嫁ぎ先は神様の住処

 茜色に染まる夕日が山際を照らしていた。山々からはひぐらしが、寂しげに鳴いている。

 すり切れた着衣を身につけた、村の男たちが、質素な輿を、汗を流しながら担いでいる。細長い曲がった山道を登る姿は、蟻の行進を浮かばせた。

 白無垢姿を身に纏った日野(ひの)蝶子(ちょうこ)は、輿の垂れ幕の隙間から、ぼんやりと眺め、薄ら笑う。

(好きな感情が無くても花嫁になれるのね)

 (すが)るように、帯に隠し持っている栞を握り締める。
 もう、生きて帰ることはないだろう。

 そっと空を仰ぐ。茜色の空には鳥がねぐらを求め、羽を広げ飛び交っていた。

(からす)ですら帰るところがあるのに)

 蝶子には、それすらない。
 これが、運命なのだろう。
 これが、定めだったのだ。

(もう、疲れた)

 生きていくことに。だから、これで良かったのかもしれない。
 蝶子を乗せた輿はゆっくりと、けれども確実に、鎮守の杜にある神社へと登っていった。

「なぁ、伯父さん。蝶子を嫁がせるのは止めないか」

 輿の前で男が両手を広げ、行く手を阻んだ。
 隻眼(せきがん)を包帯で隠し、つぶれた鼻に出っ歯の男は、啓太。なにかと蝶子を気に掛けてくれる。醜い顔と裏腹に心優しい人で、蝶子は彼にだけは多少なりと心を許していた。

「輿を担いで、山神に贄を捧げるなんて、馬鹿げている」

 異議を唱えたのは啓太の父だった。

「黙れ、啓太。兄さん、この馬鹿な(せがれ)のことは気にしないでくれ」

啓太の父が、村長である兄に言うと、啓太の袖を引っ張った。しかし、啓太は振り払う。

「でも」
「啓太。雨が降らないんだ。仕方がなかろう」

 渋面の面持ちで、村長は声を荒らげる。啓太は分家の子供で、村長は本家。立場的に刃向かうのは分が悪いはずだ。蝶子は虚ろながらも、耳だけはしっかり聞こえていて、なにげに、村の男たちを見ると、彼らは皆、決まり悪げに蝶子の顔を逸らした。

 これが普通の反応だ。
 蝶子は笑いたくなり、冷めた目元をより細めた。
 文句など無い。

 すでに身寄りも無い。辺境の土地に身を置いたことが、運の尽きだと諦めるしかないのだ。

 蝶子が生贄として選ばれることになったのは、雨が降らなくなって、そろそろ二月(にかげつ)になるからだった。作物は当に枯れてしまった。

 田んぼの土は、ひび割れ、葉月(八月)になっても稲の葉が茶色く焼けて、花がまだ咲いていない。野菜の生育も悪い。加えて、餌を求めて害獣が頻繁に出没し、なけなしの食糧を食い荒らしていた。

 このまま続けば、秋の収穫は絶望的になってしまう。そのうえ、租税である米は、国に半分ほどは納めなくてはならず、生活はますます厳しい。

 生贄を捧げよう。
 焦った村人たちは、そう囁きだしたのだ。

 この村はもともと雨が降らない土地だったと聞く。その昔、貧困に苦しむ村人たちは、蛇神を祀った。すると蛇神の守護のもと、雨が降るようになった。
 土地が潤い。田畑は実る。

 しかし、そこには十六歳未満の子供を山神に捧げることが条件だった。かれこれ八十年は行っていなかった行為だった。それが、貧しさから村人たちは、蝶子を贄にすることを賛同した。

 たかが迷信。されど迷信。
 村にとって蝶子が居なかれど、なんの影響などない。
 ならば、やろう。
 そう蝶子には推測できた。

「奉公人なら他にもいるだろう、なんで」

 啓太は喰って掛かった。村長は忌まわしげに一瞥しながら

「仕方なかろう、神が指名したんだ。蝶子は顔だけはいい。そう言うことだろう」

 と言う。
 実際、贄の候補には蝶子以外にもいた。それが、蝶子を神の嫁にしろと信託がくだされたのだ。

 五日前に、村長は何ヵ村かにひとりの割合にいる、神主を呼び寄せ、鎮守の杜に、雨乞いの儀式を依頼した。神職が大麻(おおぬさ)を振りながら祝詞をあげていると、祀られている白蛇石(はくじゃせき)から、蛇が数匹、蛇行しながら、儀式に参加していた者の周りを囲んだ。

 神職、村長、村役人、百姓の数人は怖じ気づく。
 辺りは霧に包まれ、けれども、一筋の光が天から下り、祀られている白蛇石を照らした。

 そこから「蝶子を嫁にすること」と神託がくだされ、真っ白な白無垢が、数匹の蛇から運ばれて渡された、と、村人たちは騒ぐ。

 嫁とは、贄を捧げることであろう。
 村人たちは信じた。
 伝授では蛇神様は荒神様だと聞く。

 八十年もしなかった生贄に、神がとうとうお怒りになったのだ。
 神に蝶子が選ばれたのは、きっと、身も心も綺麗な乙女を、蛇神様が喰うのが好物なのだろう。

 村人が囁いている。蝶子は耳にしていたが、背に重たい枯れ木を背負った籠を持ち、俯きながら彼らの横を通り過ぎた。

 だれもが蝶子ならいい。心の底で思っているのが透けるように見て取れ、心が凍てついた。

 雨乞いの生贄に選ばれてからは、着々と準備は進み、今日は、最後の晩餐だと、白米を頂き、白無垢姿にお化粧までされ、身なりを綺麗に飾られた。

 死は着実に迫っている気がした。
 村人たちの仄かな笑顔を、どこか滑稽に見ていた。

 初めは赤い傘を差し、歩いて山道を登ると村長は発言していたのだが、蝶子が刻限になっても部屋から出ず、無気力に座っているのを見るなり、走って逃げるかも知れないと思ったのか「山は急斜面もある、はぐれて逃げられてはいけない」とおっしゃりだした。
 蝶子に死んでもらわないと、困るのだろう。

 そこで村長の家の蔵にあった、使われなくなった輿を補強し、蝶子はそれに乗って生贄として、山を登っていた。

 そして、今、茜が差す夕日に照らされながら蝶子は、大空を飛ぶ真っ黒の翼を広げた(からす)を、苦笑いで見つめていた。

(死んだら、楽になれるだろうか)

 生まれ変われたら、鳥になりたい。
 そんな、荒唐無稽なことを考えていた。

ーー大丈夫。助けるから、必ずーー

 ふと、どこからか幻聴が聞こえ、蝶子は、はっとして、回りを伺った。

(この声。まただ)

 ときどき、優しい声が頭に響くことがあった。
 これはきっと蝶子の願望からくる幻聴なのだろう。蝶子は微かに頭を振る。

(馬鹿ね。誰が助けるというのかしら)

──そのときだった。

「なんだ。あれは」

 ひとりの男が木々の間を指さすと、動揺が広がった。蝶子は無関心ながらも男の手の先に目を向けようとした。

「うあぁ」
「逃げろ」

 突如、切羽詰まった声があがり、蝶子の乗る輿がガタンと大きく揺れ、体が跳ねるように上下した。

 なにが起きているのかわからず、蝶子は揺れに耐え、柱にしがみつく。村人たちが蒼白な面持ちで、来た道を下っていた。

(怯えている?)

 傍らの男を見て蝶子はそう思った。
 熊でも出たのだろうか。
 村人たちからは、ちりちりと熊除けの鈴が、あちこちから乱暴に聞こえてくる。熊の息遣い、声すら、聞こえない。

 それなのに、背後に、なにかがいる感覚だけが、蝶子を襲った。
 体に悪寒が走る。冷や汗が、つと、背中から流れ落ちる。

「捨てよう」

 担ぎ手の言葉が耳に入ると、すぐに蝶子の乗る輿が傾き、地面に捨てられた。

 蝶子は勢いよく地面に叩き付けられると、輿から飛び出した。横腹を打ち、肘を打ち、頬に砂利がつく。痛みで蹌踉めき頭を振る。横座りをして空を仰ぐ。大きな陰が蝶子の体をすっぽり覆っていた。

 大きな、なにか。
 蝶子は目を見開いた。

 映るのは、大岩ほどの人食い(いたち)。鎌を振るように爪を高く上げて蝶子を切り裂こうとしていた。

「蝶子」

 はっとして蝶子は首を巡らす。そこには、逃げなかったのか、一目散に啓太の駆け寄る姿が見えた。手を差し出され、蝶子は手を取った。

「一緒に逃げよう」

 頷き、起き上がる。が、突如、どこからか真っ白な綺麗な手が蝶子の腰を捉え、引き寄せられた。

(えっ。なに)

 引っ張られる強さに驚いていると、誰かの胸に、とんっと背が当たる。顔を仰ぐと、整った目鼻立ちの男が、覗き込むように、仏頂面をしながら、腰を引いた。

 佳人のような明るい白玉のような肌。首筋もすっと伸びている。華奢なイメージだが、触れ合う感触から、内に筋肉が引き締まっているのがわかった。

 長い透き通る銀髪を一束に結い、銀糸のように艶髪を靡かせて、誰をも虜にするほどの眉目秀麗な男が、気高く立っていた。

(誰だろう)
「何者だ」

 啓太がいきり立ち、顔を紅潮させ、足元に転がっていた石ころを両手に掴むと、投げる構えをした。

 蝶子を抱く男は鼻で笑い、困惑する蝶子に構わず、ますます腰を寄せた。

「これは俺の嫁だ。黙っていろ」
(嫁?)

 ならば、このかたが蛇神様なのだろうか。

(では、わたしは、このかたに供物として食べられるのだわ)

 まるで他人ごとに思えた。
蝶子にしてみれば鼬妖怪に喰われようが、蛇神に喰われようが同じことだった。

 蛇神様は渋面している。獲物である蝶子が逃亡すると思われたのだろう。
一瞬でも宿命から逃れようなんて、浅はかだったのだ。手足はすっかり冷え切っていた。

「蝶子。少し我慢していなさい」

 蛇神の言葉に、何を、と蝶子は呆気に囚われた。
 すると、蛇神の体躯が銀色に淡い光を放つ。歯はぐぐっと長く犬歯が生え、体が縄の様にうねり、天へ伸びた。

 丸太のような胴体は蜷局を巻く。
 冷たい体温に、つべつべした皮膚。尾っぽの先で、緩く、蝶子の体を縛り上げられ、苦手な蛇に身を強ばらせた。

 巨木ほどの白蛇。鼬妖怪よりも長躯。長い舌をチロチロと出していた。
蝶子は食べられる身だとわかっていても、この光景に自然と身が竦んだ。

鼬妖怪は怯むように、毛を逆立てていたが、咆吼をあげ、白蛇に立ち向かって行った。

 戦いが始まれば、蝶子など眼中になく、きっと絞め殺されると思った。
 白蛇は蝶子を一切離さない。最後の瞬間を待つ。

 しかし、一向に身体は緩いままで、上体だけを左右に蛇神は蛇行させ、鼬妖怪に向け、己の鋭い牙を開いた。ブツリと激しく体躯に突き刺す。

 毒液が地面に滴り落ち、じゅうじゅうと音を立てる。鼬妖怪は痙攣する。そのまま悪臭を漂わせながら、絶命し、溶けて煙になった。その場は跡形も無く消え失せた。

 蝶子は痛感するほどカラカラに喉が渇き、冷や汗が首筋を流れ落ちた。

(わたしも、こんな風に……)

 末路を想像し蝶子は戦慄いた。

「化け物が」

 近くで、啓太嫌悪感を含んだ声で呟いた。
 蝶子は恐怖と緊張から、不覚にもプツリと糸が切れたように、意識を失った。