった、両親がいたころの温かな夢を垣間見て、蝶子はうつら、うつらとした。
優しい手が蝶子の頭に触れ、何度も往復した。気持ちよさに、ほっとする。
(懐かしい感覚)
蝶子は温もりに安心して、ぐっすりと眠った。
******
ほんのりと甘い匂いがする。
(なんだろう。どこかで嗅いだことがあるような……)
夢現のなか蝶子は、その香を懐かしいと感じた。そして、どれだけ眠っただろうか。夜間に、蝶子は、ぱちりと目を覚ました。
(えっ。……)
瞳に飛び込んできたのは、氷雪と童子たちだった。
部屋の四隅に設置された行燈に、淡く照らされながら、こくり、こくりと氷雪は船を漕ぎ寝ていた。
その膝や傍らには、ぴー。ぷー。と鼻提灯をつくりながら、童子が腹を向けて、すやすやと眠っている。よく見ると蝶子の布団にも、凭れかかるように、童子たちが、行儀悪い体勢で寝ていた。
(どうしてここで、みんなで寝ているのかしら)
不思議に思いながらも、ようやく頭がガンガンしていることに気が付き、体も怠く重かった。
(わたし……)
目を泳がせると、枕元には木桶があり、額には濡れタオルが置かれ、氷枕で頭を冷やされていた。ふかふかのお布団は三段も被され、暑いくらいだった。
なんてことだろう。風邪を引いて寝込んでしまったようだ。
起きなくては。そう思うのに、体が思う様に動かない。
「すー」
氷雪の息遣いが聞こえてきた。蝶子は、見入ってしまった。
手を差し出せば触れる距離にいる。
こんな風に、体調の悪いときに誰かが側にいたことは、いつぶりだろうか。
今までなら病気でも働かないといけなかった。
『──体調が悪い。それなら寝ているといい』
一度だけ、微熱が出て奥様に懇願すると、真冬に藁小屋に放り込まれたことがあった。酷く寒く。さらに熱があがり、凍えて死ぬかと思った。あれ以来、どんなに体調が悪くても隠し、働いた。
ばれないように、咳を我慢し、ふらつかないようにした。
『いっちょまえに、風邪など引くなんて、薬なんてないよ。自力で治しな。それか、死んでおしまい』
風邪だと気づかれたときは、そう言われたことは、沢山あった。
──蝶子は火照りながら氷雪を凝視した。
頭に置かれた氷枕が、軽く身動ぎするとガラリと音を立てる。氷雪は、真下の畳に顔を向けて、居眠りをされていた。
まさか、こんな風に看病されるなんて、労ってくれるなんて思いもしなかった。
童子たちの、ぴー。ぷー。と間の抜けた寝息が愛らしい。蝶子は戸惑った。
死ぬだけだったのに。死すら望んでいたのに。
ふいに、氷雪の肩から銀糸のような綺麗な髪が流れ落ちた。すると蕾が開くように氷雪の瞳がゆっくりと目覚めた。
「…蝶子」
目が合う。氷雪は立ち上がろうとした。しかし足元に童子たちがいて、身動きができないようだった。
「なんで、お前たちまでここで寝ている……。まあいい。蝶子、調子はどうだ」
蝶子は、はっとする。
「申し訳ありません。すぐに起きます。なにとぞ」
「よい。寝ていろ」
「でも」
「体を休めろ」
起き上がろうとする蝶子に氷雪は顔を顰め、強く言った。蝶子は潤んだ目で、ぱちぱちと何度も瞬きをする。
そんなことを申す人など、奉公先ではいなかった。蝶子は困惑しながらも体の力を抜いて、布団に沈んだ。
(寝ててもいいのだろうか)
呼吸が乱れる。それなのに、心に軽さがあった。
こんなに高熱を出したのは初めてだった。きっと、これが村だったら、働かされ、そこいらの道端で、野垂れ死んでいたに違いない。
「わたし、ごめんなさい」
「なぜ、謝る」
「……」
「吐き気はないか」
「……はい」
蝶子は申し訳なくて、いつものように謝るが、氷雪は叱るでも無く、労わられ、蝶子は慣れず戸惑った。
なぜ、このように看病をしてくださるのだろうか。
蛇神様が人間を労うなど聞いたことがない。
水色の透き通る氷雪の瞳が、心配げに蝶子を伺う。
氷雪とはいったい、どんな神様なのだろうか。
蝶子が見つめ過ぎてしまったのか、氷雪の白い手が、すっと、伸びてくる。条件反射で蝶子は目を瞑る。待てども、なにも起きず、そっと目を開ける。氷雪の手は、蝶子の傍らにいる童子を揺すり起こしていた。蝶子に向けられた手だと勘違いした。
「おい。起きろ。蝶子の額のタオルを、水に浸け替えてやれ」
「むにゃ。むにゃ」
「よに」
よに、と呼ばれた童子が目を擦りながら、目を覚ました。「もう、なに」と言いながら上体を起こし、足を投げ出した体勢で、ぼんやりと蝶子と目が合った。と、弾かれたように
「あっ。蝶子。起きた」
と言った。その言葉を合図に「えっ」「えっ」と次々と童子たちが目を覚ます。童子たちは寝ぼけながらも蝶子の回りに集まる。
まるでダンゴムシに囲まれているみたいだと蝶子は思った。
「「蝶子。大丈夫」」
「……うん」
童子たちは、眉をハの字にして、心配げに見上げた。
蝶子はくすぐったさを隠しながらも頷いた。
童子たちも氷雪と同様に、蝶子を心から心配しているようだった。
これ以上、心優しい方々に心配をさせてはいけない。
働かねば。
「もう、大丈夫です。明日には……」
「まだ駄目だ。しっかり寝ろ。それから薬を飲め。誰か飲ませてやれ」
氷雪は蝶子の言葉を遮り、眉間に皺を寄せた。
躊躇いなく、蝶子のような者に、薬を飲ませようとする氷雪に、蝶子は焦った。
乾物の漢方薬は高価だ。甘草、芍薬、桂皮など多種多様な漢方薬はあるが、どれも百姓の者が簡単に手に入る代物ではない。薬門屋で買えるのは武家や、金回りのいい商家ぐらいだろう。
蝶子は視線を彷徨わせて動揺した。
「そのような高価の物を」
蝶子の否定を促す言葉に氷雪は、鋭く瞳を光らせた。腕を組みジロリと蝶子を睨む。蝶子は居たたまれなくなり、首までお布団を引き上げた。
氷雪は無言で飲め。と言いたげだった。その圧が、ひしひしと感じ取れて、蝶子は、蛇に睨まれた蛙とは、こんな感じだろうと思った。
「蝶子。お薬」
童子の、よにが、水の入った湯飲みと、紙包みに包まれた、お薬をお盆に乗せて持って来る。蝶子の傍らに辿り着くと、よには小さな手で、蝶子の背を起こした。
「ありがとうございます」
熱に浮かされた赤顔で蝶子は、渡された粉薬を受け取った。刺さる視線に、居心地が悪い。
(見ていらっしゃる)
しっかりと氷雪が見守る。
これは飲んだ振りは通用しない。高価なお薬を飲むしかない。
しぶしぶと蝶子は紙包みを開き、薬を口のなかに流し、湯飲みの水で飲みほした。苦みで蝶子の眉間がピクリと痙攣する。すると氷雪が、ふと笑ったような気がした。
「よし。これを」
氷雪は金平糖に包まれた懐紙を、童子の、いちねを通して蝶子に渡した。
「口直しだ。これを食べなさい」
「はい。あの、ありがとうございます」
「礼はいい。早く治せ」
「はい」
蝶子は黄色の金平糖をひとつ手にとって、口に入れる。染み渡る甘みが口の中に広がった。一宿一飯の恩を心に刻んだ。
(わたしのような者に、こんなに良くしていただいて、早く治して、ここで、しっかり働かせてもらいます)
それぐらいしか蝶子にはできないから。蝶子は背を布団に預ける。
細められた氷雪の目に見守られながら、童子に上布団を被された。
ところが、突然、氷雪は表情を引き締め、すくりと立ち上がった。
「どうかされたのですか」
「なんでもない」
「……」
気のせいか、緊迫した空気に変わった。先ほどまで和やかな雰囲気だったのに。一抹の不安がよぎる。
「本当に、なんでもない。そんな顔をするな。少し用事が出来た。蝶子は養生しなさい」
蝶子の不安顔が表に出ていたのか、氷雪にそう言われた。
しかし、養生とはいったいどうすればいいのだろうか。
すでに明日には働く気でいるのだが、この雰囲気は許されない気がした。口ごもる蝶子の様子に、氷雪の眉間に皺が寄る。
「返事は」
返事の無い蝶子に、氷雪は焦れてか返答を促した。
「は、はい」
蝶子は動揺し頷く。答えに満足したのか、氷雪は口の端だけをあげて頷き、着物の裾をひるがえして、襖を開けて出て行った。
その綺麗な氷雪の後ろ姿を、蝶子は静かに見送った。
(こんな真夜中に、ご用事とは……)
どれだけ眠っていたのかはわからない。夜中なのはわかる。暁八つ(深夜一時から三時)ほどだとは思う。
行燈の明かりがゆらりと揺れる。いつの間にか童子たちも姿を消していた。
取り残された蝶子は、ぽつりとどこか寂しさを感じた。
しかし、看病のおかげで熱が引いてきた。とても体が軽くなっていた。
