*
「……ただいま」
「おかえり。今日は睦美が遅いから、お風呂入っちゃいなさい」
いつものように母の言葉を背中で受け止め、はっとした。
睦美がいないなら母と話せる。
「どうかしたの?」
「……」
けれど母と向き合うと、途端に喉が閉じたようになった。
父も母も甘え上手で華やかな睦美には目尻を下げる。陰気で無口な私には眉を顰める。
そのことに私がどれだけ傷ついているか、どうか気づいてと、睦美に隠れていつも信号を送ってきた。だけど、両親が私の願いを受け止めてくれたことはなかった。
「なんでも、ない」
素直になれなかった。
踵を返すと、後ろから深い溜息が聞こえてきた。
私は唇を噛んで、階段を駆け上がった。
*
……。
浴槽の中で膝を抱える。
……やっぱりさっき、聞けばよかったな。
せっかく母とふたりだったのに、抑圧された劣等意識でチャンスを逃してしまった。
麗と碧の手紙はどこにいったのか、なぜ私に渡してくれなかったのか、考えれば考えるほど悶々としてしまう。
……私の大切な友達だってこと、知ってたはずなのに。
遠い記憶を引っ張り出す。
碧が小5の春に、麗が小4の夏に、それぞれ引っ越していくまで、私たちは毎日のように一緒に過ごしていた。
お互いの親が顔を合わせた時の、和やかな空気を覚えている。決して子供の交友関係に不満があるという態度ではなかった。――けれど現実に、麗と碧が送ってくれた手紙は私の元に来ていない。
あああ。
湯舟の湯を顔にばしゃばしゃとかけた。
考えても、親の真意が分からなかった。
……でも、よかった。
私は泣きそうになる。
……れいちゃんにもアオくんにも、忘れられてたわけじゃなかった
ふたりは私が私らしく過ごせていた頃の最後の友人だった。碧が海を越え、続いて麗との別れが来て、入れ違うようにして睦美が現れた。
++
――「実はね、麦には双子のお姉ちゃんがいるのよ」
「ええっ?」
両親からの衝撃の告白に、目の玉がでんぐり返った。
「病気でね、空気のきれいなところじゃないと治らないからって、今までおじいちゃんとおばあちゃんが育ててくれていたの」
母の言葉の響きから、いつも自分を可愛がってくれるじいじとばあばのことではないと察した。
「ママの、お父さんとお母さん?」
「そうよ」
母方の祖父母はとても遠くに住んでいて会えないのだと聞かされていた。
「睦美ちゃ――、麦のお姉ちゃんの名前は睦美っていうのよ」
「……う、うん」
「睦美ちゃんの病気も治って、今度は一緒に暮らせることになったの。麦、今まで会えなかった分、お姉ちゃんと仲良くしてね」
「……う、うん」
なぜ今まで隠されてきたのか、なぜ今まで会えなかったのか、聞きたいことはたくさんあった。けれど言葉を呑み込んだ。衝撃が強すぎたせいもあるが、両親からただならぬ緊張が伝わってきたのだ。突っ込んではいけない――そう思わせる空気があった。
夏休みに入ってすぐ睦美と対面した。
鏡を覗き込んだような自分そっくりの顔が不思議で、くすぐったい気持ちになった。
「はじめまして、むつみお姉ちゃん! 私は麦だよ!」
両親に言われていた通り、率先して睦美に近づいた。
だが警戒心をまとった睦美はなかなか笑ってくれなかった。
「……」
黙ったままの睦美に不安になり、私は両親を見上げた。
「……やっと四人家族になれて良かった」
「……心配はいらないよ」
両親も、言葉と表情が噛み合っていなかった。
「――麦、睦美お姉ちゃんと遊んでらっしゃい」
「――麦がいろいろ教えてあげて」
「――睦美お姉ちゃんも連れて行くのよ」
両親から日に何度も睦美を託され、私の生活は睦美中心になっていった。
私はひっきりなしに話しかけた。けれど睦美は閉じた口元で静かに笑うばかりだった。
睦美と早く仲良くなりたくて、家族のこと学校のこと友達のこと、近所のこと、私自身のこと――、大切なことから些細なことまで目についたもの思いついたものを言葉にし続けた。
そんな日々が続き、夏休みも残り数日となったあの日――
私たちは丘の上の広場で遊んでいた。
「あの……、あぶないから、下りた方が」
「むつみちゃんもおいでよ。足、ひっかけるところあるでしょ」
私は登った木の上から手を振った。
ようやく口をきいてくれるようになっても、睦美は変わらず思いつめたような遠慮するような、神経質な表情を向けていた。
「そんなに高くないよ。遠くまで見えてきもちいいよ!」
睦美に早く打ち解けてほしい、その一心だった。私は睦美に手を差し出した。
「ここにすわれるよ。太い木だからだいじょうぶ! さあ」
麗とよく並んで座った特別な場所を睦美に教えてあげるのだと、なぜなら君は私のお姉ちゃんだから――、そんな風に、私は私の世界を、私の手の中にある大切なものを残らず睦美にひらいて与え続けた。
「あっ!」
躊躇する睦美に必死に手を伸ばしたせいかバランスを崩した。
一瞬の出来事だった。落ちる――っ!
思わず目をつぶった。地面に叩きつけられた音が先か、痛みがきたのが先か、とにかくこれまでに経験したことのない衝撃が体を襲った。
どのくらいの時間、気を失っていたのかは分からない。次に私の意識が動いた時、倒れている睦美が目に入った。
「むつみちゃんっ、いたっ――」
慌てて動いた瞬間、体中がズキズキズキズキと波打ちあまりの激痛に勝手に涙が出てきた。
「いたいっ、いたいようっ」
私は泣きながらも睦美に向かって這った。
「むつみちゃ、ん、どうしたの、むつみ、ちゃん」
睦美を揺り動かそうとしたが両手に力が入らなかった。
「ま、待って、て、だれか、呼んでく、る」
火が付いたような全身の痛みに悲鳴を上げながら私は必死に這った。人がいる方へ、とにかく這った。
「たすけてくだっ、さいっ、あっち――あ、っち」
私は泣きながら助けを求めた。誰かが駆け寄ってきた気配があった。知っている顔だった。
「麦ちゃんっ? どうしたのっ?」
――よかった、助けを呼べた……
その安堵と強烈な痛みとで私は気を失い、目が覚めたら病院のベッドの上にいた。
――はっ、と息を吸った。
「麦! 気がついた?」
すぐ近くに母がいた。
「もうっ、心配したんだからね。“おてんば”はたいがいにしてよ」
私は全身打撲だった。幸い骨折も怪我もしていなかったという。
きょろきょろしていると母が気を利かせて言った。
「パパは夜勤だからあとから来るからね」
「ママ……むつみちゃんは?」
「大丈夫よ、お家にいるから」
「え? むつみちゃんはけがしなかったの」
「木登りして落ちたのは麦でしょう?」
「……そっか。……そうだよね」
強い痛み止め薬のせいか頭が朦朧としていた。睦美が倒れていたのは自分の勘違いだったのかもしれない、それとも夢を見ていたのだろうか、どちらにしても睦美に怪我がなくてよかった――そんな風に安心して、私は数日後に退院した。
「むつみちゃん、ただいま!」
帰宅してすぐに睦美の部屋をノックした。心配していると思ったのだ。
「入るよ」
ドアを開けると部屋の中が薄暗かった。閉め切ったカーテンのせいだった。
「どうしたの? ……むつみちゃん?」
睦美は軽蔑のこもった眼差しを向けてきた。
「私、落ちてきた麦ちゃんのしたじきになったんだよ」
「!」
睦美がよどみなく低い声で話すのを、この日初めて聞いた。
「麦ちゃんが私をみすててにげたから、私はあそこでずっとたおれたままだった」
「……うそ」
血の気が引いた。と同時にあの日の記憶の断片が戻ってきた。
「むつみちゃん、けがしたの? どこ? だいじょうぶなのっ?」
混乱していた。そんなこと母も言っていなかったのに……、でも睦美がそう言ってるんだから……、
「麦ちゃんが落ちてくるとき私の心ぞうを思いっきりけったの」
「心ぞうをっ?! パパ、お医者さんだからなおしてもらおうっ!」
図らずも引っ掻いたような自分の声で事の重大さに気づく。
「パパとママ、呼んでくるっ」
だが睦美に跳ね返された。
「やめて! そんなことしたら死んでやるから」
「えっ? 死ぬ、って、なんで……」
「めんどうな子って思われたくない私のきもちなんて、麦ちゃんにはわからないよ」
「……」
呻くような睦美を前に言葉が出なくなった。
「私、どうしたら、いい……?」
息苦しさのまま、答えを求めた。睦美は私を睨みつけながらてのひらで胸元を押さえた。
「つぐなって。このキズのせきにん取ってよ」
睦美が一瞬シャツをめくった。
「!」
薄暗くても、胸元には肌の色ではない赤黒い歪な何か――が、確かに見えた。
「ほんとうはこのキズ、麦ちゃんにあるはずだったんだからね」
「……あ、……ああ」
怖くなって、首を振った。言葉にならなかった。
「私が麦ちゃん、かばってあげて、なのに麦ちゃんにけられて、付いちゃったキズ」
「ごめ、ん……むつ、み、ちゃ、ごめ……」
呼吸が苦しく、言葉が途切れた。思わず床に手をついた。
「あやまらなくていいからつぐなって」
“つぐなう”ということがどういうことかも分からずに、私は四つん這いのまま、何度も謝った。
「だれかに言ったら、死んでやる」
睦美は恐ろしい形相のまま、まっすぐに私に指を向けた。
「そしたら、ひとごろしだからね」
「は――っ、は、――はっ……」
酸素がうまく吸えなくなった。
私はこの日の絶望を、一生忘れないだろう。
