「啓太は凄く危険なんだ。だから雪は啓太と蝶子を離したくて、嫁にしたんだよ」
結界を必死に張り、蝶子を守る、ひとには苦しそうに言った。
もう限界が近づいているのかもしれない。
「氷雪様は、どうして、たかが、気まぐれで一度だけ助けた、わたしを気に掛けて下さっているの」
悪霊となった両親から蝶子を助けた氷雪。その後も、なぜ、その様に気に掛けて嫁にまでしてくれたのか、わからない。
「気まぐれじゃないよ。蝶子だからだよ」
「?」
「蝶子は覚えてない? 六歳の時に雪と会ってるんだよ」
「えっ」
六歳。そのときは父が御鳥見の仕事で村を訪れた時期だ。そう、啓太と出会った年。同じ時に氷雪と出会っただろうか。
蝶子は記憶を探る。
「この森を通って、村を訪れたでしょう」
「うん」
うっすらと覚えている。旅装束を身に纏い、父と母と三人で山道に入った。旅など初めてで、浮つき、色々な風景や動物に目移りした。
「あの時、雪は、下界に降りて来てて、そこで蝶子に出会ったんだ」
まったく思い出せない。
あれほどの美貌だ。当時六歳とはいえ、見かければ覚えていると思うのだが。
「休憩中だったんだろうね。両親は岩で休んでいて、飽きた蝶子は少し離れたところで草木と戯れて遊んでたんだよ。ふふ。蝶子は、葉っぱをちぎって、両手一杯になった葉を空に投げて、ヒラヒラ飛ぶ葉を見上げて、くるくると回って楽しそうにしてたよ。そこに、雪が現れた。蝶子は、きょとんとしてた。あの時の雪は普通じゃ無かったから」
「普通じゃ無かった?」
「……ある人を……殺しに行こうとしてたんだ」
「……」
「冷静さを無くした状態だったから、雪の形相は、たぶん、すっごく怖かったと思う。でも蝶子は、木の陰から現れた雪を見て、なんの躊躇いも無く近づいて来たんだ」
当時を思い出してなのか、ひとにの表情が和らいだ。
「お兄ちゃん、泣いているの」
「えっ?」
「どこか痛いの? そう蝶子が雪に言ったんだよ。澄み切った瞳を向けて」
(わたし、なんて失礼なことを)
たかが六歳の子供が、神様を見上げ、馴れ馴れしく接するとは、なんたることか。
「あのとき、雪は泣いてなかったから、苛ついてた。それで、すごーく困ってた」
ひとには、青白い顔をして笑った。
(覚えてない)
氷雪の困惑気味の表情が、手に取るように浮かんだ。
きっと、六歳の蝶子を無視することも出来ず、相手することも出来ず、立ち尽くされていたのだろう。失礼すぎる。蝶子は頭を抱えたくなった。
「蝶子は、にっこり笑って、氷雪の足の裾を掴んで、痛いの痛いの飛んで行け、ってしたんだよ」
蝶子は唖然としてしまった。
当時の蝶子がやりそうなことだと言えば、そうだが、成人男性に、言葉のまじないをするなど不適切だ。
「憎悪なんて、吹っ飛んじゃうよね。ぼく、忘れない。雪が、あのとき泣きたいような表情を浮かべてたこと」
「どうして、そんな表情を?」
「雪にとっては、八十年ぶりの、人の体温だったからだと思う」
(八十年ぶり?)
神様とは人と接する機会が少ないのだろうか。だからと言って、人の子が神に触れるなど、罰当たりでしかない。許されることではない。
「蝶子はね。戸惑っている雪に、ある物をあげたんだ」
蝶子は首を傾いだ。当時の持ち物など、非常食用の乾し飯ぐらいしか思いつかない。長期保存のできる乾し飯は、米を蒸して乾燥させた物だ。
「蝶子は、そのとき、近くに咲いてた白牡丹を摘み取って、こう言ったんだ。『綺麗なお兄ちゃんの様な、お花をあげる』って、花を手渡したんだ」
「白牡丹?」
乾し飯ではなく、近場に咲いていた花を捧げたと。安直すぎる行動に、蝶子は頭の痛みを覚える。
「あれから、氷雪は蝶子を守る様になったんだ」
それだけ?
蝶子は耳を疑った。
たった。それだけのこと?
子供のすることだ。他意は無い。ずっと守るには理由が浅すぎる。
「わかりません。たった、それだけのことで、ここまでして下さることが」
「あのね。あのときの雪は、気が触れてて、人を殺して神で無い者に成り下がろうとしてたんだ。きっと、暴走してた。そしたら、誰彼構わず皆殺しにしてたかもしれない。
ぼくたちも、それを止める気もしなかったし、一緒に荒神になってもいいと思ってたんだ──蝶子は、そんな雪に、触れてくれた。優しくしてくれた。ぼくたちもわかるんだ。それって、泣きたくなるくらい嬉しいんだよ。だから、初めて自分の意志で誰かを守りたいって言う雪が嬉しかったよ」
(守りたい? わたしを)
誰からも必要とされない存在だったはずなのに。
すべてがどうでも良くなり、沢山のことから耳を塞ぎ、目を塞いできた。
生きることすらどうでもよかった。
昔、出会っていたとしても、ここまでしてくれる義理は無いはずだ。
氷雪の真意がわからない。
わからないが、氷雪のことを思うと、息苦しさを感じる。咄嗟に、蝶子は胸を押さえた。
「──蝶子。帰ろう。雪のところへ」
蝶子は言葉が出せなかった。
ひとにの話を聞いても、蝶子は氷雪にとって害意でしかない。
目の前には啓太の声が響く。
「蝶子。僕の蝶子」
氷雪のもとへ帰るということは、目の前の啓太から、ずっと守ってもらわなくてはいけない。そして、また無理をさせ、身も心も傷つける。
(嫌だ)
そんな嫁など、いらない。
「わたしは、帰れません。もう、氷雪様を苦しめたくありません。わたしのような者を側に置いてはいけません。わたしなんかよりも、他に相応しい方がいらっしゃいます」
「そんなことない。雪には蝶子が必要だよ」
「いいえ。帰りません」
「雪は、蝶子がいると、よく笑うんだ。怒ったり、くだらない嫉妬したり、楽しそうなんだ。ぼく、あんな雪を見たことないよ」
「……いいえ。わたしは……ただの根暗の女です。蝶のように羽ばたくことのできない。蚕と同じ。サナギのまま煮られて死んでいく。そんな存在なんです」
(だから、捨ててください)
守ってくださる価値も無い。
(わたしなどに関われば、氷雪様が)
亡くなった両親と同じ様な目に遭わせてしまう。心がひやりとした。それだけは避けたい。二度と大切な人を失いたくはない。
「蝶子は雪の側にいたくないの」
「……」
蝶子の瞳に熱が帯びる。視界が歪む。
(いいえ。いいえ)
氷雪の優しい声、氷雪の微笑。氷雪の温もり。
額にそっと触れる、氷雪の唇の感触が蘇り、頬から、一筋の涙が伝った。
(氷雪様の側にいたい。本当は)
「あっ」
と、ひとにの体から白い湯気が上がりだした。しゅるしゅると、ひとにの体が縮んでいく。ついに、限界が来てしまったのだ。結界が揺らめき、ぱん、と弾ける。ひとには、ぽとりと小さな蛇に変化して地面に落ちた。
「蝶子、逃げて」
蝶子は両手で蛇になった、ひとにを掴み懐に隠した。ひとには顔を藻掻かせ、顔を出した。息が荒く、口を、はくはく、としている。蝶子は走った。
「見ーつけた」
人型をした黒煙がにやりと嗤うと、黒煙は人型を止めて一直線に伸びて蝶子を捉えようとする。
掴まるわけにいかない。
蝶子は走りながら、雨で滑る大木に手を掛けた。濡れた木々が滑ると、上体が不安定になり転げそうになった。すんでで堪え、うしろを振り返りながら、走る。
しばらくすると、急斜面が現れ、下った。黒煙は木々の間を縫う様に蝶子を追った。
「蝶子。なんで逃げるの。死にたいの。本当に死体を愛すよ」
憤った啓太は、冷酷に告げる。懐の中の、ひとにが途切れ途切れに言う。
「帰ろ、う。雪のもと、へ」
(帰りたい)
不器用で口数の少ない方だけど、恩情を掛けてくれた。人の温もりを思いださせてくださった。優しい氷雪。
しかし。
蝶子は足を止めた。キッと顔を引き締め、懐からひとにを出し、そっと木の葉の上にそっと置いた。
「ひとに君。ありがとう。ごめんね」
「ちょう、こ」
力なく、ひとには首をあげた。
「だ、め。行か、ない、で」
蝶子は自ら、斜面を登って行く。
(わたしさえ、いなけばいいことだ)
「啓太、やめて。そっちに行くから」
蝶子は一歩、二歩、三歩、ゆっくりと斜面を登る。
そうだ。逃げる必要など無い。
(わたしさえ、いなくなれば、何もかも良くなる)
氷雪が守る必要もない。傷つけることも無い。
わかっていた。蝶子の居場所なんて所詮、どこにもない。帰りたい場所はあっても。
そのときだった。
蝶子と黒煙の間を、稲妻が落ちた。地響きが大地を振るわせ、上空で雷が轟いた。
結界を必死に張り、蝶子を守る、ひとには苦しそうに言った。
もう限界が近づいているのかもしれない。
「氷雪様は、どうして、たかが、気まぐれで一度だけ助けた、わたしを気に掛けて下さっているの」
悪霊となった両親から蝶子を助けた氷雪。その後も、なぜ、その様に気に掛けて嫁にまでしてくれたのか、わからない。
「気まぐれじゃないよ。蝶子だからだよ」
「?」
「蝶子は覚えてない? 六歳の時に雪と会ってるんだよ」
「えっ」
六歳。そのときは父が御鳥見の仕事で村を訪れた時期だ。そう、啓太と出会った年。同じ時に氷雪と出会っただろうか。
蝶子は記憶を探る。
「この森を通って、村を訪れたでしょう」
「うん」
うっすらと覚えている。旅装束を身に纏い、父と母と三人で山道に入った。旅など初めてで、浮つき、色々な風景や動物に目移りした。
「あの時、雪は、下界に降りて来てて、そこで蝶子に出会ったんだ」
まったく思い出せない。
あれほどの美貌だ。当時六歳とはいえ、見かければ覚えていると思うのだが。
「休憩中だったんだろうね。両親は岩で休んでいて、飽きた蝶子は少し離れたところで草木と戯れて遊んでたんだよ。ふふ。蝶子は、葉っぱをちぎって、両手一杯になった葉を空に投げて、ヒラヒラ飛ぶ葉を見上げて、くるくると回って楽しそうにしてたよ。そこに、雪が現れた。蝶子は、きょとんとしてた。あの時の雪は普通じゃ無かったから」
「普通じゃ無かった?」
「……ある人を……殺しに行こうとしてたんだ」
「……」
「冷静さを無くした状態だったから、雪の形相は、たぶん、すっごく怖かったと思う。でも蝶子は、木の陰から現れた雪を見て、なんの躊躇いも無く近づいて来たんだ」
当時を思い出してなのか、ひとにの表情が和らいだ。
「お兄ちゃん、泣いているの」
「えっ?」
「どこか痛いの? そう蝶子が雪に言ったんだよ。澄み切った瞳を向けて」
(わたし、なんて失礼なことを)
たかが六歳の子供が、神様を見上げ、馴れ馴れしく接するとは、なんたることか。
「あのとき、雪は泣いてなかったから、苛ついてた。それで、すごーく困ってた」
ひとには、青白い顔をして笑った。
(覚えてない)
氷雪の困惑気味の表情が、手に取るように浮かんだ。
きっと、六歳の蝶子を無視することも出来ず、相手することも出来ず、立ち尽くされていたのだろう。失礼すぎる。蝶子は頭を抱えたくなった。
「蝶子は、にっこり笑って、氷雪の足の裾を掴んで、痛いの痛いの飛んで行け、ってしたんだよ」
蝶子は唖然としてしまった。
当時の蝶子がやりそうなことだと言えば、そうだが、成人男性に、言葉のまじないをするなど不適切だ。
「憎悪なんて、吹っ飛んじゃうよね。ぼく、忘れない。雪が、あのとき泣きたいような表情を浮かべてたこと」
「どうして、そんな表情を?」
「雪にとっては、八十年ぶりの、人の体温だったからだと思う」
(八十年ぶり?)
神様とは人と接する機会が少ないのだろうか。だからと言って、人の子が神に触れるなど、罰当たりでしかない。許されることではない。
「蝶子はね。戸惑っている雪に、ある物をあげたんだ」
蝶子は首を傾いだ。当時の持ち物など、非常食用の乾し飯ぐらいしか思いつかない。長期保存のできる乾し飯は、米を蒸して乾燥させた物だ。
「蝶子は、そのとき、近くに咲いてた白牡丹を摘み取って、こう言ったんだ。『綺麗なお兄ちゃんの様な、お花をあげる』って、花を手渡したんだ」
「白牡丹?」
乾し飯ではなく、近場に咲いていた花を捧げたと。安直すぎる行動に、蝶子は頭の痛みを覚える。
「あれから、氷雪は蝶子を守る様になったんだ」
それだけ?
蝶子は耳を疑った。
たった。それだけのこと?
子供のすることだ。他意は無い。ずっと守るには理由が浅すぎる。
「わかりません。たった、それだけのことで、ここまでして下さることが」
「あのね。あのときの雪は、気が触れてて、人を殺して神で無い者に成り下がろうとしてたんだ。きっと、暴走してた。そしたら、誰彼構わず皆殺しにしてたかもしれない。
ぼくたちも、それを止める気もしなかったし、一緒に荒神になってもいいと思ってたんだ──蝶子は、そんな雪に、触れてくれた。優しくしてくれた。ぼくたちもわかるんだ。それって、泣きたくなるくらい嬉しいんだよ。だから、初めて自分の意志で誰かを守りたいって言う雪が嬉しかったよ」
(守りたい? わたしを)
誰からも必要とされない存在だったはずなのに。
すべてがどうでも良くなり、沢山のことから耳を塞ぎ、目を塞いできた。
生きることすらどうでもよかった。
昔、出会っていたとしても、ここまでしてくれる義理は無いはずだ。
氷雪の真意がわからない。
わからないが、氷雪のことを思うと、息苦しさを感じる。咄嗟に、蝶子は胸を押さえた。
「──蝶子。帰ろう。雪のところへ」
蝶子は言葉が出せなかった。
ひとにの話を聞いても、蝶子は氷雪にとって害意でしかない。
目の前には啓太の声が響く。
「蝶子。僕の蝶子」
氷雪のもとへ帰るということは、目の前の啓太から、ずっと守ってもらわなくてはいけない。そして、また無理をさせ、身も心も傷つける。
(嫌だ)
そんな嫁など、いらない。
「わたしは、帰れません。もう、氷雪様を苦しめたくありません。わたしのような者を側に置いてはいけません。わたしなんかよりも、他に相応しい方がいらっしゃいます」
「そんなことない。雪には蝶子が必要だよ」
「いいえ。帰りません」
「雪は、蝶子がいると、よく笑うんだ。怒ったり、くだらない嫉妬したり、楽しそうなんだ。ぼく、あんな雪を見たことないよ」
「……いいえ。わたしは……ただの根暗の女です。蝶のように羽ばたくことのできない。蚕と同じ。サナギのまま煮られて死んでいく。そんな存在なんです」
(だから、捨ててください)
守ってくださる価値も無い。
(わたしなどに関われば、氷雪様が)
亡くなった両親と同じ様な目に遭わせてしまう。心がひやりとした。それだけは避けたい。二度と大切な人を失いたくはない。
「蝶子は雪の側にいたくないの」
「……」
蝶子の瞳に熱が帯びる。視界が歪む。
(いいえ。いいえ)
氷雪の優しい声、氷雪の微笑。氷雪の温もり。
額にそっと触れる、氷雪の唇の感触が蘇り、頬から、一筋の涙が伝った。
(氷雪様の側にいたい。本当は)
「あっ」
と、ひとにの体から白い湯気が上がりだした。しゅるしゅると、ひとにの体が縮んでいく。ついに、限界が来てしまったのだ。結界が揺らめき、ぱん、と弾ける。ひとには、ぽとりと小さな蛇に変化して地面に落ちた。
「蝶子、逃げて」
蝶子は両手で蛇になった、ひとにを掴み懐に隠した。ひとには顔を藻掻かせ、顔を出した。息が荒く、口を、はくはく、としている。蝶子は走った。
「見ーつけた」
人型をした黒煙がにやりと嗤うと、黒煙は人型を止めて一直線に伸びて蝶子を捉えようとする。
掴まるわけにいかない。
蝶子は走りながら、雨で滑る大木に手を掛けた。濡れた木々が滑ると、上体が不安定になり転げそうになった。すんでで堪え、うしろを振り返りながら、走る。
しばらくすると、急斜面が現れ、下った。黒煙は木々の間を縫う様に蝶子を追った。
「蝶子。なんで逃げるの。死にたいの。本当に死体を愛すよ」
憤った啓太は、冷酷に告げる。懐の中の、ひとにが途切れ途切れに言う。
「帰ろ、う。雪のもと、へ」
(帰りたい)
不器用で口数の少ない方だけど、恩情を掛けてくれた。人の温もりを思いださせてくださった。優しい氷雪。
しかし。
蝶子は足を止めた。キッと顔を引き締め、懐からひとにを出し、そっと木の葉の上にそっと置いた。
「ひとに君。ありがとう。ごめんね」
「ちょう、こ」
力なく、ひとには首をあげた。
「だ、め。行か、ない、で」
蝶子は自ら、斜面を登って行く。
(わたしさえ、いなけばいいことだ)
「啓太、やめて。そっちに行くから」
蝶子は一歩、二歩、三歩、ゆっくりと斜面を登る。
そうだ。逃げる必要など無い。
(わたしさえ、いなくなれば、何もかも良くなる)
氷雪が守る必要もない。傷つけることも無い。
わかっていた。蝶子の居場所なんて所詮、どこにもない。帰りたい場所はあっても。
そのときだった。
蝶子と黒煙の間を、稲妻が落ちた。地響きが大地を振るわせ、上空で雷が轟いた。
