嫁ぎ先は神様の住処

「氷雪様」

 蝶子が呼んだとき、氷雪は門扉を開いたところだった。
 ふわりと、風に乗って花の香りが鼻孔を掠める。白い花弁が、ひらりと何枚か飛び出してきた。その香りは、氷雪と同じ匂いだった。

「蝶子、どうして。寝ていたのでは」

 目をぱちくりさせている氷雪に構わず、蝶子は駆けつけた。

「氷雪様、お加減はいかがですか」
「大丈夫だ」

 蝶子は氷雪の体を凝視した。その姿を見てからホッと胸を撫で下ろす。そこで、ようやく氷雪が入ろうとしていた門の向こうに、目をやった。その光景に驚く。一面に花畑が広がっていた。

 真っ白な花弁が何層も開き、おしべはうっすらと黄色かかり、花を包むように緑の葉が囲う、白牡丹。

「なぜここに、こんなにも白牡丹が?」

 蝶子はぽかんっと口を開いて見入った。
 ずっと、ここはお屋敷の宝物庫だと勘違いしていた。まさかこんな立派な門の先に、白牡丹が咲き誇っているなど、思いもしなかった。
 氷雪はチラリと蝶子を見て、花畑に足を踏み入れる。

「この花は、蝶子がくれた、白牡丹だ」

 優しく、撫でるように氷雪は白牡丹の花に触れていった。花は嬉しそうに揺れる。氷雪の銀髪が朝日に透けて、蝶子は眩しさに目を細めた。

(わたしがあげた、白牡丹?)

 氷雪に白牡丹をあげたのは六歳のころだと聞いた。十年も前のことだ。その花がここにあること自体、可笑しい。それにあげたのは摘み取った白牡丹一本だ。こんなにも沢山の花ではなかった。
 蝶子が考えあぐねていると

「幼い頃、蝶子がくれた白牡丹を、神力を使って種にして、ここまで育てた。枯らしたくなかったんだ」

 と氷雪は、ぼそりと言った。蝶子は驚き、じっと見つめる。氷雪の頬が微かに赤く染まり、そっぽを向いてしまった。
 蝶子の体が、ぽかぽかと温かさが広がった。

(気まぐれであげた、白牡丹を) 

 蝶子は一面の花畑を見回した。花のひとつひとつが生き生きとしている。大事に育てられたのを物語っていた。
 蝶子も花畑に足を踏み入れた。真っ白い花に囲まれる氷雪に近づく。目の前に立ち、顔をあげた。

「白牡丹、とても綺麗です。まるで、氷雪様みたいです」

 氷雪は、ぴくりと指先を弾ませ、ぎゅっと握った。

「俺は……こんな綺麗な存在じゃない。心の中は真っ黒だ」

 蝶子は首を振った。蝶子は懐から、宝物の栞を出した。

「氷雪様。この栞の白牡丹の花弁は──わたしが悪霊になった両親に殺されそうになったときのものです。この白牡丹を贈ってくださったのは氷雪様ですね」

 氷雪は無言だった。確信した。やはり、氷雪だったのだ。
 蝶子は栞を胸に抱いた。

「打ちのめされていたときに、くださった白牡丹。わたしは、これがあったから、ここまで生きていられたのです。すべてを諦めていても、白牡丹の純真に、いつも救われてきました。それに、ここに来てから、わたしの止まっていた時間が、動き出した気がします。氷雪様の優しさに触れて、真っ白なお心に触れて、だから、氷雪様は白牡丹の様な、お方なのです。高潔で、微かに甘く、温情のある方です」
「恥ずかしげもなくよく言える。純真無垢なのは、蝶子の方だろうが」
「ふふ。いいえ」

 氷雪は眩しそうに蝶子をチラリと見てから、俯いた。

「俺は、大蛇だ。人も殺めた。蝶子が怯えるような存在だ」

 蝶子はツキンと胸を痛めた。大蛇の姿を恐れていた。それを酷く恥じた。咄嗟に、氷雪の冷たい手に触れて握り、両手で包む。氷雪は手を引こうとしたが、蝶子はそれを許さなかった。

「蝶子、俺は……穢れている。触れてはいけない」
「いいえ。とても綺麗な手です」

 氷雪は苦しそうに唇を震わせた。

「俺は、お前の幼馴染みだという啓太の魂を切りつけた、たぶん、もう奴は……」

 蝶子は泣き出したい気持ちを抑え、氷雪の手を、宝物のように己の額で触れた。

「いいえ。とても綺麗な手です」

 氷雪は言い淀む。

「蝶子は、もう自由だ。もしも人界に帰りたいなら──」
「いいえ、行きません」

蝶子はたまらず、顔をあげた。

「わたし、ここにいたいです。未だに嫁とはなんなのかわかりません。でも、わたしは氷雪様を、好いています」

 この切ない気持ち。これが恋なのだろう。
 一陣の風が、ざざっと吹くと、一斉に白牡丹が揺れ動き、花弁が舞う。香りが立つ。蝶子は瞬きも忘れ、氷雪を見上げた。

「わたしは、あなたの側にいたいです。本当のお嫁には、してくださりませんか」
「つっ……意味わかってる」

 蝶子は頬を染め、コクリと頷き、柔らかく微笑んだ。
 氷雪は一瞬、泣き出しそうに顔を歪めた。
 そのまま、綺麗な顔が蝶子の顔に近づいてくる。お互いの吐息がかかる。

 氷雪はそれでも幾度が躊躇っていた。蝶子の唇に触れる。柔らかな感触がして、胸が締め付けられた。

「蝶子」

 唐突に、唇を貪られるように激しくなり、頭に手を回され、驚いて逃げそうになる蝶子に構わず、蹂躙された。

「んっん」

 鼻に掛かった声が漏れると、さらに激しさを増した。むせ返るほどの、白牡丹の甘い香りを嗅ぎながら、蝶子の胸はざわめき、何とも言えない気持ちが広がった。

「もう、我慢はしないからな」
「えっ」

 唇を離され、ぽやっと蝶子がしていると、氷雪は蝶子をひょいと横抱きに抱えた。

「え、ええええ。ええっと。氷雪様、その、お体は……」

 綺麗な顔が、間近で柔らかく笑った。

「ふふ」

 ちゅっと、触れるだけの接吻をされ、蝶子の頬が、さらに赤くなる。

「あの、あの、続きは……夜に」
「待てない」

 満面の笑みをして言い切る氷雪は、有無を許されず蝶子を部屋に連れていった。布団に寝かされ、帯に手が伸びる。心臓が破裂しそうで、顔をそむける。部屋のなかの障子が少し開いていた。隙間からは、綺麗な蝶が羽を広げて、青空へ飛んで行くのが見えた。蝶子は幸せなのに泣きたい気持ちが押し寄せてくる。

 それからは、タガが外れた氷雪に、求められるだけ求められた。初めて逢瀬を交わした。
 蝶子は、その日、白神様の本当の妻となった。

おわり