蝶子にとって、誰かを待つということは、部屋から出してもらえることだった。
『呪ってやる』
奉公先の夏子お嬢様はお怒りになると、よく、蝶子を押し入れのなかに閉じ込めた。あれは、夏子お嬢様が好いていた団子屋の平助が、蝶子に恋慕していたと知った時だった。
勘違いでしかないのに。確かに平助は優しい人柄であった。十二歳の蝶子には十五歳の平助は、お兄さんとしてしか見ておらず、どちらかと言えば、苦手であった。誰にも優しい平助だが、少々、親密感が近く、誰かれ構わず触れる癖のある人で、どうにも好きにはなれなかった。
『あんたのせいで、平助さんは亡くなったのよ』
夏子お嬢様は泣きじゃくり、謂われの無い根拠で、蝶子を罵った。
ある朝、平助は突然死したらしい。とはいえ、人が亡くなるのはよくあること、原因不明でなくなることなど日常茶飯事だった。
『呪ってやる』
夏子お嬢様は、蝶子を押し入れに押し込み、札を貼った。蝶子は何度か押し入れから出ようと襖を開けようとするが、ビクともしない。しだいに、諦め、いつも夏子お嬢様が気が済むまで、出してくれるのを待つ。
夏子お嬢様の系譜には、ときどき、神や精霊と交信できる巫女(女)と覡(男)が産まれて来たらしい。
雨を予言したり、死を予言したり、人には見えぬ悪霊を憑依させては、霊鎮めを行っていたとか。昔のことだ。
そのせいか、夏子お嬢様も札を扱える。もしくは、夏子お嬢様の兄の秋生様も、少々の力があり、隣町に丁稚奉公しながら、活躍されていると小耳に挟んだ。丁稚とは商家に見習いで使える弟子のこと。
札は、秋生様が書かれた物かもしれない。本家である長男に産まれた秋生は、頑なに家を継がないと言い、家を出て行かれた。どうやら丁稚奉公した家の娘に惚れてしまったと聞くが、定かでは無い。
優しいかただったと蝶子は記憶する。
本来なら、この札の使い方は、悪しき物を封じる札のはずだが、夏子お嬢様は、それを蝶子を閉じ込めることに使った。
このことは秋生も知らないだろう。知っていれば、きっと止めてくださったかもしれない。
蝶子は暗い押し入れの中で身をかがめ、正座して、時を待つ。仕事に支障が出始めるころ、ようやく、解放され押し入れから出されるのが常であった。
だから、待つのは、諦めの行為だと思っていた。
蝶子は蛇神様の屋敷の廊下に佇む。氷雪が屋敷を出てから、何度、廊下から外を眺めていただろうか。
晴れ渡っていた空が、徐々に暗雲が垂れ込める。
ぱらぱらと雨が降り出しても、蝶子はそこから動くことをしなかった。
冷えた廊下を意味も無くうろうろと回ってみた。
押し入れに閉じ込められているときは、何も感じなかった。
しかし、今、どうしてこれほどまでに落ち着かないのか不思議でならなかった。
「氷雪様」
ぽそりと、名を呼ぶ。
ふと、額にズキリと痛みが走った。蝶子は眉をひそませた。屋敷に来てから、ときどき額が疼き、痛みを伴うことがあった。
気のせいかと思っていたが、徐々に、痛みが強くなってきている気がする。
(そう言えば、氷雪様が額に接吻をされると、痛みが、しばらく無いような気がする)
気のせいだろうか。
蝶子は頭を振り、今朝のやりとりを思い出す。氷雪の指が蝶子の唇に触れた。なぜだろう。もっと触れていて欲しい。
馬鹿な。なんて恥知らずな。
蝶子は己の考えに、頬を染めた。
「氷雪様」
雨脚が激しくなってきた。雨雲の先にはきっと、氷雪がいる。蝶子は暗雲の空を見つめ続けた。
*****
「さっさと、終わらせて帰るぞ」
氷雪は大鷹の背に跨がり、不機嫌そうに呟いた。
「それは、お主しだいだ。雨を降らせられるのか」
氷雪の体を労って大鷹は言うが、氷雪は渋い顔をする。
相変わらず、お節介な神だ。
「ふん。手伝いに来たんだろう。だったら、黙って働け」
「口の減らない奴よのう。まったく、隣神でなかったら、捨て置くものを」
嫌みったらしい言葉にも動じず大鷹は羽をそよがせ、青々とした森の上空を滑空した。
この場は蛇神の森の神域一帯。人間の住む下界と表裏一体なのだが、同じ場所であって、そうで無い。表が高天原なら裏が人間界。どちらかが穢れれば浄化をしなくては場が乱れる。場が揺らげば、闇の深淵が這い上がり、高天原もただではすまない。深淵には鬼が巣くう。土地神は神域を守護する者。
氷雪の力の源は雨。雨を持って、大地を鎮める。
氷雪は迫り来る風をものともせず、すくりと大鷹の背に立ち上がった。
服の袖を捲し上げる。鋭い爪を腕に突き立て、引っ掻く。すると、ぽろぽろと銀色の光り輝く鱗が剥がれ、花弁のように宙を舞う。
(ここいら、一帯に雨か……)
どれだけの神力を消耗するか。大鷹は翼を広げ、強い風を起こす。氷雪の鱗がキラキラと光りながら、風に乗って遠くまで飛んで行く。しだいに、雨雲が広がり、ばらばらと雨が降り出した。氷雪は、くらりとした。
「ふん。貧血か」
「貧血だ」
体から力が吸い取られる。氷雪は力の使い過ぎを貧血で例えた。それは大鷹も同じ。大鷹は、すべてを理解し、わかったうえで嫌みを言う。
氷雪は額を押さえ、もう一度、同じことを繰り返した。
「見ろ、地面から雨煙が立ちだした。多いな」
雨煙が立つ。それだけ、この土地の邪気が増している証拠。浄化の証し。
穢れが多いほど、雨煙が多く立つ。視界を遮るほどの雨煙に、穢れの度合いを計る。大鷹は嫌そうに目元をピクリとさせた。
「人間たちは無情だ。戦に病気に呪詛とな、穢ればかりだ。踏ん張りどころじゃぞ」
「わかっている。まったく人間とは阿呆ばかりだ。浄化する身になってほしいものだ」
「土地の穢れは、深淵の鬼を呼ぶ。深淵に巣くう者たちが溢れかえれば、高天原もただではすまん」
「わかっている。だから、浄化しているだろうが」
「正気でいろよ」
「……」
(正気を失ってなるものか)
荒神になどなるつもりなどない。蝶子が家で待っているのだ。
広範囲に広がる山々を雨で浄化しながら、氷雪は、痺れる手で腕の鱗を引きはがし続ける。体に力が抜けていく。穢れが多いほど、力が根こそぎ取られていく。
「まったく、頑固者が、娘子、ひとりに翻弄されおって」
「うるさい」
力が欠落した状態で、いつまで持つか。否。持たせる。
氷雪は、がくり、と膝をついた。息を乱す。それでも瞳には強い意志を宿していた。
「蝶子」
なにがなんでも蝶子の待つ家に帰る。
『呪ってやる』
奉公先の夏子お嬢様はお怒りになると、よく、蝶子を押し入れのなかに閉じ込めた。あれは、夏子お嬢様が好いていた団子屋の平助が、蝶子に恋慕していたと知った時だった。
勘違いでしかないのに。確かに平助は優しい人柄であった。十二歳の蝶子には十五歳の平助は、お兄さんとしてしか見ておらず、どちらかと言えば、苦手であった。誰にも優しい平助だが、少々、親密感が近く、誰かれ構わず触れる癖のある人で、どうにも好きにはなれなかった。
『あんたのせいで、平助さんは亡くなったのよ』
夏子お嬢様は泣きじゃくり、謂われの無い根拠で、蝶子を罵った。
ある朝、平助は突然死したらしい。とはいえ、人が亡くなるのはよくあること、原因不明でなくなることなど日常茶飯事だった。
『呪ってやる』
夏子お嬢様は、蝶子を押し入れに押し込み、札を貼った。蝶子は何度か押し入れから出ようと襖を開けようとするが、ビクともしない。しだいに、諦め、いつも夏子お嬢様が気が済むまで、出してくれるのを待つ。
夏子お嬢様の系譜には、ときどき、神や精霊と交信できる巫女(女)と覡(男)が産まれて来たらしい。
雨を予言したり、死を予言したり、人には見えぬ悪霊を憑依させては、霊鎮めを行っていたとか。昔のことだ。
そのせいか、夏子お嬢様も札を扱える。もしくは、夏子お嬢様の兄の秋生様も、少々の力があり、隣町に丁稚奉公しながら、活躍されていると小耳に挟んだ。丁稚とは商家に見習いで使える弟子のこと。
札は、秋生様が書かれた物かもしれない。本家である長男に産まれた秋生は、頑なに家を継がないと言い、家を出て行かれた。どうやら丁稚奉公した家の娘に惚れてしまったと聞くが、定かでは無い。
優しいかただったと蝶子は記憶する。
本来なら、この札の使い方は、悪しき物を封じる札のはずだが、夏子お嬢様は、それを蝶子を閉じ込めることに使った。
このことは秋生も知らないだろう。知っていれば、きっと止めてくださったかもしれない。
蝶子は暗い押し入れの中で身をかがめ、正座して、時を待つ。仕事に支障が出始めるころ、ようやく、解放され押し入れから出されるのが常であった。
だから、待つのは、諦めの行為だと思っていた。
蝶子は蛇神様の屋敷の廊下に佇む。氷雪が屋敷を出てから、何度、廊下から外を眺めていただろうか。
晴れ渡っていた空が、徐々に暗雲が垂れ込める。
ぱらぱらと雨が降り出しても、蝶子はそこから動くことをしなかった。
冷えた廊下を意味も無くうろうろと回ってみた。
押し入れに閉じ込められているときは、何も感じなかった。
しかし、今、どうしてこれほどまでに落ち着かないのか不思議でならなかった。
「氷雪様」
ぽそりと、名を呼ぶ。
ふと、額にズキリと痛みが走った。蝶子は眉をひそませた。屋敷に来てから、ときどき額が疼き、痛みを伴うことがあった。
気のせいかと思っていたが、徐々に、痛みが強くなってきている気がする。
(そう言えば、氷雪様が額に接吻をされると、痛みが、しばらく無いような気がする)
気のせいだろうか。
蝶子は頭を振り、今朝のやりとりを思い出す。氷雪の指が蝶子の唇に触れた。なぜだろう。もっと触れていて欲しい。
馬鹿な。なんて恥知らずな。
蝶子は己の考えに、頬を染めた。
「氷雪様」
雨脚が激しくなってきた。雨雲の先にはきっと、氷雪がいる。蝶子は暗雲の空を見つめ続けた。
*****
「さっさと、終わらせて帰るぞ」
氷雪は大鷹の背に跨がり、不機嫌そうに呟いた。
「それは、お主しだいだ。雨を降らせられるのか」
氷雪の体を労って大鷹は言うが、氷雪は渋い顔をする。
相変わらず、お節介な神だ。
「ふん。手伝いに来たんだろう。だったら、黙って働け」
「口の減らない奴よのう。まったく、隣神でなかったら、捨て置くものを」
嫌みったらしい言葉にも動じず大鷹は羽をそよがせ、青々とした森の上空を滑空した。
この場は蛇神の森の神域一帯。人間の住む下界と表裏一体なのだが、同じ場所であって、そうで無い。表が高天原なら裏が人間界。どちらかが穢れれば浄化をしなくては場が乱れる。場が揺らげば、闇の深淵が這い上がり、高天原もただではすまない。深淵には鬼が巣くう。土地神は神域を守護する者。
氷雪の力の源は雨。雨を持って、大地を鎮める。
氷雪は迫り来る風をものともせず、すくりと大鷹の背に立ち上がった。
服の袖を捲し上げる。鋭い爪を腕に突き立て、引っ掻く。すると、ぽろぽろと銀色の光り輝く鱗が剥がれ、花弁のように宙を舞う。
(ここいら、一帯に雨か……)
どれだけの神力を消耗するか。大鷹は翼を広げ、強い風を起こす。氷雪の鱗がキラキラと光りながら、風に乗って遠くまで飛んで行く。しだいに、雨雲が広がり、ばらばらと雨が降り出した。氷雪は、くらりとした。
「ふん。貧血か」
「貧血だ」
体から力が吸い取られる。氷雪は力の使い過ぎを貧血で例えた。それは大鷹も同じ。大鷹は、すべてを理解し、わかったうえで嫌みを言う。
氷雪は額を押さえ、もう一度、同じことを繰り返した。
「見ろ、地面から雨煙が立ちだした。多いな」
雨煙が立つ。それだけ、この土地の邪気が増している証拠。浄化の証し。
穢れが多いほど、雨煙が多く立つ。視界を遮るほどの雨煙に、穢れの度合いを計る。大鷹は嫌そうに目元をピクリとさせた。
「人間たちは無情だ。戦に病気に呪詛とな、穢ればかりだ。踏ん張りどころじゃぞ」
「わかっている。まったく人間とは阿呆ばかりだ。浄化する身になってほしいものだ」
「土地の穢れは、深淵の鬼を呼ぶ。深淵に巣くう者たちが溢れかえれば、高天原もただではすまん」
「わかっている。だから、浄化しているだろうが」
「正気でいろよ」
「……」
(正気を失ってなるものか)
荒神になどなるつもりなどない。蝶子が家で待っているのだ。
広範囲に広がる山々を雨で浄化しながら、氷雪は、痺れる手で腕の鱗を引きはがし続ける。体に力が抜けていく。穢れが多いほど、力が根こそぎ取られていく。
「まったく、頑固者が、娘子、ひとりに翻弄されおって」
「うるさい」
力が欠落した状態で、いつまで持つか。否。持たせる。
氷雪は、がくり、と膝をついた。息を乱す。それでも瞳には強い意志を宿していた。
「蝶子」
なにがなんでも蝶子の待つ家に帰る。
