嫁ぎ先は神様の住処

「どこに行く」

 降りしきる雨に打たれながら、険しい目付きの氷雪が、木々の間に佇んでいた。息を乱し、肩を上下させて、今しがた駆けつけて来た様子に蝶子は目を疑った。

「氷雪様……どうして」
「! どうしてだと」

 氷雪は、ぎりっと奥歯を噛み、ずんずんと地面の青草を踏みつけながら近づき、蝶子の正面に立ち、ずいと、触れそうなほど顔を寄せた。憤った目が、血走っている。

「蝶子を迎えに来た」

 蝶子は息を詰める。

「なぜ、来られたのですか」
「愚問だな」

 氷雪は、そっと指で蝶子の頬に触れ、肩を撫でた。

「どこも怪我は、ないな」

 氷雪の表情が、ほんの僅かに和らぐ。
 氷雪は万全では無いはずだ。まだ数刻しか経っていない。そんな簡単に癒えるはずがない。それなのに、蝶子を追って、自分の身よりも案ずる。蝶子の目に涙が溜まる。喉に熱い物がせり上がった。

(なぜ、ここまでしてくださるのですか)

 同じ、疑問が繰り返される。
 氷雪はじっと蝶子を見ていた。瞬く間、見つめ合っていると、黒煙が焦れ、背後から声を荒らげた。

「蝶子に近づくな。それは僕のものだ」
「蝶子は、お前のものではない」
「神なんぞに、渡さない」
「ふん。たかが生き霊の分際で、俺をこれ以上、怒らせるな」

 氷雪は射るような視線を黒煙に向け、体を回転させ、蝶子を背に庇った。

(生き霊)

 あの異常な黒煙姿は、啓太の生き霊だったのか。どうやら、啓太の負の感情が投影したものらしい。
 黒煙は怒りで震える。

「それは、こっちのセリフだ。今まで蝶子を守って来たのは僕だ。それなのに横から出しゃばりやがって」
「守る? 苦しめてきたの間違いだろう」
「うるさい」

「お前がいなければ、蝶子の両親は、貶められることも、死ぬ事も、無かった。ただの武家の娘でいられたんだ」
「黙れ。蝶子のことは僕が一番わかっている。僕のことも蝶子が一番理解している、神に……蝶子と僕の間の絆がわかってなるものか」

 絆?
 蝶子にとって啓太へと絆とは、幼馴染みでしかなかった。
 ならば、今の氷雪との繋がりは、なんと言うのだろうか。

 蝶子は大きな氷雪の背を凝視した。当たり前のように啓太から守ろうとする行動に蝶子は言いようのない疼きを感じた。
氷雪は鼻で笑う。

「勘違いも甚だしい。お前のは、ただの固執だ」
「蝶子は僕を好いている。僕と一緒になるのがいいんだ」
「阿呆が、蝶子の優しさを、温もりを錯覚するな」
「僕は特別なんだ」

 蝶子は、氷雪と啓太の応酬を聞きながら釈然としない気持ちが、胸の奥底に痼りになっていた。

 なぜ氷雪も啓太も、蝶子を側に置きたがるのだろうか。こんなちっぽけな命。必要ないだろう。損はあっても、得るものはない。

「特別? ふん。違うな、ただ、孤独なだけだろう」
「違う」
「孤独のなかは辛いからな。所詮、俺もお前も、ひとりなんだよ」

 蝶子は驚いた。
 氷雪は孤独だったのだろうか。童子たちがいる。屋敷がある。大鷹という友もいる。それでも数千は生きる神とは、孤独な生き物なのかもしれない。

 蝶子も両親が亡くなってから天涯孤独だ。啓太も、母親を亡くして孤独を感じているのかもしれない。

 だからとて、人を呪い、殺し、人を手に入れるのは間違っている。
 氷雪はふいに蝶子を見て、顔を戻した。その瞳にどこか憂いが含まれているように思えた。

「温もりをくれたから蝶子が欲しい。俺と同じで、お前は側にいて欲しいだけなんだよ」
「えっ……」
(蝶子が欲しい?)

 氷雪の言葉に、蝶子は息を、一瞬、止め、瞬きを忘れるほど、氷雪を凝視した。

「うるさい」

 啓太は怒り黒煙が膨れる。膨れた黒煙から、幾つかの老若男女、大人に子供の悪霊が飛び出して来た。
 蝶子は氷雪が言った意味を考える余裕もなかった。

「悪霊を飼っていたか。末恐ろしいな」

 啓太の才能を賞賛し、氷雪は蝶子を背に庇い、クルリと立ち回りして、腰に下げていた刀を、スラリと鞘から出した。

 啓太は悪霊を捕まえて懐柔させていたようだ。
 ザンバラ髪、鋭い牙に、長い爪、青白い肌、すり切れた衣。股から下は煙で浮遊する悪霊。男の悪鬼が飛びかかる。流れ星ほどの早さで。氷雪は悪鬼を刀で突いた。弾け、四散した。

 氷雪は蝶子の腰に手を回し、クルリと回りながら、右から左から悪霊が襲い掛かられ、切りつけた。みるみるうちに悪霊は退治されていく。氷雪には余裕すら感じられた。蝶子は氷雪にしがみつくしか出来なかった。

 氷雪は最後の悪鬼を切りつけて倒す。惜しむ様に蝶子の腰から、そっと手を離し、啓太を睨んだ。

「随分と力をつけたな」
「今の世は、疫病や災厄が蔓延(はびこ)っているからなぁ」

 疫病、災害で怨みを持った人が悪霊となり、啓太はそれを使役した。
 死霊をも利用して蝶子を奪いに来た啓太。執念に恐怖する。
 と、氷雪の腕がぴしりと音を立てて裂けた。

「氷雪様」

 衣の裾の合間から垣間見えた、鱗模様の腕に蝶子は動揺する。どうやら力を消耗したようだ。氷雪の手が微弱に震えていた。

「大丈夫だ」

 氷雪は衣をあげて隠す。

「わからんな。なぜ蝶子を欲する?」

 啓太は怪訝そうな声で聞いた。

「お前は神だろう? なぜ、そこまでする。なぜ、嫁にした」
「……」
「人で無い神が、なぜ、人間である蝶子を得ようとする。神とは人の願いを叶えるためにあるものだろう」

「笑止。神とは均衡を保つだけの存在だ。穢れた大地を、雨や自然摂理を持って浄化する。そこに人の願いなどない。必要ならば災害も起こす存在だ」

「ならば、蝶子はいらないだろう。蝶子は人間だ。神ではない。神が必要とする理由など無い。僕といるのが正しいことだ」
「正しいとはなんだ。そもそも蝶子は物ではない。最終的に選ぶのは蝶子だ。強要するな。だが、お前だけには渡せない。蝶子を不幸にだけはさせたくない」

「はは。不幸にさせたくないだと、ふざけるな。神よ。お前はなんだ。蝶子に恋慕してるとでも言うのか」
「……」

 氷雪は言葉を詰まらせた。

 二人の会話を聞いていたが、蝶子は半分しか理解が出来なかった。
 恋慕している?

(氷雪様が、わたしに?)

 (にわか)に信じがたい。
 でも、先ほどの言葉を思い出す。
 蝶子が欲しいと。
  だめだ。
 勘違いをしてはいけない。
 都合良く捉えてはいけない。

 氷雪は優しい。ただ、側に置いてくれているだけだ。
 慈悲深いから、村の近くの安寧のため啓太をどうにかしようとされたのだろう。

 蝶子を始末することも出来ず、神の屋敷に招いた。嫁として。きっとそうだ。
 蝶子は唇を引き結んだ。
 啓太は高笑いした。

「傑作だ。神聖なる神もそうなんだろう。自分を正当化して僕を罵る。僕となにが違う。側に置きたい。触れたい。すべてが欲しい。ただ恋うているだけ、そうなのか。そうなんだろう。ははは。だから無理矢理、蝶子を嫁にした。神ともあろうものが。くくく。自分の欲を押しつけた」

 氷雪の肩がびくりと震えた気がした。
 散々、啓太は笑い、声を荒げる。

「僕を身勝手だと言うなら、神はなんだ。神様ならなにをしてもいいのか。笑わせる。所詮、神だろうが己の欲を満たしたいだけなんだろう。渡さない、蝶子は誰にも渡さない。僕の物だ」
「言いたいことは、それだけか」

 仄暗く低い声で氷雪は啓太を牽制する。啓太は怯むことは無かった。

「僕は神をも、殺せる」
「やってみろ」
「氷雪様」

 蝶子は思わず、氷雪の背の衣を握った。

「大丈夫だ、蝶子」

 やんわりと言われ蝶子は頷いて手を離した。
 その行動に啓太は怒り、黒煙を膨らませた。太い黒煙は腕を形成した。
 なにをしようというのか。

 蝶子と氷雪が見守るなか、啓太は近くにある木々を横から殴った。メキメキと太い幹が、どっと倒れる。葉が舞。木の根が飛び出し、泥が飛び散る。
 行動に、ぎょっとする。

「僕のなんだよ。僕のだ」

 啓太は次々と木々を薙ぎ倒し、当たり散らした。子供の癇癪を思わせる行為だった。蝶子は体を縮こませた。

「俺の背に、しっかり隠れていなさい」

 こんな扱いをされれば、また、勘違いをしたくなる。真意を聞きたい気持ちを抑えて蝶子は従順に応じて頷き、氷雪の背にさがった。

「触るな。蝶子は僕のだ。今まで、蝶子に邪な感情を抱いた男どもを、何人も何人も、殺して来たんだ。そうやって蝶子を僕が守って来たんだ。だから例外なく神だろうが殺してやる」

 蝶子は目を見開く。殺して来た? 蝶子の回りには変死する男が多かった。疫病だと思っていた。なかには行方不明になった者もいた。蝶子は動揺した。

「耳を貸さなくていい」

 氷雪は言う。
 しかし、それが真実なら、蝶子は本当に、なにも見ていなかったのだ。すべてに心を閉ざし、啓太の残忍性にも気づきもせず、啓太の情にも気づかず、のうのうと、ただ、生きていただけ。

「あいつも、こいつも、殺した。蝶子に触れる者は、誰だろうと許さない。僕のだ」

 もう、啓太は狂っているのかもしれない。邪物を扱う代償。
 目の前の光景が変わって行く。
 啓太が殴り続けた大木が、ぎぎ、と奇妙な音を立てて、こちらに向かって倒れてくる。氷雪は蝶子を背に庇い避けた。

 森が荒れ地となり、倒された木々から、精霊の木霊が、逃げ惑い数多に舞った。それは上空を飛ぶ灯籠のように淡い黄緑色に発光し漂い、不謹慎にも綺麗に思えた。

「ひとに」

 氷雪は、童子を呼んだ。「ここにいるよ」と隠したはずの、ひとには返事をすると、子蛇姿のまま茂みから、飛び出て、そのまま、ぽとりと蝶子の肩に飛び乗った。それを確認すると、氷雪は啓太に向かって走って行った。

「氷雪様」

 蝶子はその後を追おうとする。

「蝶子、駄目だよ。雪の邪魔になる」

 耳元で、ひとにに制止され、蝶子は足を止めた。

「蝶子。雪が戦っているうちに逃げるよ」
(逃げる?)

 刀剣を両手であげ、跳躍する氷雪の姿が見えた。

「いいえ。逃げません」
「蝶子!」

 氷雪は左から右下にかけて黒煙の腕を切りつけた。切られた腕がパキパキと音を立てて氷り固まる。地面に落下して砕け、散った。

「ぐうう」

 と啓太の苦痛な声が響いた。ひとには、蝶子の髪を咥えて引っ張った。

「蝶子、逃げよう。ここにいたら、啓太に殺されるかもしれないんだよ」
「それは、氷雪様が倒されるかもしれないと言うことですか」
「……違う……けど。でも、ここにいたら危険。だから雪も」
「いいえ、もう、逃げません。どんな結末になろうとも、ここにいます」

 ずっと逃げつづけていた。見ず、聞かず、言わず。
 従ってさえいれば、時は経つ。死すら他人に任せた。
 そうやって、蝶子は逃げ続けていたのだ。
 もしものことがあっても、氷雪様の側でありたい。

 たとえ、死ぬことになっても。
 蝶子は、目をしっかりあけて、氷雪と啓太の戦いを見守った。
 上空で氷雪は一回転して、着地する。すぐに黒煙に斬りかかる。啓太は黒煙のなかから呪符を投げた。

 呪符が沢山の蜘蛛に変化し、氷雪に飛びかかって行く。氷雪は刀を振るう。蜘蛛を切り裂いた瞬間に、紙吹雪となり、散り、水色の炎を纏って、塵となり消える。悪臭が辺りを漂った。

 残った蜘蛛から糸が吹き出され、氷雪に向かう。氷雪は横一文字に、宙を切り裂く。ぎぎっと悲痛な声をあげ蜘蛛が破裂し一掃された。

 強い。
 蝶子は氷雪の戦いに驚いた。握られた手に力がこもる。

(氷雪様)

 蝶子は気づいていた。自分の感情に。芽生えていた。とっくに。

(わたしは、あなたのことが)
「それが、お前の核か」

 氷雪は顎をしゃくりながら啓太を差した。
 啓太は力を使い過ぎたのか、黒煙は薄まり、中心の藁人形が透けて見えた。驚くことに、心臓のように藁人形は、どくどくと脈を打っている。

 藁人形が不気味に笑ったように蝶子には見えた。
 なにか仕掛けようとしている。直感でそう感じた。

「来い。旧鼠(きゅうそ)

 啓太が言うと、ガサガサと山々を囲う様に音が響いた。赤い目を持つ使役した鼠の妖怪。旧鼠。年老いた鼠が妖怪となった。
 その大群が這い回り、氷雪に向かう。

「こんな物まで、飼ってやがったのか」

 鼠の息遣いが聞こえてくる。大群になると呼吸音すら危機感が迫る。蝶子は固唾を呑んで氷雪を見守った。氷雪は剣先を迫り来る旧鼠に向けた。

「無駄な力を持っているな。忌ま忌ましい」
「どうも」

 啓太は遊びでもするような口調で言い、氷雪は眉を引き攣らせる。

 啓太の飼っていた悪霊を、いとも簡単に退治した氷雪だ。大群とはいえ、旧鼠に苦戦するようには思えない。啓太は少しずつ氷雪に力を使わせて、余力を削ぐ作戦に出たのだろう。

 神力は確実に減っている。腕を裂いた鱗が物語っている。獲物を捕らえる猫のように啓太は氷雪をいたぶるに違いない。
 ところが

「蝶子。おいで」
「えっ」

 夥しいほどの旧鼠は、氷雪では無く、方向転換すると蝶子を囲った。足元から旧鼠が這い上がる。

「しまった」
「逃げて、蝶子」

 氷雪は振り返り、ひとにが叫ぶ。だが、もう蝶子は動けなかった。蝶子は肩の子蛇を掴み、安全な所に放り投げようとして、止まる。

(安全な所がない)

 足の踏み場も無いほど旧鼠に取り囲まれている。投げた途端に、旧鼠に、ひとにが殺されてしまう。蝶子は奥深く懐に、ひとにを仕舞った。

 何万とゆう旧鼠が這い上がり、蝶子は胸を交差して、ひとにを庇った。

「蝶子」

 氷雪は身動き、とれずにいた。

(わたしのせいで、氷雪様に迷惑が)
「はは。油断したね。僕の狙いは蝶子だよ。おいで、蝶子」

 啓太は初めから蝶子を狙っていたのだ。蝶子さえ手元に入れば、氷雪が手出しできないと踏んだのだ。

 夥しい数の旧鼠に全身を覆われ、蝶子は抗えずにいた。とてつもない力が加わり蝶子の体が浮く。足の裏には、旧鼠。小さな体躯が蝶子を持ち上げた。

 足元が蠢き、運ばれ、啓太の元へと向かった。

「やっと、僕の物になる。おっと動くなよ。僕は蝶子の死体だろうと愛せるんだ」

 氷雪が刀を握り直したとき、蝶子の首元までも、旧鼠は這っていた。このまま首を絞めることも、口を塞いで息を塞ぐことも出来る。蝶子は己の迂闊さに嫌気が差す。蝶子はかろうじて見える旧鼠の隙間から氷雪を見た。

「氷雪様、私ごと、首を切り裂いてください」

 蝶子は氷雪に叫んだ。氷雪は、即座に刀を下ろした。

「もう十分です。氷雪様。わたしなんかのために、これ以上、傷を負うことはないのです。だから」
「切らない」
「氷雪様」

 氷雪は首を横に振る。

「わたしの様な者は、お捨て下さい」
「捨てるものか」

 絞り出す声で氷雪に言われ、蝶子の胸が苦しくなる。
 蝶子の頬に涙が伝う。

(わたしが生きているかぎり、啓太は諦めない。わたしが生きているかぎり、氷雪様は守ろうとする。氷雪様を死なせたくない)
「捨てて」
「俺を思うなら……」

 蝶子の言葉が終わる前に、氷雪は悲痛な眼差しを向けて言葉を遮った。
 雨がシトシトと蝶子の頬を伝い流れ落ちていく。

「俺の側に……いてくれ。頼むから。今は、今だけは」

 切なる叫びに、蝶子の心臓が跳ね上がる。
 側にいて欲しいと。

(わたしの様な者に)

 ちっぽけな存在に。

(側にいて欲しいと)

 蝶子の唇が震える。

(あなたの側に、いたかった)
「ははは」

 啓太は高笑いする。距離は藁人形に巻かれた数本の髪毛が確認できるまでに迫っていた。蝶子は藁人形を憐れみを帯びた目で見上げた。

「啓太。一緒に死のう。それじゃ駄目」

 藁人形は、びくりとした。

「一緒……に」

 藁人形は怯んだように呟き、動かなくなる。蝶子は頷いた。

「蝶子」

 氷雪が叫ぶ。
 と、足元が発光した。眩しさに目を細め地面を見ると、丸い円陣があった。魔方陣。

 氷雪は憤怒の形相で、刀先を天に指す。すると、同じ位置の上空にも魔方陣が光り、出現した。二つの魔方陣は、ぐるぐると回転する。

 啓太の一瞬の隙をついて氷雪が攻撃を仕掛けて来た。

 上空の魔方陣から、大きな尖った鼻が、ぬっと出てきた。長い髭。紅珊瑚色のい目。太く長い銀色の体躯、氷結の竜。パキパキと音を立てて、上空からゆっくりと、体躯をくねらせ下りてくる。氷結の銀の欠片が、パラパラと光りながら落ちる。

 天地をも操る神の業。これが氷雪の力。
 竜は口を開き、銀の雷を四方に放った。雷は森一帯を走り抜け、旧鼠が感電し、飛び跳ね、炸裂し、消滅した。蝶子には傷一つない。ふらりとしながら、蝶子はなんとか、その場に立った。

「油断したな。啓太」

 氷雪は、凍てついた笑みを浮かべた。

「うわあぁぁ。痛い。蝶子。痛いよ」

 啓太は叫んだ。

「啓太……」

 蝶子は戦慄く藁人形を凝視した。哀れな幼馴染み。もしも啓太と蝶子が出会っていなければ、こんなことにならなかったかもしれない。

 蝶子は思い、掌を握り締めた。
 そこに、胸元がモゾモゾと蠢き、ぷは、と、ひとにが懐から顔を出した。

「蝶子、今のうちに雪の元に」

 蝶子は、はっとする。
 氷雪を見つめ、もう一度、啓太を見てから、蝶子は走った。

「蝶子」

 啓太の悲痛な叫びが聞こえる。ツキリと胸が痛くなる。

「行かないで、蝶子。蝶子」

 声を聞きながら蝶子は振り切り、一直線に走る。氷雪のもとへ。

「蝶子」
「氷雪様」

 蝶子が近寄ると、氷雪は片方の腕を蝶子の後頭部に回し引き寄せ、胸に納める。

 胸に抱かれると、氷雪の体温。鼓動。香りが広がり、蝶子は安堵し、氷雪の背に手を回した。しばし抱き合う。氷雪の手が緩む。

「蝶子。少し離れていなさい」
「……はい」

 蝶子は臆すること無く頷いた。
 氷雪は刀剣を構える。濡れた足元を踏みしめ、刀で宙を縦に断ち切る。青火の剣気が放たれ、藁人形に向かう。真っ二つに切り裂かれた。

「ぎゃあああああ」

 耳をつんざく悲鳴に、蝶子は顔を顰めるが、目を逸らさなかった。
 めらめらと青い炎が藁人形に纏わり付き、藁人形が地面をのたうち回った。

「こ。ちょう……ただ……一緒に……たかった、だけなのに」

 啓太の微かな声が聞こえ、黒炭になり、消散した。

(啓太)

 蝶子は自ら啓太を見放した。蝶子は氷雪を選んだ。罪悪感が募る。
 啓太は、きっと、ただでは済まない。

 生き霊が切り裂かれたのだ。いわば、魂を切られたことになる。

(ごめん)

 啓太と一緒に死も考えた。でも、氷雪の側にいたい。
 なにも無かったかのように辺りは静寂が訪れる。戦いが終わった。

 蝶子は空を仰いだ。
 魔方陣も、竜も、いない。ただ、静かな雨だけが降り続いていた。

「──雪!」

 と、胸元にいた、ひとにの尋常じゃない絶叫に、蝶子は、はっとした。

 傍らの氷雪を見上げる。氷雪は震えていた。体からは、ぴしぴしと嫌な音がして、がくりと膝を落とす。

「氷雪様」

 氷雪の体が大きく傾き、どさりと地に倒れた。