嫁ぎ先は神様の住処

──蝶子──

 ふと氷雪に呼ばれた気がして、蝶子は顔を上げた。氷雪が飛びたってから一週間が過ぎようとしていた。

 蝶子は、おもむろに立ち上がり、縁側に立った。瓦を叩きつける、激しい土砂降りの雨は、庭の土をも削り、茶色く濁らせ、幾つもの水溜まりを生んでいた。雨はすでに一週間降り続いている。蝶子のいた村の人々は、この雨を恵みだと喜んでいるだろうか。それとも、続く雨に嘆いているのかは、わからない。

 ここいら一帯の雨を降らせることは、氷雪の任務だと童子から聞いた。

 元来、神様の仕事は、人間の願いを聞くのでは無く。ただ、穢れた大地を浄化するものだと言っていた。
 蝶子は、弾かれる雨音を聞いて俯いてしまう。

「寂しい……の、かな」

 煙るほどの雨を見ながら、蝶子は呟いた。
 どうも氷雪が近くにいないと違和感がする。声が聞こえない。体温を感じ無い。部屋のなかがガラリと広くなった気がしてならなかった。

「怪我をされていないかしら」

 蝶子は頭を振る。
 心がソワソワして右手の甲を鼻に近づける。すうっと嗅ぐと、甘い香りがしてホッとした。
 勿体ないが氷雪から頂いた練り香水を、少量塗っていた。

「ちちち」

 土砂降りの雨のなか、青雀が何かを咥えて屋敷に入ってきた。そういえば朝から見かけなかった。雨の日は、屋敷にいるようだったが、今日は紅雀がずっと、そわそわしている気がした。青雀を心配して、あっちこちと部屋のなかを飛び回っていたことに気が付く。案の定、青雀が部屋に入って来るなり、紅雀は飛んで来て、叱りつけている様子だった。蝶子はくすりと笑って手布を出して青雀を軽く拭いてやった。

「ちちち」

 青雀は、羽をぶるぶるとして水気を飛ばすと、とんとん、と三度ほど廊下を飛び跳ね、口に咥えている物を蝶子に差し出した。

「なぁに。くれるの? まぁ綺麗な白牡丹ね」

 小さいけれど、水にしっとり濡れた花だった。このところ、蝶子の元気が無かったのを見て、青雀が花を摘んできたようだ。

 白牡丹は蝶子にとって、特別な花だ。嬉しい。笑みがこぼれた。
 そういえば、こんな風に落ち込んでいたとき、あの人が花をくれたことがあった。

「懐かしいな。去年、啓太に貰った花なんだよ」

『綺麗な花だったから』と啓太が摘んでくれた白牡丹。村で唯一、親切にしてくれた男の子の、はにかんだ笑顔を思い出す。

「元気にしているかな。啓太」

 花嫁として生贄にされるとき、逃げようと言ってくれた男の子。
 喰われると思っていたから、少し、連れ出してくれようとしたことが嬉しかった。

「蝶子」

 背後から、不安げな、童子の小さな声が聞こえた。

「えっと。さんね。ちゃんだったかしら」

 さんねは、コクリと頷いた。着物の裾をぎゅっと握り締めている。

「蝶子は、雪のこと、どう思っているの?」
「どう? とは」

 唐突な質問に蝶子は首を傾げた。さんねは、可愛らしいお顔を不満げにさせて、蝶子を見上げた。

「好き。嫌い」
「……好きだと思います」
「どんなところが」

 蝶子は、しばし考える。

「自立されているところ、とか」
「それから」
「子供たちにも好かれているところ、とか」
「それから」
「他の神様からも信頼されているところ、とか」
「それは、恋として」

 恋? 何か違う気もする。
 蝶子は意味も無く、目を泳がせた。さんねは、それが気に食わなかったのか、目に涙を溜めて、地団駄を踏んだ。

「蝶子は雪のこと好きじゃなきゃダメなの」

 急に癇癪を起こしだして蝶子は、おろおろとした。

「雪は絶対に、蝶子の嫌がることしないよ」

 さんねは訴える。

「蝶子は雪を受け入れてよ」

 受け入れる?
 蝶子はすでに氷雪を受け入れているつもりだが、さんねは、蝶子にしがみつき、ポカポカと股を叩いた。

「蝶子が受け入れないと、このままだと、雪が、ボロボロになっちゃうよ」
「えっ」

 さんねは急に、しまったっと顔をして、蝶子から離れると口を押さえた。
 不安が過ぎる。

「ボロボロにとは、受け入れるとは」

 蝶子の質問に、さんねは、首をふるふると振った。涙がホロリと流れ、蝶子を見据えた。

 今まで童子たちのこんな姿を見たことがなかった。蝶子の知らないところで、氷雪の身になにか起きている。そう感じた。
 さんねは泣きながら蝶子を見上げ聞いた。

「蝶子にとって、白牡丹は啓太との思い出しか浮かばないの。啓太のが雪より大事。啓太のことが好き?」
「……」

 考えたこともなかった。この質問と氷雪の身に起きていることとの関連性が見いだせない。

(ここでの好きとは、恋愛対象よね)

 首を傾げながらも、蝶子は、その問いを考えた。啓太は、幼馴染みでしかない。それ以上でも、それ以下でもない。

 好き?
 蝶子は恋を知らない。愛とはいったいなんなのか、わからない。困惑して言葉に詰まっていると、雷が近くで落ちた。

「きゃっ」

 一閃が走り抜け、眩しさに目が眩む。激怒するかのように地が地響きし、震動で心が乱れた。雷鳴がする。雨音が激しくなる。

 そこに、ドンと壁になにかが当たる音がして、蝶子は振り返った。

「氷雪様」

 何時からいたのか、氷雪が壁に支えられながら立っていた。息遣いも荒く、体にうまく力が入らないのか、どこか、だらりとしていた。

「雪」

 わらわらと童子たちが、心配げに駆け寄ってくる。氷雪の瞳孔は細く、獣じみて蝶子だけを見据えている。

「啓太とやらが、なんだって」

 どこまでも低い声がして、蝶子の唇が震えた。
 どうやら、さんねとの会話を聞かれ、怒っているようだ。とは言え、激怒する会話などあっただろうか。

 啓太が好きかどうかなど、氷雪には、どうでもいいことだろう。

 氷雪は片腕をぐっと掴みながら、ふらりとし、一歩、蝶子に近づいた。袖から素肌が見え、蝶子はぎょっとする。

 氷雪の腕が、疎らに銀色の蛇の鱗になっていた。首も。顔もだ。

「俺が怖いか」

 蝶子は首を振る。足が勝手に震えた。
 氷雪の身になにかが起きているようだが、怒りは蝶子に向けられているようだった。

 ゴロゴロと雷は鳴り響く。氷雪を見ていられなくて、蝶子は俯いた。すると、
大きな長蛇の影が、蝶子を覆った。時刻は暮れ六つ。(十八時ぐらい)薄暗さのなか、四隅の行燈が揺らめく。

 氷雪の影が、蛇になっていた。部屋に大きな影が落ちる。蝶子は喉をひとつ鳴らした。一歩。氷雪が蝶子に近づく。ただならない氷雪の様子に蝶子は身を強ばらせた。
 その様子に、ひとには氷雪の前に立ちはだかる。

「雪。落ち着いて、力の使い過ぎだよ。感情が乱れてる。いつもの雪じゃないよ。正気になって」
「俺は正気だ」

 目を血走らせて氷雪は、ひとにを避けて蝶子に近づいた。
 怖い。
 蝶子は一歩、下がった。氷雪の瞳が収縮する。

「っ……」

 氷雪は指に力を入れると、爪が腕に食い込み、つと、一筋の血が流れた。
 なぜ、これほどまでに氷雪は怒りをあらわにしているのだろうか。

「蝶子が……両親に殺されそうになったとき、俺が助けてやったのに、それなのに」
「えっ?」

 氷雪の唐突な言葉に蝶子は混乱した。
 確かに、蝶子は両親に殺されかけたことがある。しかし、あのとき。

 と、ピシャリと雷が水池に落ちた。
 蝶子は無表情で、外を見る。
 両親。雷。雨。首に残る締められる感覚。否応なく思い出す記憶。

「違う。蝶子。今の雪は正気じゃないよ。雪は、そんなこと思って無いよ」

 蝶子が混乱していると、ひとにが、必死で弁明する。
 氷雪が蝶子を助けた。助けてやったのに。
 雨音が五月蠅いほどに、屋敷の瓦を叩き付けていた。

(額が痛い)

 何かが額で蠢くような。攻めぎあっているような感覚がした。

 氷雪は荒々しく、蝶子へと手を伸ばした。
 蝶子は、咄嗟に、ぎゅっと目を瞑る。
 腕を掴まれ、爪が食い込むほど引っ張られ、死を覚悟した。

 ふわっと柔らかな物が額を掠める。温かい物。蝶子は目を開く。氷雪の唇が、そっと蝶子の額に触れていた。怒りとは裏腹に、優しい行為。

 額の痛みが、すっと消えていく。
 氷雪は唇を離すと、とん、と蝶子を押した。蝶子は二、三、蹌踉めきながら、うしろに下がる。

「俺から、離れろ」

 蝶子の血の気が引く。

「雪。もうダメ。ボロボロ。揺り篭に行こう」

 童子たちが一斉に氷雪を止める。蝶子は身動きが出来ず、立ち尽くしていた。童子たちに支えられながら、蹌踉めき氷雪は蝶子を通り越し、屋敷の奥へと向かって行く。ひとに、だけが蝶子の傍に残った。

 額が高熱を出したときの様に熱い。
 蝶子は額を手で押さえる。

「蝶子。大丈夫? おでこ、まだ痛い? 氷雪が蝶子の中の邪気を払ったから、もう大丈夫だよ」
「どういうこと」

 ひとには、ばっと口を押さえた。
 痛みを伴う額の疼きは消えていた。気のせいではない。接吻する行為の意味。

「教えて」

 蝶子が静かに聞くと、ひとには、しばらく唸り、渋々と口を開いた。

「蝶子の、おでこには、印が付いてるの、獲物の所有印。呪物だよ」
「わたし、呪われていたの!」

 ひとには首を振る。

「呪いと言っても、マーキング。蝶子を自分の物だという証し、蝶子は嫁に来たとき、二つの呪いが掛かっていたんだ」
「二つ」

「ひとつは、おでこ。二つは、言葉の呪い。虐げられて発せられた言葉で、蝶子は、自分に価値が無いと思いこんでた。今もそう思ってるかもしれないけど。言葉は雪や、ぼくたちと接しているうちに、心のなかから祓うことは出来る。でも、印は、雪が、おでこに口づけをすることで、上書きしてたんだ」

 蝶子は瞠目する。

「上書きするとは」
「言葉の通り、獲物の印を抑えて、雪の所有印とすることだよ」

 そうやって蝶子を守っていたと。
 神のお屋敷に来てから幾度と無く、額に接吻をされた。蝶子の唇が微かに震える。

「上書きするのは、そうとうな力を、お使いになるのでは」
「……うん」

 呪いを抑えるのに力を使わない訳がない。
 だから。

 蝶子は、先日訪れた大鷹の言葉を思い出す。蝶子の額はどうしたのかと聞かれたあとに、大鷹はこう言ったのだ。

『なるほどな。それで神力が欠如しているのか』

 力が欠如していたのは、蝶子のせい。
 なぜ、あのときもっと深く聞かなかったのだろう。
 力を欠かすほどの呪いなら、蝶子など捨て置けばいいのに。

「あのね。蝶子が悪いんじゃないよ。蝶子に勝手に印を付けた者が悪いんだから、あいつが、しつこく、蝶子を狙うから」
「でも、原因は、わたしで、わたしがここに来たから」
(狙う?)

 ひとにの、言葉に引っかりを覚えた。

(しつこく?)

ならば一度や二度ではないのだろう。
 そこまで考えて、夜中に邪気が入り込み、氷雪が祓っていることを思い出す。
 まさか。

「この神域には邪物は、よく入り込むのですか」
「蝶子。大丈夫だよ。ここに居れば邪物は、めったに入って来ないよ。心配しないで」

 ひとには安心させるように諭した。けれど、蝶子は確信し、瞳が陰る。

「では、邪物が入り込もうとしていたのは、わたしが原因ですか」
「はぴゅ」

 ひとには、変な息を吸った。あたふたとさせ、身振り手振りで違うと言っているようだが、咄嗟のことで嘘がつけないようだった。

 今ならわかる。
 蝶子が熱を出した夜。氷雪は蝶子に寄り添ってくれた。額の呪いを抑えるため接吻をしてくださり、そのあと、席を立たれ出て行かれた。

 あのとき、邪物が入り込んでいたのだ。
 蝶子は呑気に今からお出かけとは、と思った。
 まだある。仙天横町から帰ってきた夜。蝶子は外で花火の光のような物を見た。

 鬼門から邪な物が入って来たと聞いたが、あれも蝶子が原因だったのだろう。
 思い当たる節が幾つか浮かび上がってくる。

 きっと、蝶子が知らないところで、何度も、何度も、氷雪は蝶子が原因で戦っていた。
 歯切れ悪く、「あう」と唸っていた、ひとには小さく頷いた。

「あ、蝶子。うん……蝶子のおでこを目印に、邪物が……来てたんだ」
(やはり、わたしが引き寄せていたのだわ)
「では、それを祓うには、かなりのお力を使うのでは無いのですか」
「それ程でもないよ」
「ですが、続けざまに祓っていては、お力が削がれてしまうのではないのですか」
「……」

 言い逃れの出来ない言葉に、肯定を物語っていた。
 氷雪の力が欠落した原因は、蝶子の額の呪いと、それによって引き寄せられた邪物が原因。

(氷雪様は、優しい方だから、助けて下さっていた)

 そして……。

「力が欠如されていたのに、お役目の雨を降らせるのは……」

 きっと、辛い。

 蝶子は沈痛な面持ちで言葉を飲み込んだ。
 先ほどまでのボロボロの氷雪の姿を思い出す。優しさを保てないほど、手負いな状況だった。

 それなのに印を上書きするために、あんな状態に関わらず、蝶子に額に接吻をしてくれた。目頭が熱くなる。

「蝶子。氷雪は大丈夫だから、今、揺り篭にいるから。あそこは神力を回復させてくれる場所だよ。明日には、だいぶ、よくなってるから」
「いいえ。わたしは……」

 必死で蝶子を元気づけようとする、ひとにに、蝶子は拒絶し頭を激しく振った。

(わたし、うぬぼれていたんだわ)

 嫁と言う言葉に。甘えて。
 優しくしてくれた。こんな価値の無い者に。
 氷雪を傷つけた。

 蝶子さえいなければ、あんな酷い姿にならなかった。
 蝶子は害でしかない。氷雪にふさわしくない。
 ずっと、嫁として自分に出来る事を探していた。

 最初から無い。氷雪のためになる物など、何ひとつ存在しない。
 居てはいけない。もう、傷つけたくはない。

(わたしが、いなければ)

 離れよう。
 氷雪もそう言っていた。離れろと。

 お側にいない方がいい。
 だって、蝶子など、神の嫁など、最初から分不相応でしかなかったのだから。