Silent Summer ~姉に初恋を奪われた~




 睦美がのろのろと階段を上がって部屋へ戻ると、父が私の手を取った。
 その不器用な両手は大きくて、遠慮気味だった。 

「パパは後悔している――麦、ごめんな」
 父を見上げた。父の目は真っ赤になった。
「パパがもっと強かったら、睦美を引き取ったりしなかった。麦を長い間、こんなに苦しめることになるならパパが悪者になればよかった――」
「あなた……」
 母が泣きながら父の背中を擦っている。

「さっきの話、どういうことなの? パパは、ママを裏切ってたわけじゃなかったってこと?」
 父と母が互いの顔を見た。
 そこには苦悩だけがあった。
「長くなるけど聞いてくれる? もう家族で隠し事はしない――したくないの」
 母の言葉に、父も苦し気に目を伏せて頷いた。
 
 私たちはダイニングテーブルに座った。
 母がぽつぽつと話してくれた過去は重くて惨めで、私の心も悲しみに沈んでいった。
 
「故郷には、ママの味方はいなかったの。友達も親も、みんな姉の言葉を信じたから。ママは看護師になってようやく自分を取り戻せたの、そこでパパと出会ったの」
「麦、パパは、ママ以外の女の人を好きになったことはないよ」
 ……知ってる。パパにとってママは初恋の人で、その初恋を実らせて結婚したって、睦美が来る前はずっと言ってたよね

「ママが悪かったの……ママが勇気を出せば……。双子の姉がいることをパパにも隠したからこんなことに」
 ……ママの気持ちわかるよ、だって私も睦美のことずっとふたりに言えなかった
「私の親はパパのことを『姉の婚約者』だと思ってる。ママが、姉からパパを奪って結婚したって……信じたまま」

「……」
 ……そういうことか
 私はぎゅうっと、目を閉じた。
 だから睦美を引き取らなきゃいけなかったんだ……
 
「世間体を気にしたパパが一番悪いんだ」
 父は重い頭を片手で支えながら絞り出すように言った。
「麦に嫌われることが怖かったし、自分たちや麦が周りになんて言われるかと――視野が狭くなっていた」
「……」
 ……それで、誕生日も違うのに睦美と私を双子だなんてことにしたんだ
 すべてが繋がって、ようやく私はこの長い長い疑問と不信の迷路から抜け出せた気がした。

「これから、取り戻そう?」
 私は提案した。
 両親がどれほど傷つき悩み、人生が変わってしまったのかを知って、わだかまりは再生へと形を変えていた。
「私、パパとママと一緒にご飯食べたり、出掛けたりしたいんだ」
 ずっと睦美が羨ましかった。
 仲良し親子を見せつけられるたびに孤独に沈んできた。
「それに、また、じいじとばあばに会いたい」
 父の祖父母とはいつからか会えなくなった。
 事情が分かれば理由も想像できた。睦美と会わせないためだ。
「そうだな、いつもパパかママだけで行ってたからな、次の休みに三人で行こうか」
「行こう!」
「あ、でも麦……」
 母が上目遣いになった。
「麦を連れてこない理由を反抗期にしてるのよ、ごめんね」
「あはは! じゃあ、ここからは『更生後』でいくね」
 もうなんでもよいや、と思った。
 
 ――結局、睦美の話はしなかった。
 そのことが唯一、これ以上睦美を憎まない方法であるかのように、私たちはこれからの三人家族の未来だけを語った。


 次の日、午前中の早い時間に引っ越し業者のトラックがやってきた。
 業者が荷造りをすべてやってくれるパックらしく、手伝うことはなにもなかった。
 睦美はずっと不貞腐れたように黙っていた。
 だから私も、黙っていた。

「これがアパートの住所だ」
 睦美の持ち物のすべてが家の中から消えると、父が一枚の紙と鍵を睦美に渡した。
「……」
 睦美はまだ父がなにか言ってくれると思っているようで、じっとしていた。

「ねえ」
 私は代わりに話しかけた。
 睦美がぎろり、と私を見た。
 もう両親の前でも私への悪態を隠さないことにしたようだ。
 睦美の目の前まで行って、手のひらを上に向けた。
「アオくんとれいちゃんからの手紙、返して」
 証拠はない。
 けれど断定してぶつけた。
 睦美は一瞬狼狽えたが、すぐに太々しい態度に戻り歪めた頬で笑った。
「そんなのとっくに捨てたわ」
 ……。
 ああ、やっぱり犯人は睦美だったんだ。
 私の大切な思い出を、友情を、初恋を、奪ったのは。

「そう」
 私は、短く言うに止めた。
 睦美が小さく唇を動かした。
「――あんたが幸せになる世界がこないよう、もっと壊しておくんだった」
「……」
 その呪いのような声は、辛うじて私の耳にだけ届いた。
 睦美の唇が再び動き始めたが、私は声を高くした。
「じゃあね。見送らないけど」
 私はさっぱりと明るく言って、睦美に背中を向けた。
 ……もうあなたの言葉はなにひとつ聞いてやらない
 
 私はきっと睦美を許さないだろう。

 ただ、もしもそのことを誰かに咎められたら――
 たくさん幸せになってから考える、と答えるだろう。  
 

 私の目の端で、睦美が自分のバッグを乱暴に掴んで、近くにあるダイニングテーブルに叩きつけた。
 そのままずかずかと音を立てて玄関の方へ歩いていく。
 父にも母にも、もちろん私にも“最後の挨拶”はなかった。

「あの子……、最後まで麦に謝らないで」
 母が尖った声を床に落とした。
「……」
 父も難しい顔をしている。
 私は、そっと吐息を漏らす。
 自分たちだって、今まで育ててくれてありがとう、と言われてないじゃん…… 

「――そうだ! パパ、ママ、うどん食べたくない?」
 私は日常を提示する。 
 これまで睦美とその母親に踏みにじられてきた『私の家族』。
 ここからは一秒だって操られるものか。
 
「琴乃のうどん、めっちゃ美味しいんだ!」

「――そうか、じゃあ、行こうか」
「行きましょう!」
 
 私はふたりの腕を取った。
 もう後悔に暮れたりしない。
 私たちが幸せになることが、唯一の復讐だ。