嫁ぎ先は神様の住処

 廊下を渡る。書院、氷雪の居間、廊下から見える池の庭を通ると、屋敷の中に門があった。

「開け」

 と大鷹が言うと、重い門扉がギィと開く。門の先は屋根付きの渡殿になっていた。

(屋敷の中にこのような所があったのですね)

 蝶子は屋敷の奥までは足を踏み入れたことが無かった。廊下などの掃除はすべて童子がしている。

 蝶子は生唾をひとつ飲んで、躊躇いがちに渡殿に足を踏み入れる。木造の廊下がキシリと軋んだ。渡殿の先には円状の穴があった。繭玉のような穴は、腕ほどの太さの幹が絡み合い、別世界の入り口に思えた。とはいえ、すでにこの屋敷は人間界ではないのだが。それでも、不思議な繭玉は別次元に思えた。

「蝶子」

 つい、足を止めてしまい、童子が心配げに促した。

「行きましょう」

 蝶子は身を引き締めて、薄暗い繭玉の中へと入っていった。

「ここが、揺り篭」

 繭の中は、木々や花々に囲まれていた。桜にユキヤナギ、椿や木蓮。狂い咲きのように四季を無視して開花していた。苔や緑色の木々に囲まれて、蝶子は目を見張る。現実離れした風景に息を飲む。

 揺り篭の中心には祭壇があり、大鷹は軽々とそこに氷雪を横たえた。
 まるで眠り姫のように思えた。

 木々の枝には沢山の鈴がぶら下がり、それが、ちりちりと澄んだ音を響かせる。と、銀色に輝く粉が、ふわふわと漂い、渦を描き氷雪の体の中に吸い込まれていった。

「あの光はなんですか」

 蝶子が聞くと、大鷹は「ふむ」と答えた。

「自然の精力とでも言うかのぅ。大地には神秘的な力を宿しておる。それを使って治癒力を高める。そんなところだ」
「では、氷雪様は」
「うむ、とりあえずは一安心だ」

 大鷹が余裕の笑みを浮かべる。安堵して、皆が、ほっと胸を撫で下ろす。
 蝶子は急に足に力を失い、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。

「だらしない奴よ。ところで娘子。よく見ると、とんでもない格好しているではないか、そんな姿を我が見たと知ったら、雪は不機嫌になるぞ。さっさと風呂に入り、着がえて、怪我の手当をせよ」

 蝶子は、はっとする。着物は乱れ、座り込んだ太股が丸見えだったのだ。蝶子は慌てて着物を合わせた。

「いえ、わたしはこのままで」
「風邪を引くであろう。雪も着がえさせる。娘子、こやつの裸体を見ていたいのか。それとも娘子が着替えをさせるか? それも良いか。雪が起きたとき娘子が着替えさせたと知れば。ふふ。見物じゃな」

 蝶子は真っ赤になって、ぶんぶんと顔を振った。

「あの、大鷹様。お願いします」
「なんじゃ、つまらん。雪をからかって遊ぼうと思うておったのに」

 からかいさえなければ、大鷹は頼れる神様なのだが。これがこの神の性分だ。
 大鷹は「小童ども、支度をいたせ」と手を叩いて命令した。
 童子たちは、ぽんっと音を立てて、子蛇から人間の姿に変わる、が、下半身は蛇のままだった。

「うう。中途半端です」

 童子たちは格好悪いと言いたげに嘆く。童子たちは、水桶、タオル、氷雪の着物などの支度に取りかかった。

 蝶子は言われた通り、湯殿に行く。お風呂は温泉になっていて沸かす必要はない。怪我した足に染みるが、ざっとお風呂に入り、着がえる。

「蝶子、足の手当しなくちゃ」

 童子が持って来た薬箱で手当をしようとした。蝶子は「自分でやります」と言い、怪我を見る。いまさらながら、擦り傷だらけだと嘆きたくなる。風呂に入ったことで血行が良くなり、爪が剥がれた親指が、余計にズキズキした。それも疎かに立ち上がると、怪我を庇いながら廊下を歩く。
 自分のことよりも、氷雪の側に行きたかった。

「上手い」

氷雪のいる場所に向かっている途中、大鷹の大声が食事をする料理の間から、聞こえ、いったん、蝶子は足を止めた。

 大鷹が酒を呷りながら、御膳に置かれた、煮豆を箸でつまみ食べていた。

「お前も食うか? 酒が美味であるぞ」
「いえ、結構です」

 食事をする気にもなれない。蝶子は眉を顰めながら、丁重に断り、揺り篭のもとへと向かった。

 氷雪は未だに意識を取り戻さない。濡れた衣も替えられ、顔の汚れも拭かれ綺麗になっていた。
 このまま目を覚まさないのではないか。

 蝶子が近くに寄っても、氷雪は起きる気配がない。
 遠くから大鷹の笑い声が聞こえる。大鷹には氷雪を運んでいただき、感謝はしているが無神経な態度に、少々、苛つきを募らせる。

 蝶子はしゃがみ込み、そっと氷雪の右手を握った。温かい。先ほどまでは、このまま冷たくなってしまうのではないかと気を揉んでいたが、こうして手を握っていると安堵する。

「氷雪様」

 蝶子の手に力が籠もる。

「もう、酒を飲むと笑い上戸なんだから。ぷんぷん」

 と、そこに、にねが嫌みを言いながら揺り篭に入ってきた。そのあとを、童子たちが全員、続く。
 相当、大鷹の態度にご立腹なのか、童子たちの蛇の尾はペシペシと苔むした床に荒々しく叩きつけられていた。

 どうやら、大鷹は遠慮なく酒を飲み、童子たちにも絡んでいたようだ。

 童子たちは可愛らしい眉をつり上げていたが、氷雪を見下ろすと心配げにした。しばらく、もじもじとしてから、蝶子を見て、傍らに、ちょこんと座った。

「蝶子……雪のこと」
「嫌いにはなりません」

 先ほどの約束を口にすると、童子たちは、あからさまに安堵してから、ぎこちなく笑った。蝶子もつられて、笑う。

 どんなことがあっても、もう、氷雪を嫌いにはなれない。
 童子たちは、しばらく躊躇っていた。氷雪のことを聞いてと言っていたが、まだ決心がつかないのだろう。

 長い沈黙のあと、おもむろに、ぽつり、ぽつりと話し出す。

「雪はね。人間として、この地で産まれたんだ」
「母は村でも噂になるほどの美人で、雪の父は女にだらしなくて、母を見初めたんだよ」
「雪の母親は五人目の愛人だったんだって」

 いちね、にね、さんねでひとつの言葉を繋げる。蝶子は驚いた。

(初めから氷雪様は、神様だったわけではないのですね)

 神とは人なざる者。
 蝶子は蒼白な氷雪の顔を見つめた。
 人であったならば、人神様なのだろうか。

 人神様は死後に神として、祀られた者のこと。それは功績からなる者や、怨霊として鎮めるための者など、様々だ。
 ふたにが言う。

「父は村一番の富豪で、村長をしていたんだ。村の人たちに逆らえる者は、誰もいなかった」

 蝶子は眉を顰めた。
 童子たちの語り口調と、父親の立場、氷雪の母が愛人だったことから、氷雪があまりいい待遇をされていなかったのではないかと、蝶子は心を痛めた。

「一年もすると母は身ごもり、雪を産んだんだ。父は一切、子供を可愛がりはしなかった」
「雪は生まれつき、髪が銀色で、村人たちから迫害を受けていたんだって。慈愛は、母しかしらなかったはずだよ」

 蝶子は氷雪の冷たい手を両手で包み込んだ。

『俺の側に……いてくれ。頼むから。今は、今だけは』

 氷雪は啓太との戦いで、そう言った。
 その言葉の意味に含まれる、寂しさや孤独を考えると、この優しい神は、どれほど心に傷を負っていたのだろうか。
 愛情を母以外、受けることがなかった。

「あのころ、雪の母も虐げられていたんだって。嫉妬からなのか、憂さ晴らしなのかはわからないけど、正妻と、その子供から、酷いことされていたみたい。雪は、その辺のことは詳しく教えてくれなかったけど。父は見ない振りをしてた。あの人にとって大事なのは、雪でも、雪の母親でもない。正妻と、その正妻の子だけだったから、彼らには贅沢させて好きなようにさせてたみたい」

 ぎりりっと、いちねが唇を噛みしめた。

──そんなある日「この村がどうやって繁栄しているのかわかるか」と父が氷雪に聞いてきたと言う。氷雪が知るはずがなかった。父の性格を考えると、どうせ汚いことに手を染めて得た栄華だろう、と十歳の氷雪は思った。すでに父親に愛情などなかった。荒みきった心を剥き出しに氷雪は父を睨みつけると、父は卑しく笑って、こう答えたそうだ。

「この村は呪物を祀って繁栄しているのだ」

と。この村は山に囲まれた土地がらで、風通しが悪く、日当たりも良くなく、作物が育たなかった。

 度重なる開拓を続けていても、水に恵まれず、貧困な生活が続いていた。村人たちも貧しさから死人が絶えない。

 ひとつ山の向こうでは鷹の生息地で豊かだというのに、聖地を荒らすことを将軍に固く禁じられ、山に踏み込むことが出来なかった。

 どこぞの村に移り住むことも許されず、この村は孤立していたのだ。
 このままでは村は滅びる。
 そんな土地で繁栄するために、父の一族は、呪物を祀った。

 塚を建て、白蛇を捕らえ閉じ込めた。白蛇には富と財産をもたらす。脱皮を繰り返す蛇は再生と死を意味し、一族はそれを利用し、死をもって村の再生を得ようとした。そうして作り上げた魔物を飼ったのだ。
 そして村を繁栄させるために必要なのは死。

「それには贄が必要だった」

 そこで考えた、おぞましい、一族の規定。
 我が子を贄とする。

 村の子供を贄にしていては、いずれ反発心が生まれ暴動へと発展する。先祖は考え、身分の低い娘を見初め、子を産ませ、贄とした。そうして雨の恩恵を受けることになったのだ。

 氷雪は、その日、祀っている蛇塚に無理矢理連れられた。母は必死にそれを止めようとした。

「氷雪を離して。あの子がなにをしたのです。お願いです、酷いことをしないで」

 悲痛に叫ぶ母を父は高笑いした。
 母は我が子を助けようとするが、その度に、父と従者によって、突き飛ばされ、蹴られ、氷雪と引き離された。

 非力な女になにが出来ただろうか。
 氷雪も必死で抗った。母親のためならいい。しかし、父親のために我が身を捧げる気など無かった。
 しかし、小さな子供の抵抗など大人に勝てるはずが無い。

「くそったれ」

 汚い言葉を父と従者に浴びせる。彼らは悪意の目を向けて笑う。氷雪は、凄まじい怒りを覚えた。

 所詮、父にとっては愛人の子など供物でしかなかった。
 氷雪は憎しみを込めて父を見上げる。

 ぽんっとゴミでも放るように氷雪は、蛇塚の下にある地下洞窟に投げ込まれた。
 蠢く邪物。ぎっしりと埋め尽くされた蛇。
 誰も助けてはくれない。

「母さん」

 母を恋いしがりながら、氷雪は蛇に首を絞められていく。そうやって氷雪の命は十歳で絶たれた。

──蝶子の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

「氷雪様は……」
(実の父親に殺されたのですね)

 蝶子の唇が震るえて、それ以上の言葉が出せなかった。

 どれほど辛い思いをされたのだろうか。
 どれだけ傷つき、絶望したのだろうか。
 酷すぎる。

 父に裏切られ、母と引き離され、たった十歳の子供が。任を背負うには重すぎる。

(氷雪様には何の罪もないのに)

 蝶子の目から、とめどなく涙が溢れた。

「いいこ。いいこ」

 童子たちは、眠る氷雪の頭を、よしよしと撫でてやった。さんねは目元を赤らめている。

「雪は、あのまま蛇に絞められて死んだの。そして、魔となった」
「魔?」

 蝶子は驚いた。魔とは神とは正反対の者のはず。
 氷雪は神だ。
 なぜ、神では無く、魔なのだろうか。

 童子たちは、試すような目を蝶子に向けた。あれほど氷雪を嫌わないでと言っていたのだ。氷雪にはまだ、とんでもない過去が隠されているのだろう。

「嫌いには、なりません」

 蝶子はきっぱりと答えた。
 にねは深呼吸をすると意を決して、口を開いた。

「月下の紅血」
「えっ」

 蝶子はきょとんとした。月下の紅血。村の言い伝え。

 その昔、月明かりが照らすなか、一匹の大蛇が無差別に人を襲い、一夜にして村を壊滅させた。その一夜を、月下の紅血と言われた。

 村の子供達は、悪いことをすると大蛇が村を訪れるぞと、脅されて育ったのだ。

「それは昔語りの、伝説でしかないのでは」

 童子たちは首を横に振った。

「雪は殺されたけど、その魂魄は、憎しみがいっぱいで、逆に蛇たちを飲み込んだんだ。そして魔性となった。父を怨み、村人を怨み、怒りにまかせて村を襲い、一夜にして村を殲滅させたの。血の海となった悲劇を、近くの村の連中が、そう呼ぶようになっただけ」

 想像を超える氷雪の過去に蝶子は絶句した。

「蝶子、怖い?」
「……いえ。驚いて」

 しかし、そんな魔となった氷雪が、なぜ神になったのか。

「雪は、その村だけでは収まらなかった。だから外法師が現れ、雪を塚に封印したんだ。祟りは祀ることで鎮圧させられる。そのまま氷雪は、魔から転じて無理矢理に、神とさせられた」
(無理矢理)

 てっきり、自分の意志で神になったのだと蝶子は思っていた。

「雪は封じられて抗っていたけど、生き残らせた、雪の母に毎日「怨みを捨てて神として生きて欲しい」と言われては、氷雪は抗えなかった。そのうち、母と外法師が添い遂げ、この村は母の血を受け継いだ子孫で成り立ったんだよ」
「では、この村は」

「うん。雪の血縁者たちだよ。遠いけど、啓太もそう」
「あれから八十年。雪は母のために、義理で、ずっとこの村を守っていた。でも」
「でも、なんですか。これ以上、氷雪様に、なにかあったと言うのですか」
「因縁って引き寄せられるものなのかな? ある日、父の生まれ変わりが村を訪れてしまったんだ。そして、雪の憎しみが蘇った」

 蝶子の心臓がどんどんと五月蠅く騒いだ。

「すでに雪の母も、とっくに他界している。村を守り続ける義理も無い。雪はどうしても父親を許せなかった。役目も偉功も捨て、雪は神の領域から飛び出した。殺すつもりで山を下ったんだ。そこで出会った。六歳の頃の蝶子に」
「えっ」

 そういえば、ひとにも、そんなことを言っていた。

(あれは、父親の生まれ変わりを殺そうとしていた)
「私たちは雪を止められなかった」
「でも、蝶子は屈託なく笑って、触れて、そして雪に白牡丹を贈ったんだ」
「あのときの雪は綺麗な心だなんて言えなかった。でも蝶子は、雪のこと、白牡丹のように綺麗だって、言ってくれた」

 子供のころの蝶子は、そんなことを思ってあげたわけではない。
 ただ、なんとなくあげただけだろう。

「雪に優しくしてくれた人は、母親だけだったから」

 蝶子の胸が、ぎゅうっと締め付けられた。
 人を怨み、人を殺め、一度は魔となった氷雪。

「神とは名ばかりで、この手は血で染まっている。雪はよく言ってた」
「蝶子に会った、あの日、雪の憎悪は砕けたんだ」
「あのまま父の生まれ変わりを殺めていれば、我を失って荒神になってたと思う。それでも構わないと思った。雪が気が済むなら。ぼくたちも一緒に落ちようって」
「でも、蝶子が引き留めてくれた。小さな手で」

 ただ、笑っただけ。
 ただ、触れただけ。
 ただ、白牡丹を贈っただけ。

「あれから、蝶子を見守って、空っぽだった雪の心は救われていった。ぼくたちが居ても、雪は、ひとりぼっちだったから」

 童子たちは雪の過去を語り、ポロリと涙を流すと、氷雪の頭を撫でた。

「あなたたちは?」
「ぼくたちは、異母兄弟。雪は、ぼくたちの弟なんだ」
「ぼくたちも父親に捨てられ、贄として蛇のなかに投げ込まれた子供だよ。そのなかで残っていた魂の欠片を雪は見つけ出して、受け入れてくれた。神力を使って、子分として十三人顕現させた神使。それがぼくらだよ」
「氷雪は、ぼくたちの心ごと、受け入れてくれたんだ」

 蝶子はたまらず、氷雪の手を離し、童子たちを抱きしめた。童子たちは一瞬、きょとんとしたが、蝶子の頭や肩や背を、よしよしと撫でた。

「ううう」

 涙がとまらない。
どちらが慰められているのかわからない状態だった。

 こんな小さな子供を殺めるなど、怒りすらこみ上げる。童子たちは、なんてこともないと言いたげに微笑んだ。

「蝶子、いてくれてありがとう」

 礼など不要なのに。
 存在価値など、とっくに無いと思っていた。生きている価値すら無いと、ずっと思っていた。

「蝶子、側にいて。氷雪の」
「氷雪を、ひとりにしないで」
「お側にいます」

 こんな蝶子でもいいなら。氷雪の側に。