こんなにも穏やかな日々を送ってもいいのだろうか。
蝶子の朝は、氷雪に膝枕をすることから、始まる。
「氷雪様、あの……木の上で、本を読まれないのですか」
「こっちのが、心地が良い」
日当たりのいい縁側で、蝶子は正座をし、膝のうえには、ずしりと仰向けになった氷雪の頭が乗っていた。氷雪は膝を枕に本を読んでいるが、時々、蝶子が返答に困ることを言う。
(木の上の方が、心地が良いと思うのですけど)
庭の紅葉の木は、氷雪の特等席だったはずなのだが、一度、膝枕してからは、なにかと蝶子を枕代わりにするようになった。
(これは、罰の続きなのかもしれない)
「なにか、くだらぬことを考えているな」
氷雪は、うろんげに目を細め、本の隙間から蝶子を眺める。射ぬくような氷雪の眼差しに、蝶子は目のやり場に困った。
「そのようなことはないです。氷雪様は……ご本が好きなのですね」
「別格、好きではないが、蝶子は興味があるのか」
「いえ、そのような」
「読むか?」
蝶子はあたふたとした。催促したように聞こえたのだろうか。
「いえ……。実は、あまり字を知らないのです。寺小屋で学を少々、習っていましたが、途中で止めてしまったので」
蝶子は、あまり触れられたくなく、氷雪の視線を逸らし、青葉に彩られた庭を眺めた。
本は嫌いでは無い。子供向けの赤本(絵本)なら読んだことはある。今、氷雪が手に持っている本は、もう少し大人向けの青本だった。蝶子には読むことが出来ない。
「なら、私が字を教えてあげよう」
とんでもないことを氷雪は言った。蝶子は焦った。
「そのような、氷雪様の、お手を煩わせては」
「よい。それとも、金を払って、かの有名な神。菅原道真公に教えを請うか? 確か、暇つぶしだと言われ、学舎を開いていたはずだが」
菅原道真と言えば、学問の神様だ。そんな、ご立派な神様に学を教わるわけにはいかない。蝶子は、勢いよく首を左右に振り、断った。
「では、俺が教えよう」
どこか上機嫌に氷雪は言い。その日から、蝶子の膝枕を強要しつつ、青本を読み、字を習うようになった。
朝のひと時が終わると、童子の作った朝餉を済ませ、氷雪は仙天横町に出かける。蝶子は庭の掃除を済ませると、自由時間に縫い物をすることにした。
以前に着物を仕立て頂いたときに、残りの切れ端も一緒に届けられた。その切れ端を使って、蝶子はある物を作っていた。
「出来た」
糸を通して玉どめをすると、握り鋏で、ぷつりと糸を切る。童子たちを呼んで、手渡す。
「うわ。これ、ぼくにくれるの?」
「これ、わたしに。蝶子。ありがとう」
目をきらきらとさせて童子たちは、飛び跳ね、走り回って、喜んだ。
男の子には、お手玉を。
女の子には、うさぎの人形を。
さっそく、童子たちは手製の玩具を手に入れると遊びだした。
蝶子は微笑んだ。
そこに青雀と紅雀が花を咥えて、屋敷へと戻って来た。剣山にお花を生けているところに蝶子は声を掛けた。
「あなたたちには、これを」
蝶子は手絡を渡す。が、首に装着しては苦しいだろうか、と悩んでいると、青雀はお尻を向けて、尾っぽを振って、ここに着けてと催促しているようだった。蝶子はクスリと笑い、青雀と紅雀の尾に手絡を縛った。
昼九つ(午前十二時ごろ)になると、氷雪が茶屋で菓子を買って帰ってくる。その日は、たっぷり、きな粉の団子だった。
日常化していく。
当たり前になっていく日常。まるで空気を吸うように。
蝶子は茶菓子を食べ終わったあと、童子に頼まれ、剣の鍛錬をしている氷雪の道場へと向かった。下駄を履き、水桶にタオルを持ち、眩しく光る青空を仰ぐ。
「いい天気」
蝶子が道場に入ると、氷雪は剣を片手に、美しく回る様に剣を宙で切っていた。
「蝶子。どうした」
「すみません。汗を流されていると思って、背中をお拭きに来ました」
「にーにと、ねーねは?」
「えっと」
氷雪は怪訝そうに眉をひそめた。
いつもは童子たちがしている仕事である。蝶子は決まり悪げに目を泳がせた。
「お遊びに夢中で、頼まれました」
「遊び?」
「あの……。わたしが玩具を作ったので」
「作った!」
どうやら癇に障ることをしてしまったようだ。氷雪の表情が不機嫌に変わる。氷雪は問い詰め、蝶子はビクビクしながら話した。
勝手なことをしたのだ。きっと叱られる。
「俺にはないのか」
「えっ」
ところが、氷雪は口を尖らせて、驚くことを言ってきた。
(えっと。氷雪様も、玩具が欲しかったのでしょうか)
どんな顔して、氷雪がお手玉をするのだろうかと蝶子は、きょとんとした。氷雪は長い髪を払いのける。
(そうだ。汗を拭かなくては)
お風邪を召されてはいけない。蝶子は「失礼します」と言うと着物の衿に手を掛けた。
氷雪は無言でされるがままでいた。上衣が下げると、氷雪はあぐらを掻いて座る。蝶子は膝立ちをしながら水桶にタオルを入れて、しぼると氷雪の背を拭いた。
「俺には、ないのか」
(あ、この話、まだ終わっていなかったのですね)
「鳥にも、なにか作ってやったのだろう」
「青と紅にも、尾に手絡を」
「青と紅?」
「すみません。青雀と紅雀の名前を聞きそびれていて、勝手にそう呼んでいました。あの子たちの、名前は」
「良い、青と紅で──で、俺だけないのか。他の者にはあるのに」
「えっと。反物の切れ端で作ったので」
切れ端はもうない。
心なしか、氷雪の頬が膨れているような気がした。
「今度、男物の反物を買ってくる」
蝶子は目を丸くする。
(これは、作って欲しいってことかしら)
着物を仕立てるなら、呉服店のお針子に依頼した方が、早く綺麗だ。
それなのに氷雪は蝶子に作ってほしいらしい。
まさか、そんな物をねだられるとは思いもしなかった。蝶子は心の中で笑った。
「はい。仕立てさせてもらいます」
「あいつらに、負けるなど」
氷雪はぶちぶちと呟き、まるで、駄々をごねる子供の様に思えた。
(いけない、こんなことを思っては、でも、氷雪様が、お可愛らしい)
蝶子は自然と笑みがこぼれた。一瞬、氷雪は呆けたように、じっと蝶子を見つめ、コクンと喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。
急に黙る氷雪に、どうされたのだろうと、蝶子は笑みを止めて顔をあげた。
艶かしい眼差しで蝶子を見つめる氷雪。瞬きすらしない。
そっと手が伸びて蝶子の頬に触れる。大人の色気を感じさせる瞳で、見入られる。まるで金縛りにあったように蝶子は動けなかった。蝶子は息苦しさに唇を薄く開いた。
氷雪の親指が、蝶子の薄く開いた唇をなぞる。上唇をなぞり、下唇をなぞる。蝶子は、ざわりとした。
(氷雪様は、どうされてしまったのかしら)
蝶子は疼きに戸惑った。
氷雪の顔が近づいて来る。息がかかるほど、間近に顔が迫る。
開かれたままの道場の戸から、さわりと風が入り込み、氷雪の銀髪が靡いた。
氷雪の瞳に吸い込まれて、目を瞑ることができない。
微かに、まつげが触れあった。
「──雪。お客様」
唇と唇が触れる寸前。童子が大声で氷雪を呼ぶ。蝶子は、はっとして、バネのように顔を背けた。
氷雪は「ちっ」と舌打ちをして、顔をあげる。
「邪魔しやがって」
氷雪は、ぼそりと言い。前髪を掻き上げた。表情を引き締め、冷静さを取り戻すと、上衣を着直し、氷雪はすくりと立ち上がった。
「蝶子は、ここで待っていなさい」
呆ける蝶子。氷雪は去り際、蝶子の頭を、くしゃりと撫で、蝶子は、ぶわっと何とも言えないものが、体の内から沸き上がった。
(今、いったい何が)
額の接吻とは違う気がした。まだ、氷雪が触れた手の感触が唇に残っている。蝶子は動揺した。
あのまま童子の声が聞こえなかったら、氷雪の唇は蝶子の唇に触れていただろうか。
蝶子は、顔を真っ赤にさせた。
いけない。勘違いしては。
蝶子の発する声が不愉快で、指で口を塞いだのかもしれない。
蝶子の唇に、食べ残しがあって、拭いてくださったのかもしれない。
蝶子は混乱して、独り合点する。
(わたしったら、わたしったら)
いつまでも心臓が、ばくばくと音を立てていた。
氷雪の指が触れた唇に、そっと蝶子は触れる。
顔をあげ、道場から出て行く氷雪の背を、静かに見送る。
(わたし……。氷雪様の良き妻になりたい)
もう、氷雪の姿はない。
道場の片隅には、白牡丹の彫刻を施した釣り灯籠があり、真珠をしつらった、真っ白な飾り房が、ゆらゆらと揺れていた。
「いけない。わたしも、お客様のお出迎えしなくては」
蝶子は火照る頬を無視して、立ち上がった。
蝶子の朝は、氷雪に膝枕をすることから、始まる。
「氷雪様、あの……木の上で、本を読まれないのですか」
「こっちのが、心地が良い」
日当たりのいい縁側で、蝶子は正座をし、膝のうえには、ずしりと仰向けになった氷雪の頭が乗っていた。氷雪は膝を枕に本を読んでいるが、時々、蝶子が返答に困ることを言う。
(木の上の方が、心地が良いと思うのですけど)
庭の紅葉の木は、氷雪の特等席だったはずなのだが、一度、膝枕してからは、なにかと蝶子を枕代わりにするようになった。
(これは、罰の続きなのかもしれない)
「なにか、くだらぬことを考えているな」
氷雪は、うろんげに目を細め、本の隙間から蝶子を眺める。射ぬくような氷雪の眼差しに、蝶子は目のやり場に困った。
「そのようなことはないです。氷雪様は……ご本が好きなのですね」
「別格、好きではないが、蝶子は興味があるのか」
「いえ、そのような」
「読むか?」
蝶子はあたふたとした。催促したように聞こえたのだろうか。
「いえ……。実は、あまり字を知らないのです。寺小屋で学を少々、習っていましたが、途中で止めてしまったので」
蝶子は、あまり触れられたくなく、氷雪の視線を逸らし、青葉に彩られた庭を眺めた。
本は嫌いでは無い。子供向けの赤本(絵本)なら読んだことはある。今、氷雪が手に持っている本は、もう少し大人向けの青本だった。蝶子には読むことが出来ない。
「なら、私が字を教えてあげよう」
とんでもないことを氷雪は言った。蝶子は焦った。
「そのような、氷雪様の、お手を煩わせては」
「よい。それとも、金を払って、かの有名な神。菅原道真公に教えを請うか? 確か、暇つぶしだと言われ、学舎を開いていたはずだが」
菅原道真と言えば、学問の神様だ。そんな、ご立派な神様に学を教わるわけにはいかない。蝶子は、勢いよく首を左右に振り、断った。
「では、俺が教えよう」
どこか上機嫌に氷雪は言い。その日から、蝶子の膝枕を強要しつつ、青本を読み、字を習うようになった。
朝のひと時が終わると、童子の作った朝餉を済ませ、氷雪は仙天横町に出かける。蝶子は庭の掃除を済ませると、自由時間に縫い物をすることにした。
以前に着物を仕立て頂いたときに、残りの切れ端も一緒に届けられた。その切れ端を使って、蝶子はある物を作っていた。
「出来た」
糸を通して玉どめをすると、握り鋏で、ぷつりと糸を切る。童子たちを呼んで、手渡す。
「うわ。これ、ぼくにくれるの?」
「これ、わたしに。蝶子。ありがとう」
目をきらきらとさせて童子たちは、飛び跳ね、走り回って、喜んだ。
男の子には、お手玉を。
女の子には、うさぎの人形を。
さっそく、童子たちは手製の玩具を手に入れると遊びだした。
蝶子は微笑んだ。
そこに青雀と紅雀が花を咥えて、屋敷へと戻って来た。剣山にお花を生けているところに蝶子は声を掛けた。
「あなたたちには、これを」
蝶子は手絡を渡す。が、首に装着しては苦しいだろうか、と悩んでいると、青雀はお尻を向けて、尾っぽを振って、ここに着けてと催促しているようだった。蝶子はクスリと笑い、青雀と紅雀の尾に手絡を縛った。
昼九つ(午前十二時ごろ)になると、氷雪が茶屋で菓子を買って帰ってくる。その日は、たっぷり、きな粉の団子だった。
日常化していく。
当たり前になっていく日常。まるで空気を吸うように。
蝶子は茶菓子を食べ終わったあと、童子に頼まれ、剣の鍛錬をしている氷雪の道場へと向かった。下駄を履き、水桶にタオルを持ち、眩しく光る青空を仰ぐ。
「いい天気」
蝶子が道場に入ると、氷雪は剣を片手に、美しく回る様に剣を宙で切っていた。
「蝶子。どうした」
「すみません。汗を流されていると思って、背中をお拭きに来ました」
「にーにと、ねーねは?」
「えっと」
氷雪は怪訝そうに眉をひそめた。
いつもは童子たちがしている仕事である。蝶子は決まり悪げに目を泳がせた。
「お遊びに夢中で、頼まれました」
「遊び?」
「あの……。わたしが玩具を作ったので」
「作った!」
どうやら癇に障ることをしてしまったようだ。氷雪の表情が不機嫌に変わる。氷雪は問い詰め、蝶子はビクビクしながら話した。
勝手なことをしたのだ。きっと叱られる。
「俺にはないのか」
「えっ」
ところが、氷雪は口を尖らせて、驚くことを言ってきた。
(えっと。氷雪様も、玩具が欲しかったのでしょうか)
どんな顔して、氷雪がお手玉をするのだろうかと蝶子は、きょとんとした。氷雪は長い髪を払いのける。
(そうだ。汗を拭かなくては)
お風邪を召されてはいけない。蝶子は「失礼します」と言うと着物の衿に手を掛けた。
氷雪は無言でされるがままでいた。上衣が下げると、氷雪はあぐらを掻いて座る。蝶子は膝立ちをしながら水桶にタオルを入れて、しぼると氷雪の背を拭いた。
「俺には、ないのか」
(あ、この話、まだ終わっていなかったのですね)
「鳥にも、なにか作ってやったのだろう」
「青と紅にも、尾に手絡を」
「青と紅?」
「すみません。青雀と紅雀の名前を聞きそびれていて、勝手にそう呼んでいました。あの子たちの、名前は」
「良い、青と紅で──で、俺だけないのか。他の者にはあるのに」
「えっと。反物の切れ端で作ったので」
切れ端はもうない。
心なしか、氷雪の頬が膨れているような気がした。
「今度、男物の反物を買ってくる」
蝶子は目を丸くする。
(これは、作って欲しいってことかしら)
着物を仕立てるなら、呉服店のお針子に依頼した方が、早く綺麗だ。
それなのに氷雪は蝶子に作ってほしいらしい。
まさか、そんな物をねだられるとは思いもしなかった。蝶子は心の中で笑った。
「はい。仕立てさせてもらいます」
「あいつらに、負けるなど」
氷雪はぶちぶちと呟き、まるで、駄々をごねる子供の様に思えた。
(いけない、こんなことを思っては、でも、氷雪様が、お可愛らしい)
蝶子は自然と笑みがこぼれた。一瞬、氷雪は呆けたように、じっと蝶子を見つめ、コクンと喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。
急に黙る氷雪に、どうされたのだろうと、蝶子は笑みを止めて顔をあげた。
艶かしい眼差しで蝶子を見つめる氷雪。瞬きすらしない。
そっと手が伸びて蝶子の頬に触れる。大人の色気を感じさせる瞳で、見入られる。まるで金縛りにあったように蝶子は動けなかった。蝶子は息苦しさに唇を薄く開いた。
氷雪の親指が、蝶子の薄く開いた唇をなぞる。上唇をなぞり、下唇をなぞる。蝶子は、ざわりとした。
(氷雪様は、どうされてしまったのかしら)
蝶子は疼きに戸惑った。
氷雪の顔が近づいて来る。息がかかるほど、間近に顔が迫る。
開かれたままの道場の戸から、さわりと風が入り込み、氷雪の銀髪が靡いた。
氷雪の瞳に吸い込まれて、目を瞑ることができない。
微かに、まつげが触れあった。
「──雪。お客様」
唇と唇が触れる寸前。童子が大声で氷雪を呼ぶ。蝶子は、はっとして、バネのように顔を背けた。
氷雪は「ちっ」と舌打ちをして、顔をあげる。
「邪魔しやがって」
氷雪は、ぼそりと言い。前髪を掻き上げた。表情を引き締め、冷静さを取り戻すと、上衣を着直し、氷雪はすくりと立ち上がった。
「蝶子は、ここで待っていなさい」
呆ける蝶子。氷雪は去り際、蝶子の頭を、くしゃりと撫で、蝶子は、ぶわっと何とも言えないものが、体の内から沸き上がった。
(今、いったい何が)
額の接吻とは違う気がした。まだ、氷雪が触れた手の感触が唇に残っている。蝶子は動揺した。
あのまま童子の声が聞こえなかったら、氷雪の唇は蝶子の唇に触れていただろうか。
蝶子は、顔を真っ赤にさせた。
いけない。勘違いしては。
蝶子の発する声が不愉快で、指で口を塞いだのかもしれない。
蝶子の唇に、食べ残しがあって、拭いてくださったのかもしれない。
蝶子は混乱して、独り合点する。
(わたしったら、わたしったら)
いつまでも心臓が、ばくばくと音を立てていた。
氷雪の指が触れた唇に、そっと蝶子は触れる。
顔をあげ、道場から出て行く氷雪の背を、静かに見送る。
(わたし……。氷雪様の良き妻になりたい)
もう、氷雪の姿はない。
道場の片隅には、白牡丹の彫刻を施した釣り灯籠があり、真珠をしつらった、真っ白な飾り房が、ゆらゆらと揺れていた。
「いけない。わたしも、お客様のお出迎えしなくては」
蝶子は火照る頬を無視して、立ち上がった。
