蝶子の両親は穏やかな人柄だった。蝶子を慈しみ困った人には手を差しだすような人だった。
そんな性格だから、ある日、親族に騙され、財産を奪われてしまった。
「御鷹を剥製にして他国に売っていたのは、お前の指示だな」
奉行人に謂われの無い所業で、父が引っ捕らえられた。蝶子が十歳のときだった。
陥れた張本人は亡くなった父の弟の息子、蝶子にとっては従兄にあたる紀夫だった。父にとって、紀夫は我が弟の忘れ形見でもあり、何かと気に掛けていた。お金が無いと言えば、返ってこないとわかっていても、貸してやったり、無理な仕事も変わっていた。
当時、父は御鳥見の家系だった。
御鳥見とは将軍の御鷹の餌の調達や、鷹狩りに行われる現場の生息状況を監視する仕事だ。ときには村に滞在して調査することもあり、蝶子と母も着いて行くこともあった。紀夫もそのとき、供に村に住んでいた。親しい仲だと把握していた。そう思っていた。
紀夫には奥さんがいて、妻の父親が鷹匠をされていた。そのことが、父の転機を変えた。
その頃の蝶子は御鳥見の裏の仕事を知らなかった。
御鳥見の任務には鷹匠の汚職や、百姓や町人のなかで不審者がいないか、見回ることも含まれていた。
蝶子が六歳の頃、父はそのお役目で一年ほど、一家で百里離れた借家住で暮らした。そこで悪役鷹匠不正汚職を紀夫と暴いた。そのことが、紀夫の妻の父親の堅剛に知られ、なぜか父を得たく気に入った。堅剛は鷹頭でもあり、将軍に我が弟子にと父を賜り、父は堅剛の鷹匠見習いとした。後に知るが、そのことを紀夫は酷く恨んでいたらしい。程なくして紀夫も、鷹匠見習いとなった。
ところが、ある日、堅剛は天然痘に罹り亡くなった。それを気に、父は鷹匠となった。
蝶子は世の時世などわからないが、父が誇らしかった。鷹匠となった父は御鷹の調教をした。それが見たくて、こっそり後を追ったこともある。怒られたが。父のあの凜々しい姿は今でも鮮明に覚えている。
それが、突然の不正事実を突きつけられ、父は引っ捕らえられ、酷く痛めつけられた。父が帰って来たときには役職は奪われ、百姓にさせられていた。
「生きていてくれて、ありがとう」
母はそのとき、そう呟き、父を抱きしめた。
すべては、紀夫の悪事で父に罪をなすりつけたことだった。父は決して他国に御鷹の剥製を売っていない。
恨んではいけない。両親はそれでも蝶子にそう言い聞かせた。
百姓の仕事で四苦八苦し、手が荒れるほど両親は働いた。慣れない農作は上手くいかず。なけなしの蓄えも無くなった。
寒波で寒さに凍え、栄養失調だった両親は、流行病を拗らせてしまい、呆気なく亡くなった。蝶子は天涯孤独となってしまった。十歳の小さな手で土を掘り両親を埋めた。
恨んではいけないよ。
両親の言葉を胸にしながら、とめどなく涙を流す。胸が痛く。冷気が肌を刺す。夕日が沈んでも、両親の墓から離れなかった。
数日後、どこから話を聞いたのか、紀夫が蝶子を引き取りに来た。建前は。
「お前の父親は、俺の邪魔ばかりしてくれた」
紀夫の屋敷に通され、蝶子は沈黙をした。屋敷は裕福かと思えば、どうやら借金だらけのようだった。
「お前。十歳だったか、その割には小さいな。八歳ぐらいにしか見えない。まぁ、そういう趣味のお方もいるだろう」
恨んではいけない。
嫌な予感を振り払いながら、蝶子は両親の言葉を頭の中で繰り返した。その日、紀夫に連れられて、ある集落へと赴いた。松明が至るところに設置してあった。薄暗く、質の悪い輩が徘徊していた。その近くには貧しそうな子供や女の人がいた。泣いている者。縄で縛られている者。楽しそうに酒を酌み交わす者。異様な光景だった。
「まだ、泣かないのか。可愛げがねぇな。いいか、お前は売られるんだ。まったく、以前、遊郭に餓鬼を連れて行ったら、踏み倒された。ここは……闇市。人市と言ってな、違法に人を売るところだ。どうだ怖いだろう」
本当は泣き叫びたかった。蝶子は黙して紀夫を見つめた。「ちっ」と苛ついた声が聞こえた。空を仰げば雲が真っ黒に染まっていた。
両親に会いたい。
蝶子は、もういない両親を恋うた。
ぽつりと小雨が降り出した。市のなかを人々が小走りし、天幕に入って行く。蝶子も、紀夫に強引に手を引かれた。ところが
ーー紀夫ーー
背後からよく知った声がして、蝶子と紀夫は振り返った。目を見張る。
そこには死んだはずの父と母が立っていた。
「とと様。かか様」
蝶子は歓喜して叫んだ。しかし、両親の表情は醜く歪んでいた。
見たことも無い。
眼球は窪み、紅の涙を流していた。纏う空気は重く深淵の闇が蔓のように巻き付いていた。
ーー憎い。世が。人がーー
母が嘆く。
ーーなぜ、こんな目に遭わなくてはいけないーー
父が嘆く。
両親が怨霊となって蝶子の前に現れた。
違う。嘘だ。幻覚だ。
優しいはずの両親のはずがない。
父は逃る紀夫を捕まえ、首を絞めた。グキとへし折り、呻き声があがった。紀夫はだらりと両手を下げ、地に叩きつけられた。
死んだ。殺された。
それだけでは飽き足らず、怨霊となった両親は見境無く、罪無き人を殺し嗤っていた。
言葉を失う蝶子。
凍てつく雨は蝶子を余すところ無く突き刺す。
ーー蝶子、ひとりは寂しいでしょうーー
母はゆらりと振り子のように体を揺らし、蝶子に近づき、押し倒した。馬乗りになり、首を絞める。頬に流れるのは自分の温かな涙だけだった。
どんなに尽くしても、報われない。
これが、こんなのが、現実なのか。
地面の泥水が蝶子を穢す。濁り、清らかさを奪う。
体中が凍える。
蝶子はすべてを諦めた。力を抜き。ただ降り注ぐ雨を見つめた。
と、ぴしゃり、と雷電が落ちた。
瞬間。両親の体が黒炭になり、引き裂かれ、離散した。
「あっ。ああ」
声にならない悲鳴が蝶子の喉を震わせる。
なぜ。
蝶子は泣きじゃくった。
『蝶子は良いところに嫁ぐんだ』
『そうですよ。蝶子を大事にしてくれる殿方と結婚するのが、蝶子の幸せですよ』
両親の優しい声音を思い出す。温もりを。
蝶子は悲鳴をあげた。
そのとき、ひらりと白い物が空から降ってきた。白牡丹。
純白の花が舞い落ちる。
なぜ、とか、どうして、とか。そんなものはどうでもよかった。
蝶子はその白牡丹を懸命に掴んだ。胸に抱く。白牡丹だけが蝶子の悲しみを受け止めてくれる気がした。
「……りたい」
帰りたい。あの頃に。父と母がいた。そうだ、以前、父が御鳥見だったときに、一時、暮らした村を訪れよう。
あそこに帰ろうよ。かか様。とと様。
──あのとき助かった理由が、ようやくわかった。
『蝶子が……両親に殺されそうになったとき、俺が助けてやったのに』
氷雪は、そう言った。
あのときの雷は、氷雪だったのだ。
生きている価値もない、小さな子供を氷雪様は助けてくれた。それが気まぐれかもしれない。
嫁に選んだのも、あのときの子供かと思い、決めたのかもしれない。
取るに足らない命。
(もう。十分です)
こんな私を見捨てず、助けて下さった。
降りしきる雨は、まるで、あの日の雨のよう。
「蝶子。雪を嫌いにならないで」
「なりません」
ひとにに問われ、蝶子は、ひとにの頭を撫で、微笑を浮かべる。
「氷雪様の、お加減が心配です。見てきて下さいますか」
ひとには、安堵したように微笑み「うん」と頷き、走り去った。
(氷雪様から離れよう)
蝶子は唇をぎゅっと結ぶ。与えられた部屋に向かう。慣れてしまった廊下。部屋。匂い。
氷雪から頂いた、服やつげ櫛、簪に触れて撫で、練り香水で手を止める。躊躇いがちに、蓋を開けて少しだけ付けた。
氷雪の香り。
蝶子は袖を握り締めると、書き置きをした。頂いた物は着ている物以外、持たず、蝶子は玄関へと向かう。ひっそりと静まり返った廊下で膝を折り、深々と頭を下げた。
「お世話になりました」
顔を上げ、蝶子は雨が降りしきるなか、屋敷の敷居を跨いだ。
雨が蝶子をしとどに濡らす。鳥居をくぐり、水池に足を踏み入れる。雨粒が沢山の波紋を描き、そのなかを歩く。もう一度、屋敷を見て、頭を下げた。
(さようなら、氷雪様)
蝶子は人間界への門を潜った。
そんな性格だから、ある日、親族に騙され、財産を奪われてしまった。
「御鷹を剥製にして他国に売っていたのは、お前の指示だな」
奉行人に謂われの無い所業で、父が引っ捕らえられた。蝶子が十歳のときだった。
陥れた張本人は亡くなった父の弟の息子、蝶子にとっては従兄にあたる紀夫だった。父にとって、紀夫は我が弟の忘れ形見でもあり、何かと気に掛けていた。お金が無いと言えば、返ってこないとわかっていても、貸してやったり、無理な仕事も変わっていた。
当時、父は御鳥見の家系だった。
御鳥見とは将軍の御鷹の餌の調達や、鷹狩りに行われる現場の生息状況を監視する仕事だ。ときには村に滞在して調査することもあり、蝶子と母も着いて行くこともあった。紀夫もそのとき、供に村に住んでいた。親しい仲だと把握していた。そう思っていた。
紀夫には奥さんがいて、妻の父親が鷹匠をされていた。そのことが、父の転機を変えた。
その頃の蝶子は御鳥見の裏の仕事を知らなかった。
御鳥見の任務には鷹匠の汚職や、百姓や町人のなかで不審者がいないか、見回ることも含まれていた。
蝶子が六歳の頃、父はそのお役目で一年ほど、一家で百里離れた借家住で暮らした。そこで悪役鷹匠不正汚職を紀夫と暴いた。そのことが、紀夫の妻の父親の堅剛に知られ、なぜか父を得たく気に入った。堅剛は鷹頭でもあり、将軍に我が弟子にと父を賜り、父は堅剛の鷹匠見習いとした。後に知るが、そのことを紀夫は酷く恨んでいたらしい。程なくして紀夫も、鷹匠見習いとなった。
ところが、ある日、堅剛は天然痘に罹り亡くなった。それを気に、父は鷹匠となった。
蝶子は世の時世などわからないが、父が誇らしかった。鷹匠となった父は御鷹の調教をした。それが見たくて、こっそり後を追ったこともある。怒られたが。父のあの凜々しい姿は今でも鮮明に覚えている。
それが、突然の不正事実を突きつけられ、父は引っ捕らえられ、酷く痛めつけられた。父が帰って来たときには役職は奪われ、百姓にさせられていた。
「生きていてくれて、ありがとう」
母はそのとき、そう呟き、父を抱きしめた。
すべては、紀夫の悪事で父に罪をなすりつけたことだった。父は決して他国に御鷹の剥製を売っていない。
恨んではいけない。両親はそれでも蝶子にそう言い聞かせた。
百姓の仕事で四苦八苦し、手が荒れるほど両親は働いた。慣れない農作は上手くいかず。なけなしの蓄えも無くなった。
寒波で寒さに凍え、栄養失調だった両親は、流行病を拗らせてしまい、呆気なく亡くなった。蝶子は天涯孤独となってしまった。十歳の小さな手で土を掘り両親を埋めた。
恨んではいけないよ。
両親の言葉を胸にしながら、とめどなく涙を流す。胸が痛く。冷気が肌を刺す。夕日が沈んでも、両親の墓から離れなかった。
数日後、どこから話を聞いたのか、紀夫が蝶子を引き取りに来た。建前は。
「お前の父親は、俺の邪魔ばかりしてくれた」
紀夫の屋敷に通され、蝶子は沈黙をした。屋敷は裕福かと思えば、どうやら借金だらけのようだった。
「お前。十歳だったか、その割には小さいな。八歳ぐらいにしか見えない。まぁ、そういう趣味のお方もいるだろう」
恨んではいけない。
嫌な予感を振り払いながら、蝶子は両親の言葉を頭の中で繰り返した。その日、紀夫に連れられて、ある集落へと赴いた。松明が至るところに設置してあった。薄暗く、質の悪い輩が徘徊していた。その近くには貧しそうな子供や女の人がいた。泣いている者。縄で縛られている者。楽しそうに酒を酌み交わす者。異様な光景だった。
「まだ、泣かないのか。可愛げがねぇな。いいか、お前は売られるんだ。まったく、以前、遊郭に餓鬼を連れて行ったら、踏み倒された。ここは……闇市。人市と言ってな、違法に人を売るところだ。どうだ怖いだろう」
本当は泣き叫びたかった。蝶子は黙して紀夫を見つめた。「ちっ」と苛ついた声が聞こえた。空を仰げば雲が真っ黒に染まっていた。
両親に会いたい。
蝶子は、もういない両親を恋うた。
ぽつりと小雨が降り出した。市のなかを人々が小走りし、天幕に入って行く。蝶子も、紀夫に強引に手を引かれた。ところが
ーー紀夫ーー
背後からよく知った声がして、蝶子と紀夫は振り返った。目を見張る。
そこには死んだはずの父と母が立っていた。
「とと様。かか様」
蝶子は歓喜して叫んだ。しかし、両親の表情は醜く歪んでいた。
見たことも無い。
眼球は窪み、紅の涙を流していた。纏う空気は重く深淵の闇が蔓のように巻き付いていた。
ーー憎い。世が。人がーー
母が嘆く。
ーーなぜ、こんな目に遭わなくてはいけないーー
父が嘆く。
両親が怨霊となって蝶子の前に現れた。
違う。嘘だ。幻覚だ。
優しいはずの両親のはずがない。
父は逃る紀夫を捕まえ、首を絞めた。グキとへし折り、呻き声があがった。紀夫はだらりと両手を下げ、地に叩きつけられた。
死んだ。殺された。
それだけでは飽き足らず、怨霊となった両親は見境無く、罪無き人を殺し嗤っていた。
言葉を失う蝶子。
凍てつく雨は蝶子を余すところ無く突き刺す。
ーー蝶子、ひとりは寂しいでしょうーー
母はゆらりと振り子のように体を揺らし、蝶子に近づき、押し倒した。馬乗りになり、首を絞める。頬に流れるのは自分の温かな涙だけだった。
どんなに尽くしても、報われない。
これが、こんなのが、現実なのか。
地面の泥水が蝶子を穢す。濁り、清らかさを奪う。
体中が凍える。
蝶子はすべてを諦めた。力を抜き。ただ降り注ぐ雨を見つめた。
と、ぴしゃり、と雷電が落ちた。
瞬間。両親の体が黒炭になり、引き裂かれ、離散した。
「あっ。ああ」
声にならない悲鳴が蝶子の喉を震わせる。
なぜ。
蝶子は泣きじゃくった。
『蝶子は良いところに嫁ぐんだ』
『そうですよ。蝶子を大事にしてくれる殿方と結婚するのが、蝶子の幸せですよ』
両親の優しい声音を思い出す。温もりを。
蝶子は悲鳴をあげた。
そのとき、ひらりと白い物が空から降ってきた。白牡丹。
純白の花が舞い落ちる。
なぜ、とか、どうして、とか。そんなものはどうでもよかった。
蝶子はその白牡丹を懸命に掴んだ。胸に抱く。白牡丹だけが蝶子の悲しみを受け止めてくれる気がした。
「……りたい」
帰りたい。あの頃に。父と母がいた。そうだ、以前、父が御鳥見だったときに、一時、暮らした村を訪れよう。
あそこに帰ろうよ。かか様。とと様。
──あのとき助かった理由が、ようやくわかった。
『蝶子が……両親に殺されそうになったとき、俺が助けてやったのに』
氷雪は、そう言った。
あのときの雷は、氷雪だったのだ。
生きている価値もない、小さな子供を氷雪様は助けてくれた。それが気まぐれかもしれない。
嫁に選んだのも、あのときの子供かと思い、決めたのかもしれない。
取るに足らない命。
(もう。十分です)
こんな私を見捨てず、助けて下さった。
降りしきる雨は、まるで、あの日の雨のよう。
「蝶子。雪を嫌いにならないで」
「なりません」
ひとにに問われ、蝶子は、ひとにの頭を撫で、微笑を浮かべる。
「氷雪様の、お加減が心配です。見てきて下さいますか」
ひとには、安堵したように微笑み「うん」と頷き、走り去った。
(氷雪様から離れよう)
蝶子は唇をぎゅっと結ぶ。与えられた部屋に向かう。慣れてしまった廊下。部屋。匂い。
氷雪から頂いた、服やつげ櫛、簪に触れて撫で、練り香水で手を止める。躊躇いがちに、蓋を開けて少しだけ付けた。
氷雪の香り。
蝶子は袖を握り締めると、書き置きをした。頂いた物は着ている物以外、持たず、蝶子は玄関へと向かう。ひっそりと静まり返った廊下で膝を折り、深々と頭を下げた。
「お世話になりました」
顔を上げ、蝶子は雨が降りしきるなか、屋敷の敷居を跨いだ。
雨が蝶子をしとどに濡らす。鳥居をくぐり、水池に足を踏み入れる。雨粒が沢山の波紋を描き、そのなかを歩く。もう一度、屋敷を見て、頭を下げた。
(さようなら、氷雪様)
蝶子は人間界への門を潜った。
