“新しい家族”との生活は、夏休みと共に始まった。
睦美は両親に嫌われないよう静かにしていた。
追い出されたら戻る場所がない――という現実は、想像以上の緊張感だった。
両親のどちらかは……、またはどちらも、本当の親ではないだろうことは、会う前から察しがついていた。
もっともらしい祖父母の作り話に頷いていても、山ほどの矛盾からは目の逸らしようがなかった。
『双子の妹がいる』と言われてすぐ、『役所に届けたとき誕生日を間違えて書いた』と苦しい言い訳をされ、はたしてそれを信じる人間などいるだろうか。
そもそも母として聞かされていた名は実李。なのに今度の母の名は李加だ。突っ込めば誤魔化しがきかないことぐらい、子供でも分かる。
……それでも、睦美はすべての疑心を呑み込んだ。
おそらく祖父母も、心の奥底では睦美が騙されていないことを知っている。だが押し切ってしまいたい――という切迫した気持ちが、睦美を黙らせていた。
新しい母は、数少ない写真の中の母にそっくりだった。
時々祖父母たちの会話に出てきた『あんな子』に違いない、と思った。
「あんな子に育てた私たちの責任だから……」
「実李と同じように育てたはずなのにどうしてあんな子になってしまったのか……」
「縁を切った人間の話はもうやめよう……」
睦美が小学生になると祖父母の会話から『あんな子』が消えた。同時に睦美の出生について愚痴ることも嘆くこともなくなった。睦美が分別のつく年齢になったことを意識したのだろう。
だが本気で隠したかったのなら睦美が幼いという理由だけに安心してはいけなかった。小学生になる前の睦美も、祖父母の放った言葉をすべて正しく覚えていたのだから。
「今まで一緒に暮らせなくてごめんね」
母親の謝罪には罪悪感がなかった。
「困ったことがあれば遠慮なく言うんだよ」
代わりに、父親のそれには後ろめたさがあった。
……ああ、私の本当の親はこっちか。
誰に聞かずとも、睦美はだいたいの事情を察した。自分の本当の母親は、今度の母親の姉か妹なのだろうと。
睦美は礼儀正しく頭を下げた。
両親の横から妹(麦)が飛び出してきた。
「はじめまして、お姉ちゃん! 私は麦だよ!」
「……」
笑顔いっぱいの出迎えに面食らった。と同時に、親がいない卑屈さの中で育った自分との違いをみせつけられ身の置き場がなかった。だが、紛れもなく血が繋がっているだろう自分と似た顔の妹を心底嫌うことは出来ず、毎日懲りずに向き合ってくれるただひとりの人間に少しずつ心を開いていた。
……麦ちゃんにも頼ってもらいたいな。
自分ばかりが分け与えられていることがもどかしかった。
……私が“お姉ちゃん”なのに、麦ちゃんがいなきゃ何もできない。
そんな時、麦が木から落ちた。
睦美に手を伸ばした状態で地面に叩きつけられ、麦は数十秒気を失った。睦美は必死に揺り動かした。
「麦ちゃんっ、麦ちゃんっ」
こんなことなら、ためらわずに木に登ればよかった……。『病気だった』という自分の設定を知って、気を利かせたばっかりに……。
「どうしよう……、どうしようっ」
死んでしまった――と思った。自分が下敷きになればよかった、生きてても誰も喜ばない自分が死ねばよかった、心からそう思い泣き崩れた。
「っう、うぅ……」
小さな呻き声が聞こえた。
「っ!」
睦美は咄嗟に、地面に伏した。取り乱し涙でぐちゃぐちゃになった顔が恥ずかしかったのもあるが、“自分が犠牲になりたかった”という想いが願いへと早変わりした。
意識を取り戻した麦は痛みに悲鳴を上げながら、睦美を助けるために通りへ向かって這いだした。遠ざかる麦を薄目を開けてみつめながら、胸がいっぱいになった。麦が生きていて本当によかった――麦が妹で、よかった――。あの家で自分に真っ直ぐに笑いかけてくれるただひとりの、優しくて強い、妹――。
だが麦は、助けを求めた大人に抱きかかえられあっという間に視界から消えた。
「……」
睦美はしばらく地面の上で横たわり――、足音ひとつしなくなった世界でむくりと身を起こした。
家に戻ると誰もいなかった。
そうして夜になっても、朝になっても、誰も戻ってこなかった。
*
碧が過去を懐かしがり、麦との思い出を口にする毎に、睦美の記憶も当時に飛んだ。
生まれてから惨めじゃなかったことがない少女は、あの日一度死に憎しみを携えて生き返った。
先に裏切ったのは麦だ!
麦が憎い! 憎くてたまらない!
それに――
同じ姉妹なのに自分だけが生まれた瞬間から歓迎されなかった。否定され続けた。
――そんな不公平があっていいはずがない。
手始めに、麦が手にしていた絶対的な安心と平和な日常を根こそぎすべて奪って自分のものにすると決めた。そうすれば他人に愛を分け与えてあげようなんて思い上がった性根も直るはずだから。
「――アオくん、いっぱい頑張ったんだね、えらいね」
碧からの「今までお互いがどうしていたか教え合おう」という提案をさりげなく受け流し賞賛を浴びせ続けた。
「誰でもが耐えられることじゃないと思う」
何度も手術を乗り越えたという話に涙を潤ませる。
「それにこっちの大学に編入するなんて、すごいよ」
動物学についての学びを深めたいのだと聞き、唇の前で両手を組む。
「そっかあ、将来は獣医さんかあ」
すでにアニマルセラピーの資格をいくつか取得していることに尊敬の眼差しを向ける。
「むーちゃんも犬派だったよね」
「犬は可愛いもんね」
睦美はにこにこする。
麦が犬好きだなんて初めて聞くが、以前の麦がどんな人間だったのかうっすらとしか思い出せないのだから仕方がない。
「むーちゃん、いちごパイは食べないの?」
「え?」
「今フェアやってるって、ここに書いてある」
碧が指したメニューに視線を向ける。
麦はいちごが好きだったのだろうか? 睦美は素早く記憶を辿る。
「えっと、ダイエット中だし私は遠慮しておくね。アオくん、食べる? 注文しようか?」
面倒になりはぐらかした。
麦の嗜好にも感情にも興味がない。子供の頃にいちごが好きだったにしても大人になり変わることもあるだろう。もし突っ込まれたらそう言えばいい。
「むーちゃんにダイエットなんて必要ないんじゃないかな」
「そんなことないよ。油断するとすぐ太っちゃう」
こういうと大抵の男は「ちょっとぐらい太ってた方が可愛いよ。俺はむーちゃんが太っても気にしないよ」などと言ってくる。案の定、碧も似たようなことを口にした。
*
「むーちゃん、また会えるよね?」
別れ際、ファミレスの前で碧が切ない声色を向けてきた。
「もちろん! 私も会いたい……あ、でもね」
「どうしたの?」
「しばらくは私たちのこと誰にも話さないでほしいの」
「誰にもって、れいちゃんにも?」
「うん」
視線を地面に落とす。
「手紙……無視しちゃったから気まずくて」
「どうして無視したか、聞いてもいい?」
「いつか、打ち明けるよ……」
困惑している碧の手を取る。
ほろりと涙が零れた。
ここぞという時に泣けるのは睦美の特技でもあった。
加えて、親のために先回りして演じ始めた病弱な設定も、睦美の“儚げ”な印象を下支えした。
「いつか必ず理由を話すから」
睦美は碧を見上げた。
「今は私を信じて、会ったことも内緒にしてほしい。じゃないと私、私……」
「むーちゃん……」
麦のふりをした台本ならすでに頭の中で書き終えた。
――『麦は、ある日突然現れた睦美(双子の姉)に醜い嫉妬をぶつけた』。
掴みはこれまで同様、周囲にこっそり打ち明けてきたものと同じでいいだろう。
麦の評価を落としてから――『今の麦を見て幻滅してほしくなかった』と優しい姉の立場から弁明しよう。そして『麦のふりをすれば碧の大切な思い出を守れると考えた』と切々と訴え、泣こう――。完璧だ。
「約束、してくれる? 今日私に会ったことは誰にも言わないって」
碧を見上げる。
カラーレンズの目元に懇願する。
「お願い」
「……」
碧が肩を下げた。
「わかったよ。だから泣かないで」
流れてきた涙を指先で拭われた。
「……」
指の冷たさになぜだか、ゾクリとした。
この冷たさが、いつか激しい熱を発して自分に向かってくることを想像すると気分が高ぶった。
……この男、絶対に手に入れよう
演じ切ってほっとした、その一瞬に入り込んだ衝動は“ときめき”に似ていた。
【睦美視点終わり】
