嫁ぎ先は神様の住処

 蝶子が人間界への門を出た瞬間、青白い閃光が走り抜け、眩しさに目を瞑る。気が付くと白蛇石(はくじゃせき)の前に立っていた。
 大きな蛇の模様の岩を眺め、ここから出て来たのだと悟った。

 雨は、こちらでも降り続いていた。奥深い蛇神の森は濡れそぼっていた。
 木々の葉から重そうに雫が滴り落ち、静寂が広がる。雨煙が立ち込め、人も動物も見当たらない。闇夜。
 今が何時かもわからない。

(これから、どうしよう)

 脳裏に啓太の顔が浮かんだ。頭を振り、そんな都合のいい身勝手な救いを求めるのは筋違いだ。
 神界に帰ることはできない。村に戻ることもできない。

 蝶子は途方に暮れた。
 と、雨音に混じり、ズズっと重たい物を引きずるような音が聞こえた。目を凝らすと、視界に捉えられるギリギリの距離で、地面の一部が動いたように思えた。
 赤黒い水溜まりだった。

「えっ」

 馬鹿な。
 それが、右往左往していた。何かを探すように地面を泳いでいる。目の錯覚だろうかと蝶子は、雨粒ごと目を擦った。だが、赤黒い水溜まりは蠢いている。

「奴が来た!」

 腰あたりから甲高い声が聞こえ、振り返る。

「ひとに君」

 いつの間についてきたのか、ひとにが蝶子の裾を引っ張っていた。

「あれから逃げて、蝶子、掴まる」
「えっ」
「奴は、蝶子が神域から出るのを狙ってたんだ。奴に気づかれた」
「ひとに君、どういうこと」
「早く」

 わけもわからず、蝶子は走った。すると、赤黒い水溜まりが、一瞬止まり、見つけたとばかりに、近づいて来た。

「逃げて」

 蝶子は、速度をあげる。

「もっと早く」

 促され、息せき切った。稲光が落ちる。

「真後ろにいるよ」

 恐怖が這い上がる。喉が痛い。口のなかが鉄臭い。体が火照る。雨露を吸った着物が酷く重たい。地面は泥濘、視界も悪い。背後から、ズズっと不気味な音が迫って来る。よく見えない。
 と、赤黒い水溜まりが蝶子を追い越し、戻って来た。

「避けて」

 蝶子は左に避けた、その拍子に地面の青草で滑って転んでしまった。

「蝶子」

 ひとには蝶子の前に立ちはだかると、素早く印を組んだ。
 水の障壁が蝶子と、ひとにを包む。

「ひとに君」
「大丈夫。このなかに入れば奴から見えないから」

 赤黒い水溜まりが森を彷徨い出した。蝶子を探している。

「ぼく、頑張る」

 険しい表情を浮かべ、ひとには障壁に集中する。
 ときどき、包まれた障壁が揺らめいているように見えた。いつまで保てるのか、傍から見ても、ひとにが無理をしているのがわかった。

「あれは、何?」
「蝶子を付け狙っている奴」
「わたしを」
「蝶子がよく知ってる奴──啓太だよ」

 蝶子に衝撃が走り抜けた。
 まさか、あり得ない。啓太がそんなことをするはずがない。だって、ずっと仲の良かった幼馴染みなのだから。

──啓太との出会いは蝶子が六歳のときだった。
 父の御鳥見の仕事の都合で、一家で借家住で暮らすことになり、蝶子が村を訪れた日のことだった。

 蛇神の森を越えて、水を張った段々畑を眺めながら、あぜ道を歩いていると、子供達の声が聞こえて来た。

 蝶子は、早速、友達になろうと、両親に諫められるのもお構いなく、心弾みながら、声のする方へと走り出した。

 ところが、木の陰で子供たちがよってたかって、屈む啓太を、つぶれた鼻、出っ歯、隻眼だと容姿を罵り、あまつさえ暴力を振るっていた。蝶子は眉をつり上げた。

「こら、なにしてるの、虐めは駄目なんだから」

 声を張り上げると、突然現れた蝶子の綺麗な身なりに、子供たちは驚き、分が悪いと、啓太を残して走り去った。

「まったく、ろくでもない子たちね」

 気分を害しながら蝶子は懐から桃色の手巾を出し、血で汚れた啓太の顔を拭いてやった。

「いけません、お嬢様。手巾が汚れてしまいます」

 幼い啓太は武家の一家が来ることを聞いてか、蝶子を見るなり顔を青ざめた。蝶子は手巾の汚れを気にせず、拭いた。

「ふふ。綺麗な顔になった。あら、包帯が緩んでる」

 蝶子は微笑み、啓太の左目の包帯を直してやった。啓太は酷く驚いた様子だった。

「ありがとうございます」

 朗らかに啓太は笑ってくれた。それが、出会いだ。
 それから一年、蝶子は不自由なく村で過ごした。ときどき、啓太が怪我をしているのを見かけ、蝶子は躊躇せず手当をしてやった。

「迫害を受けるのは、僕が醜い顔だからです。それに二十歳まで生きられるかわかりませんし」
「啓太、そんなこと言わないで」

 啓太は生まれつき体が弱いと話してくれた。そのため、しょっちゅう倒れて寝込み、その度に蝶子は啓太の家を訪れ、滋養に良い物をあげたりもした。

「啓太は長生きするわ。それに醜くなんかない、とても良い子よ」

 蝶子はひとつ年上の啓太の頭を撫でてやると、啓太は照れくさそうに身動いだ。

「お嬢様は太陽みたいなかたですね」
「なにそれ」

 ふふっと笑い合ったことを覚えている。
 啓太はそんな優しい人だったのだ。

──今、目の前に赤黒い水溜まりが漂っているが、啓太による物だとは到底思えない。

「啓太じゃないわ」

 蝶子は断言した。
 ひとには冷や汗を掻き、首を横に振った。結界を維持するのは負担のようだ。

「蝶子、こっちに来て、屈んで」

 蝶子は言われるまま動いた。ひとには、片手で結界を貼り、片手で懐から一本の針を出す。蝶子の眉間に針を突き刺した。

 蝶子は驚く。痛みはない。針は眉間に刺さると、溶け込んで消えた。
 と、赤黒い水溜まりから声が響く。

「こ……ちょう…こ」

 どきりとした。低い男の声。よく知った。確かに啓太の声に似ていた。

「どこ」

 ボコボコと赤黒い水溜まり──否、よく見ると水溜まりではない。赤黒い煙が蠢いていた。針の力によるものだろうか。視界が、はっきりする。 

 蠢きの間から、何度も、消え入りそうな声で蝶子の名を呼ばれた。

 雨に打たれ、煙が縮こまっているようで、どこか可哀想。
 だが、だんだん、声が強く、怒りに満ちる。

「どこにいる? 僕の蝶子」

 弱々しかった煙が勢いを増し、ブワッと空に向かって膨れ上がる。ボコボコと波を打ち、数千の黒い手が現れる。

 数多の手は、鈍重な動きで、なにかを掴み取ろうと、握り締めては、開いた。恐怖が這い上がる。

(わたしを捕まえようとしているの?)

 動きの不気味さに蝶子は顔を顰めた。

「あれは、啓太なんかじゃないわ」
「蝶子、啓太だよ。あれが奴の本性だよ」
「そんなことないわ」

 ひとにの言葉を、蝶子は()ね除けた。
 啓太だなんて、あり得ない。

 ずっと近くにいた。両親を亡くしたあと、すべて嫌になり諦めたとき、親切にしてくれたのは啓太だけだった。
 蝶子に呪詛を掛けたなど、信じられない。

「蝶子まで、僕を避けるの?」

 悲壮な声が煙から聞こえてくる。蝶子はビクリと肩を振るわせた。
 啓太のはずがない。

「蝶子、惑わされないで」

 ひとには焦った声音で叱咤した。心が揺らぐ。

「蝶子。僕を嫌いになった」

 捨てられた子犬のような目で、蝶子を見上げる啓太の顔が浮かんだ。

(啓太じゃない)

 蝶子は言い聞かせた。しかし、足がそちらに向きそうになる。
 虐げられ、腫れた顔をした啓太。
 体が弱くて死ぬかもと嘆く啓太。

 大人になって丈夫になったと笑いかけた啓太。
 どれも彼だ。
 感情の減った蝶子に白牡丹の花を見つけ手渡してくれた。

 七夕の節句では、こっそり二人で短冊に願いを書き、星空を眺めた。町に出かけ、お土産だと櫛を蝶子に贈ってくれた。

 彼は蝶子が心を許した、たったひとりの友で、幼馴染み。目の前の黒煙が啓太の訳がない。──でも。

「けい……た」

 蝶子は、不明瞭な呟きを零した。途端、煙がピクリと動きを止める。

「蝶子。声がする。もっと僕を呼んで」

 歓喜する煙に、蝶子は絶句した。

(嘘だ)

 自ら啓太と認めた。蝶子は、かた腕をぎゅっと掴む。

「蝶子? どこ。もっと僕を呼んで、声が聞こえないよ」

 啓太と名乗る者の声を聞きながら、蝶子は水を含んだ着物が重く、濡れた髪が体に張り付き、不快を感じていた。

「なんで呼んでくれないの。こんなにも思っているのに、どうして手に入らない。ずっと。ずっと」
(手に入らない?)
「なんだよ。やっと、蝶子が独りぼっちになったのに。邪魔者を殺して、独りにさせたのに」
「えっ」

 相手の声音が変わり、蝶子は耳を疑う。

「呪いで、蝶子の両親を不幸にしてやったんだ」
(なにを言っているの)

 どういう意味なのかわからなかった。
 両親は死んだ。病で。
 闇夜の空気が震えた。

「僕のために仕方がなかったんだ。だって、蝶子を僕の元に寄こすのに、両親が邪魔だった。だから、陥れて、僕と同じ百姓にさせたんだ」
(両親が武家から、農民に格付けを落としたのは、従兄の紀夫(のりお)が計ったから)
「蝶子が僕と同じ立場にならないと、手に入らないから、呪ってやったんだ」

 遠くで稲妻が走る。
 呪った。両親を。それが本当なら……。蝶子の胸が、痛いほどに締め付つけられた。

『人を恨んではいけないよ』

 粗末な衣服を身に纏い、慣れない桑を片手に、父が十歳の蝶子の頭を撫でる姿を思い出す。

『私たちは、あとで食事をするから蝶子は先に食べなさい』

 いつの間にか痩せこけた母がそう言い、大根の葉の吸い物を手渡してくれたことを思い出す。

 両親の死は呪いが関わっていた。違うと言って欲しい。
 啓太がそんなことするはずが無い。理由がない。

「独りぼっちになった蝶子。でも、まさか馬鹿な従兄が、蝶子を売るなんて……ひっそり、蝶子を見張ってたんだ」

 蝶子は目眩がして額を押さえた。

「式神にした妖魔から、蝶子のことを知ったときは、さすがに腹が立ったな。だから、蝶子の両親には悪いけど、遺体から魂を引き出し、悪霊になってもらったよ」

 蝶子の両親は流行病で亡くなり、蝶子が埋めた。十歳の時に。

 それを掘り起こし、両親の魂を呼び覚ましたとでもいうのだろうか。
 蝶子の体が震えた。聞きたくない。嘘だ。違う。

(とと様。かか様)

 ただの百姓の啓太に出来やしない。呪うなんて。
 すべてが、崩れていく。信じていたものが、全部。

「蝶子。啓太の家系は……外法師なんだ」

 ひとには脂汗を掻きながら、憎々しげに言った。
 外法師。仏教以外を教え、外道や魔術、妖術に手を染めた者。啓太は、その家系。

「順調に事が運んでいたのになぁ」

 黒煙はゆらりと動くと、人の型になった。腕を組む男のような物体。

「僕に優しくしてくれたのは、母さんと蝶子だけだった。絶対に蝶子を手に入れようと決めてた、なんでこんなことになったんだろう。丈夫な体だって手に入れたのに」

 二十歳まで生きられないと言われた啓太。幼い頃は、確かに弱かった。
 丈夫な体は手に入れられるものだろうか。
 蝶子に悪寒が走る。

「どうして丈夫になったの」
「ああ、やっと蝶子の声がする。ふふ。知りたい。僕は子供の頃から体が弱かったでしょう、だから人体には興味があって、よく、犬や猫を解体して、仕組みを観察してたんだよ。母には叱られたけど」

 黒煙が、子供の形と犬の形になる。それが斧のような物を振り降ろして犬の頭部を切る。コロリと頭が落ちた。まるで浄瑠璃の人形劇を見せられているようだ。

 これが現実であったことならば、みぞおちに気持ち悪さが這い上がる。

「色んな薬草を調べたよ、毒を扱った。実験で、いっぱい動物が死んだなぁ。それでも体が強くなる手がかりがなかった」

 蝶子は戦慄いた。声は啓太のものなのに、言っている内容は、あの優しかった彼とは違うものに思えた。

「でも、僕が六歳になったときだったかな。伯父さんの蔵で見つけたんだ。邪教本を」

 赤黒い煙が、四つん這いになり、本を読む仕草をしていた。

「その本には妖魔と契約する方法とか載ってた。父は兄には優しかったから、兄がいなければ同じ様に接してくれるかもって思って、妖魔と契約するのを試してみたんだ。失敗しちゃった。兄は死んだけど僕の目もなくなっちゃった。まだ未熟だったからね」

 ははっと彼は無邪気に笑う。
 それは蝶子と啓太が出会う前の話だった。
 異母兄がいたと聞いてはいたが、まさか、殺されていたとは。

「そのうちに知ったんだ。他人の魂魄を抜き取り、自分に移し替える術があるって。だから、僕を虐める奴を攫って、魂を抜いてやろうとしたんだ。なのに」

 雨が容赦無く降り注ぐ。黒煙は、一向に鎮火する様子がない。

「母に気づかれた。魂を抜く途中で母が入って……それで……大切な……。本当なら、あいつらが死ぬはずだったのに」

 啓太は虐げた者を捕らえ、魂魄を抜き取る術を掛け、母親に知られ、魂魄を抜き取る途中で母親が、間に入ったのだと語った。

「あいつらのせいで、僕の母が死んだんだ」

 自業自得。因果応報である。

「あいつらは、化け物の餌にしてやった。ふふ。ざまあみろだ。でも寂しかった、母がいなくなって辛かった。そんなときに蝶子に会ったんだ」

 蝶子は唇を震わせた。血の気が引いていく。

「母、以外にあんな風に接してくれたのは蝶子だけだった、だから、蝶子をひとりになるようにさせた、呪詛をかけた。蝶子の両親を死に追いやった。でも残念。折角だから蝶子の両親を悪霊にしたのに、暴走しちゃったよ。あのときは焦ったな。まさか蝶子を殺そうとするなんて、でも、自業自得だよね。運悪く稲妻に撃たれて、魂ごと消滅するなんてね。仕方ない。仕方ない。そのあとは何故か妖魔が消されちゃって見えなくなったけど、蝶子は僕の元に来た。願い通りだよ。毎年、七夕には蝶子と一緒にいられますようにって書いたから、叶ったよ。呪符にだけど、ふふ」

 一歩。二歩。蝶子は後ずさった。
 目の前にいる黒煙が得体の知れない者に思えた。

 無邪気にはしゃいでいた子供の頃。七夕に願いを書くことを教えたのは蝶子だった。まさか、そんなことを願っていたとは、思いもしなかった。

「両親が亡くなって、悲しそうに蝶子が泣いてると嬉しくてさ、ぞくぞくしたよ。だから、蝶子が僕無しではいられなくなるまで、待ったんだ。もう頼れる人なんて、僕以外いないでしょう。

順調だった。あとちょっとで蝶子は僕のことしか考えられなくなる。いつも無気力だった蝶子、でも、僕が近づくと、僕だけには反応してくれた。村の連中にも文句を言わせないつもりだった。蝶子と僕の間を遮る者がいるなら、殺してしまえばいい。あと少し。

それなのに神が横から掻っ攫って行った。許さない。こんなことなら、心なんて手に入れなくても良かった。ねぇ、蝶子。僕を選ばないなら、蝶子を殺してもいいだよ。僕は死体のままでも、君を愛せるから」

 これは愛情なのだろうか。
 蝶子は震え上がった。
 子供の頃から啓太は、そんな風に蝶子を狙っていたのか。
 これが、啓太の本性。
 残虐的な慕情。

 蝶子の冷え切った体のなかで、痛みすら感じるほどの熱が、額から、じわりと広がる。
 獲物の印が疼く。