* *
自宅への帰り道の途中、立ち止まってスマホを開いている男がいた。
睦美は好奇心からその姿を目で追った。
ベージュの春コートに細身のテーパードパンツ、ウェーブのついた髪は春嵐で流れている。その髪をかき上げ、男が振り返ろうとした。
睦美は不自然にならないよう俯き、その横を通り過ぎた。
一瞬見えた眼鏡の横顔が綺麗で出会いをふいにしたことを少し後悔し、いや――これ以上遊ぶ男を増やすと面倒だ、と思い直す。さっきも睦美を巡って男たちが言い争いをしたばかりだった。
……まあ、退屈よりはマシだけどね
睦美は肩をすくめ、ゆるく巻いた長い髪を後ろ手で束ね片側に下ろした。
「むーちゃん?」
家の門扉に手を掛けると、後ろから呼び止められた。
「!」
睦美は反射的に振り向いた。さっきの、横顔の綺麗な男だ。
「よかった、会えた……」
近寄ってきた男を見上げた。
「――むーちゃんだよ、ね?」
「そうですが、誰ですか?」
睦美は目を細め眼鏡の奥を探った。ブルーのカラーレンズが邪魔をして肝心の目元が見え難い。
「俺のこと忘れちゃったか……まあ、そうだよな、返事こなかったし」
「?」
「碧――って名乗っても、覚えてないのかな」
湿った声が色っぽくて、耳を澄ましたくなる。
「約束したろ? 大人になったら会おうって」
「……」
睦美は顎に手を当てて記憶を辿った。『大人になったら』ということは子供の頃に出会って離れたということだ。転校していった友達?
だが思い出せなかった。
「俺のすぐ後にれいちゃんも引っ越したって後から知ったんだ」
『れいちゃん』という馴染みのない名前に違和感を抱き、続けて男が口にした『引っ越し』という単語に記憶が引き出された。
「ごめん……、残された方は、寂しいよな」
「……」
ああ……、あれ、か。
睦美はようやくすべてを繋げた。
「もしかしてアオくん?」
睦美は驚いたふりで両手を口元にあてた。
この家に来る前、妹の麦には特別に親しくしていた友達がいた。ひとりは病気を治すためにアメリカへ渡り、もうひとりもその後すぐに引っ越した。
そういえば、しばらく手紙やハガキが届いていた。抜き取って捨てていたため麦には渡っていないが。
……ふーん、この男、ずっと大事にしてきたんだ? 麦との約束を――
「会いに来てくれて、嬉しい」
面白くない気分を隠し、睦美は目をキラキラさせる。
当時の麦はお節介でお喋りで、猿のように高いところに登りたがる無駄に元気な女の子だった。突然現れた双子の姉に『自分の持っているものは全部分けてあげる』とでも言わんばかりに真っ直ぐな使命感を向けてきた。うっとおしくてたまらなかった。
……いいこと思いついた。
睦美はニヤリ、とする。
……麦がバイトなんか始めたから退屈してたんだよね。
「目、治ったんだね。良かった」
碧の正面でつま先立ちになり両手を伸ばした。
麦から聞かされたことや手紙の内容を必死に思い出して口にする。
「アメリカでの暮らしはどうだった?」
「あ、えっと」
動揺した碧の、赤みがさした頬に手応えを感じ、さらに顔を近づける。その目元に手を伸ばし、純真さを装って眼鏡の奥を覗き込んだ。
「ちゃんと見えてるんだね、アオくん」
「――う、ん。見えてるよ」
「本当に良かった……あ、ごめん」
睦美はついにその頬に触れた。そうしておいて、咄嗟に触れてしまったことを恥じるように慌てて離れた。――やりすぎると、良くない。
固まっていた碧の体が数秒かけて弛緩する。睦美が触っていた頬を名残惜しそうに指でなぞったのは無意識だろう。
「今までのこと、いろいろと教えてくれる?」
睦美ははにかみながら門扉から手を離した。
*
来た道を戻り、大通りに出てファミレスへ入った。
「この辺はあんまり変わらないような」
碧は風景や建物を懐かしがった。
「このファミレスも親と一緒に来たことがあるけど、記憶のままだよ」
睦美は閉じた唇のまま微笑む。
碧の視力については、いつ頃までどの程度見えていたのか、麦なら知っているだろう。だが当然、睦美は知らない。当時麦から聞かされた気もするが、どうでもいい細かいことはさすがに覚えていない。
「あの頃、母さんが買いに行ってたケーキ屋さんはまだある?」
「……」
墓穴を掘らないよう、微笑んで頷くにとどめる。
「っていうか、むーちゃんがすごく大人っぽくて、なんか調子狂う……」
懐かしさで胸がいっぱいで会話もままならない――という表情で碧をみつめ続けたからか、碧は照れ隠しに首筋を掻いている。
「そうかな。自分ではよく分からなくて」
睦美は小さく首を振りながら、唇を窄める。
しばらくは碧に、自分を麦だと勘違いさせておこう――とほくそ笑む。その間にもっと親密になって、碧の身も心も奪ってから、麦に明かしてやろう。
当然、碧には麦のふりをしていたことがバレてしまうが、自分に夢中にさせた後ならどうとでもなる。――そう、これまで同様『陰険で陰湿な妹を庇う姉』を演じ、その後は罪悪感を理由に振ってしまえばいい。「そんな小さなことなんてどうでもいい。俺が好きなのは君なんだ」と縋りつく碧を、麦にたっぷりとみせつけてやろう。
……ああ、早く麦を傷つけたい。
麦が卑屈になればなるほど、睦美の心に積もり続けるざらついたものが消えてくれるのだった。
「あの頃、むーちゃんとれいちゃんがたくさん本読んでくれたよね。俺、何冊かまだ持ってるよ」
「そっかあ」
睦美は相槌を打った。
「『おじいさんとおばあさんと、金魚鉢』ってタイトルの本、覚えてる?」
「うん」
「あの頃のふたりには読めなかった漢字があったでしょ」
「そうだったね」
「だけどなんとか頑張って読もうとしたんだね? 自分で読めるようになって捲ってみたら、俺、全然違う意味で覚えてて、笑ったよ」
「うふふ」
睦美は上の空で微笑む。
碧が口にした本のタイトルから、睦美の意識は引きずり込まれるように祖父母との日々を回想し始める。
――新しい家族が迎えに来た日、それは睦美が祖父母に捨てられた日だ。
睦美は、祖父母から『生まれてこなければよかったのに』と言われながら育った。
幼い睦美には言葉の意味が理解できないと思っていたのか、世話をしながら、遊ばせながら、ふたりは日常的に嘆いていた。
ある日、祖父母から「もう一緒に暮らすことはできない」と告げられた。
「どうして? むつみがこのまえ、はしったから?」
その数日前、水族館へ行った。
行楽地へ出掛けることは珍しく、嬉しくてあっちへこっちへと祖父母の手を引いた。睦美にとっては楽しい一日だったが帰宅後、高齢の祖父母は疲労から寝込んでしまった。
「もうあそびにつれていってなんて、いわないから」
睦美は涙ながらに訴えた。
祖父母の言動が常に睦美の存在意義を揺るがすとしても、ふたりがいなくなれば自分は生きていけない。
「睦美は、これから家族と暮らすんだよ」
祖父母の表情はいつになくすっきりして見えた。
「むつみのかぞくはおじいちゃんとおばあちゃんだよ?」
「睦美にはお父さんとお母さんと、双子の妹がいるんだよ」
「……」
両親は『事故で死んだ』と聞かされていた。それが突然、親は生きていて、双子の妹まで存在している? 意味がわからない。
「このままおじいちゃんとおばあちゃんといっしょにくらしちゃだめなの? むつみ、いい子にするよ」
睦美は懇願した。
「おばあちゃんたちはね、この家を売って老人ホームに入ることにしたんだよ」
「じゃあ、むつみはどこでくらすの? むつみ、ここからはなれたくないよ、ここがいい!」
「睦美っ、そんなことはこの先、絶対に口にしちゃいけないからね」
ひどく神経質な声に咎められた。
「つらくても逆らったり我儘を言っちゃだめだよ」
「でもっ」
「おとなしく良い子にしていたら追い出されないからね」
「いやだよっ」
睦美が何を言っても、祖父母の決意が変わることはなかった。
