帰宅すると、母と睦美がリビングで私の帰りを待っていた。
「……ただいま」
私は睦美の顔色を窺いながら、小さく言った。
親の前では言葉数少なく不機嫌でいること――それも睦美が決めたルールだった。
「こんなに遅くなるなんて、だめよ。女の子なんだから」
「……」
心配する母に、私はぷい、っと横を向き無言で階段を上がった。
部屋に戻ると、すぐに睦美が追いかけてきた。
「なんでこんなに遅かったの?」
「あ、うん、ちょっと説明聞いたり、質問したりしてて」
「たかが皿洗いなのに、なにがそんなに難しいの?」
「決まり事が多くて、なかなか、覚えられなくて」
充実した一日が心地良い疲労感を連れてくる。私は俯いたまま、小声で嘘の言い訳をした。睦美は顎の先に手を当てて私を見ていた。
「……」
楽しかった――つかのまの“自由”にほっとしていた――そんな心の中を一瞬でも覗かれないよう、睦美の視線が離れるまでじっとしていた。
「あのさ、麦ちゃん。私のために働くって言うけど、大変だったらすぐに辞めてもいいんだよ」
この言葉だけを聞けば『妹を心配している優しい姉』に思える。
「私の傷痕のために無理しないでよね。私は一生このままだって構わないんだから」
「……」
睦美は傷痕と引き換えに、私を永遠の“罪人”にしておきたい。それほどまでに私を憎んでいるのだ。
「むーちゃん……、ごめんね」
何万回も謝った。いつだって本心だった。だけどそれが何になるというのだろう。どんなに心を込めても、伝わらなければ意味がない。
「おやすみ。また明日」
受け入れてくれない睦美を詰る資格は、加害者の私にはない。
「……おやすみ、むーちゃん」
振り返らない背中にそっと返した。
*
あれから、時間が許す限りアルバイトを入れた。
お金を稼ぐことも重要だが、自分を知らない、外の世界の人たちとの一時が心地良く、なにより麗と会えることが楽しみだった。
「お疲れさま」
麗は、他の店舗で仕事をした後も必ず顔を出してくれた。厨房に人が足りないときは並んで皿を洗ってくれ、片づけをしてくれる。
「日曜日なのに入ってもらってよかったの? 昨日も働いてもらったのに」
「うん。休日は暇だし」
「大学生は恋にサークルに大忙しじゃないの?」
「まあ、そういう人もいるだろうけど」
睦美を脳裏に描いて言う。
「むーちゃんは違うの? 似合いそうだけどね」
「わ、私が?」
「再会の日も思ったけど、わざと地味にしてるよね。モテるの煩わしいとか、そういう感じ?」
おもいっきり首を横に振った。
麗の、私への評価が高すぎて身の置き場がない。
「あっ、そうだ。思い出した!」
「な、なに」
話題が変わってほっとした。
「アオくんのこと覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ」
私は即答した。
近所に住んでいた私たちより少し年上の幼なじみだ。事故に遭い目の視力が低下し続けていて、ぼんやりとした視界の中、音を頼りに過ごしていた。
「『碧くん』で、アオくん。アオくんのお母さんが『アオ』って呼んでたんだよね」
「そうだっけ? むーちゃん、記憶力いいねえ。私は毎回ケーキが美味しかったって思い出しかないよ」
「あはは」
碧との出会いは、彼の母親によるものだった。家の前で『うちにも小学生の男の子がいるのよ、ケーキがあるの、食べていかない?』と声を掛けられた。
――「ケーキだって、どうする?」
知らない家に入ってはいけないことぐらい分かっていた。だが私と麗は食いしん坊だった。それに、見上げる窓辺にいつも男の子がぼんやりしていたことにも気づいていた。
しばらく経ってから碧の母親が話してくれた。
家から出られない息子のために友達を作ってあげたくて近所に住む男の子たちを何人か招き入れたと。けれどケーキで釣っても食べ終えればソワソワしはじめる。息子の話し相手に――という思惑は空回りしてばかりだった。そんな時、外を歩く私と麗に目が留まったらしい。数日悩んで声を掛けたのだと、教えてくれた。
「アメリカに手術しに行ったんだよね」
日本ではできない手術で、最終的には家と土地を売りアメリカへ渡ったのだ。
「元気かなあ」
麗のこと同様、彼のことも忘れたことはない。三人で過ごした幼い頃の日々は私にとって最も幸せな記憶だったから。
「むーちゃん、アオくんにプロポーズされてたよね」
「あの会話にそんな意味はなかったと思うけど」
「いや、そういう意味しかなかったでしょ。むーちゃんの手を握って『大人になったらまた会おう』って」
「そ、それは、そうだけど」
生まれて初めて胸がきゅうっと締め付けられた初恋の記憶は、今もはっきりと取り出せる。
「アオくんね、こっちに戻ってきてるよ」
「えっ?」
懐かしさに浸かったまま、私は現実に戻った。
仕事中だということも忘れ、皿洗いの手を止めて麗に向き直っていた。麗は私が出しっぱなしにしていた水道の蛇口を笑いながら止めた。
「何度か手術をして、今は日常生活が送れるようになってるよ」
「……手術成功してよかった。ずっと心配してたんだ」
胸に手を当てて心から言った。
「しばらく音沙汰なかったけど、少し前に連絡きてね、東京の大学に編入するとかどうとか」
「……」
麗には近況を報告していたと知り寂しさは隠せなかったが、碧の目が見えるようになったことが嬉しかった。
「れいちゃんもアオくんも、私にとって本当に大切な存在だったからさ」
ふたりが元気だったならいい――そう思い直し、複雑な感情に蓋をした。
麗が考え込むような顔をした。
「あのさあ、もしかしてと思ったんだけど」
「うん?」
「うちらの手紙って届いてた?」
「?」
一瞬、意味が分からなかった。
「私は中学の途中まで手紙も年賀状もしつこく出してたし、そこに一方的な報告とか書いてて、だから『琴乃』って店名から察してむーちゃんがバイトにきてくれたんだなって思ってたんだよね。けど違うみたいだし」
「え……」
「アオくんも、お母さんの代筆でむーちゃんに何度も手紙出したって聞いたけど」
「!」
動揺のまま、青褪めた。
「私、知らない。……ふたりから、手紙が届いたことない。ほんと、だもの」
唇が勝手に訴える。
「れいちゃんからもアオくんからも手紙が届くのずっと待ってた。でも来なかったから……」
今日まで、ふたりには忘れられてしまったと思い込んで生きてきた。それでも、大切な思い出として胸に抱いて生きてきた。
「そっかあ」
麗は斜め上を見ながら唸った。
「アオくんがさ、私たちが時間差で引っ越して行っちゃったからむーちゃんは寂しくて、で、怒って返事くれないんじゃないかって言っててさ」
「そんなこと! もちろん寂しかったけどでも怒るとか、そんなのありえないよ」
麗が難しい顔をした。
「そうなると考えられるのは、家族がわざと手紙を渡さなかった、ってあたりかな」
「……」
「むーちゃんの親、お医者さんだし、娘の付き合う友達を選びたかったのかもしれないよ」
「そんなはずない。うちの親は私のことはあきらめ……」
「お願いしまーす」という声と共にシンクの中に洗い物が追加された。
麗がてきぱきと捌きはじめ、私も我に返る。
「……」
そこからは無言で仕事をした。けれど頭の中はぐるぐる――、疑心暗鬼な感情が渦を巻き、仕事に集中できなかった。
勤務時間が終わり、麗に「お疲れ様」と労われた。
私は笑おうとしたけれど、意識したら涙が滲んできた。
「こうして再会できたし、いいよいいよ」
「うん。――そう、だね」
私は、不格好だろう笑顔で頷く。
今更悔いても嘆いても、失った時間は戻らない。
「誤解も解けたし、これでアオくんとも会えるね」
「あ、でも、……怒って、ないかな」
「それを心配してるのはアオくんの方だろうけど、とりあえず事情も事情だから私から経緯説明しとくよ」
麗の提案にほっとしながらも、細い息が勝手に漏れた。
……もう私のことはどうでもいいって、思ってないかな、
会いたい気持ちと不安とでは、不安の方が大きかった。
……どうかアオくんの迷惑になりませんように。
心の中で祈った。
