嫁ぎ先は神様の住処

 氷雪が意識を取り戻したとき、蝶子の姿は、すでに無かった。

「蝶子が出て行くのを黙って見ていたのか」

 袖を払い、童子たちを怒鳴る。童子たちは掌を握り、神妙な面持ちで、下を向いて黙っていた。

 氷雪は揺り篭に着くなり倒れ、蝶子が出て行ったことに、まったく気がつかなかった。しかし、屋敷にいた童子たちが蝶子の様子を知らないわけがない。

 なにより、この沈黙が物語っている。
 童子たちは蝶子を見捨てたのだ。
 氷雪は握り拳を、ぎゅっとして、呼吸を整えると怒りを静めた。

童子たちに当たっても仕方が無い。もとは己の責任なのだ。
 力を使い果たし、心身ともに不安定になり、制御できず朧気に蝶子を攻めるようなことを言った気がする。

 あの状態の氷雪の姿を見て、童子たちも動揺したのだろう。
 ボロボロになりながらも、氷雪は童子に連れられ、揺り篭のなかで、神力を取り戻した。しかし、まだ半分ほどしか力は戻っていない。

 揺り篭は、屋敷の奥にある卵形の木の根の寝床のことだ。
 自然の力を借りて、治癒能力を高める場所。蝶子が来てから、毎日の様に、氷雪は揺り篭で治療をしていた。

 このところ、ずっと童子たちは氷雪を心配していた。わかっていた。

 それでも意思を貫いたのは氷雪。
 手が酷く冷えて動きにくい。痺れが全身を蝕んでいた。
 揺り篭に入るといつもこうなる。

(蝶子)

 氷雪は蝶子の顔を思い浮かべた。
 初めこそ無感情な表情をしていたが、微笑を浮かべるようになった。

 大鷹と屋敷を出る前には、自然な笑みまで向けてくれるようになった。

 あのとき、我を忘れ、蝶子の意見も聞かず口づけをしようとした。潤んだ瞳。氷雪だけを見つめる、あの顔を、もっと見たい。

 それなのに、氷雪が目覚めたとき、すでに蝶子はいなかった。気配が無く。氷雪は焦燥感に駆られながら、蝶子の部屋を訪れた。机のうえに書き置きがあった。氷雪は急いで読み、書き置きを握り締めた。

 簡単なお礼と謝罪。
 そして、憤りを童子にぶつけた。
 人を責める資格など無い。己が蒔いた種だ。

 ぎりと歯を食いしばり、畳を蹴って、氷雪は部屋を出て行こうとする。
 すると、童子たちが横一列に並び、手を広げ、氷雪の行く手を拒んだ。

「何をしている」

 氷雪は怒りをあわらにした。童子が悪いわけではない。わかっていても、抑えられなかった。
 氷雪の腹の底からでる低い声に、微かに童子たちは震えた。

「蝶子のところに行くの、ダメ」
「雪。まだ、体が癒えてない」

 氷雪は複雑な気持ちになる。蝶子が人間界に行ったのなら、奴が黙っているはずがない。しかし、童子の気持ちを無下にもできない
 童子たちは、ただ、氷雪を心配しているだけだ。

「にーに。ねーね」
「だって。蝶子のところに行ったら、雪、また無理するもん」
「また、罪で三年も、幽閉することになっちゃう」
「……」

 氷雪は唇を噛みしめた。
 蝶子の両親の件で氷雪は過去に罰せられたことがある。

 神とて禁忌となる物がある。人の命運に干渉したことで、氷雪は神々を怒らせ、霊山に三年、閉じ込められたのだ。

「また、雪が辛い思いするのは、嫌」
「蝶子は好き。でも、わたしたち、雪のが大切」

 童子たちは目に一杯、涙を溜めていた。
 あのときも、散々、童子たちに止められたのに、氷雪は己の我を通した。
 童子たちの必死さを肌で感じる。しかし、それでも。

「三年など、神の俺には、瞬きの間でしかない」

 童子は頑なに首を横に振って否定した。蝶子を迎えに行こうが、あのときのように幽閉されることはない。

 三年。
 幽閉されている間、蝶子には辛い思いをさせてしまった。

 悪霊となった、蝶子の両親に雷を落としたあと、氷雪は人間界に降り立った。雨を降らせ、人市を浄化しながら、泣く蝶子をどう慰めていいか、わからず、白牡丹を贈った。蝶子はますます咽び泣いた。

 生きた人は誰も居ない。
 辺りに立ち籠めていた邪気が浄化され、ぷすぷす、と煙をあげていた。
 すべての音を消すほどの、土砂降りの雨が、二人の全身を濡らした。

『蝶子。神界で暮らすか?』

 氷雪は蝶子に聞いた。蝶子は

『帰りたい』

 と答えた。
 だから、氷雪は蝶子が思いを寄せる場所へと送ってやった。

 そして、氷雪は罰せられ、幽閉され、三年後、知った。蝶子が、まさか虐げられているとは。

 以前、武家のお姫様としていたときは、村の連中は親切だった。彼らは蝶子の立場が変わるなり、豹変したのだ。こんなことになるなら置いてはいかなかったのに。氷雪はあのときの判断を悔いていた。

 幽閉されている間、童子たちからの文の知らせはなかった。
 誰かに会うことを固く禁じられていた。

 三年が経ち、霊山から出されて、すぐに蝶子の環境を知った。神域の屋敷に連れてこようとした。しかし出来なかった。
 その後、二年、蝶子に会うか躊躇った。

『帰りたい』

 蝶子の声が木霊し、神域に招くことが出来なかった。人の世から離れれば、いずれ、人で無い者になる。

 氷雪はひとり佇み花を眺めていた。風が吹けば蝶子を攫ってしまいたい衝動に襲われた。
 そんな様子に焦れてか、沈黙していた童子たちは、蝶子を嫁に向かえることを提案した。

 なにより、蝶子に危険が迫っていた。
 だから……。

「──雪、やっぱり、蝶子のことは、諦めて」
「っ……」

 童子に、そう言わせたこと。己の不甲斐なさのせいだ。

 いつだって童子たちは、氷雪のためになることしかしない。
 憎まれ役になっても、彼らは、氷雪のために動く。

「あっ」

 急に童子たちの体が、しゅる、しゅると小さく縮み、子蛇になった。畳のうえには脱ぎ散らかした着物が落ちているようだった。その着ていた服のなかで、童子たちは、もぞもぞと胴体を蠢かせ、衣服から出てきた。

 どうやら童子たちは自分の神力を氷雪に分け与え、人型でいられなくなってしまったらしい。
 小さな蛇たちは、氷雪の足元に這って来る。

「こんなになって……だが、ごめん」

 もう、諦めたくない。
 蝶子の温もりに触れてしまえば、手放したくない。手放せないのだ。

「雪」

 ぽろぽろと泣く子蛇たちに胸を痛めながらも、氷雪は身を翻す。氷雪は屋敷を出た。
 きっと、今頃、奴が蝶子を狙っているはずだ。
 ほど遠い、氷雪の血縁者。

 氷雪の臓腑に熱が籠もる。瞳が血走り、走る速度をあげる。

 凍てつく雨に打たれながら、氷雪は、人間界の門をくぐり、蝶子のもとへと向かった。
 もう一度、話し合うために。