「……あの子を、家から出すわ。そうすれば麦は安心できる」
麦の母が、重い声をテーブルに向かって吐き出した。
「……あ」
でも、それは今じゃなくて……
麗は焦りで目を泳がせた。
睦美を今断罪したら、麦の復讐計画はすべてが水の泡だ。
「むーちゃんママ、あの……」
「もちろん麦にきちんと謝らせて、二度と麦に近づかないよう、誓約書でもなんでも書かせて」
「でも……、それは……」
「なぜ」
麦の母はゆらゆらとした憎しみをその目に浮かべた。
「なぜ私たちの家で、麦が小さくなって暮らさないきゃいけないの、ずっと苦しめられてきた私の娘がっ」
「……」
興奮で声を荒げた母親を前に、怖気づきそうになる。
だが、介入を決めたのは自分だ。だから最後まで責任を持って伝えなければと、麗はぐっと顎を上げた。
「私も、むーちゃんにはこれ以上苦しんでほしくないです。でもむーちゃんは自分でけじめをつけないと前に進めないって、立ち上がったんです」
「……麦が?」
「むーちゃんは強いです。お姉さんの憎しみを受け止めて……、いろんな人に誤解されても、手術代を貯めようと頑張ってきて」
「……っ」
母親の目が赤く、充血してきた。
麗は、つられて泣きそうになり必死に堪える。
「あのっ、むーちゃんのやろうとしていること見届けてもらえませんか……? 私ともうひとり、アオくんっていう友達が、むーちゃんと一緒にいますっ」
麦の母が考えるように「アオ、くん……」とその名をなぞった。
「アオくんもむーちゃんの友達でした。あの頃、いつも三人で遊んでたんです」
「……もしかして、目の病気があった、子?」
「そうです! アメリカで手術をして……今はこっちに戻ってるんです」
事情は割愛し早口で教えた。
ここで碧の名前を売っておけば、ふたりが付き合うことになってもスムーズに進むかも――と、一瞬のうちに計算した。
「私たちがむーちゃんと一緒です! だからっ、もう少し――」
「……」
黙る麦の母に、麗は拝むように続けた。
「“金曜日”には決着がつくはずです。それまでは……」
実は、碧とも綿密な計画を立てている。
光里を紹介してくれたのは須賀ではなく碧だ。
合コンの幹事は当日まで須賀と光里に頼んだ。
碧は、睦美を『復讐の場所』へ連れていく役目を担い、当日は合コンの進行役をする。そして麗は、睦美が個室を離れる万が一に備え、すぐに碧に連絡できるよう出入り口付近の席で待機することになっている。
「――それなら、私はなにをすればいいの……?」
苦悩と悲痛が麦の母を覆っていた。
「罪滅ぼしがしたいのよ」
「……」
その息苦しさに、麗ももう限界だった。ぐすん、と指先で鼻を擦りながら告げた。
「むーちゃんは、お父さんのこと気にしてました。お父さんが、すべてを知っても自分の味方はしてくれないだろうって」
「!」
「むーちゃんママには、お父さんがむーちゃんの味方をしてくれるように、してもらえたらって……」
麦の母の目からまた涙が流れ出し、麗は最後まで言うことができなくなった。
「ううっ」
麦の母は両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いた。
……この席、空いててよかった
大きな観葉植物と柱が身を隠してくれる人気の席だった。
麗は小さく首を動かして、無関心な他の客の視線を確かめた。
しばらく泣いていた母親は、静かに頬の涙を拭って顔を上げた。
「――大丈夫、あの人が麦の味方をしないなんて、ありえないから」
「……」
言い切った声に心強さを感じて、麗は少し緊張を解いた。
「麦にそんな心配をさせていたなんて……皮肉ね、――れいちゃん、今見せてもらった動画、私に送ってもらえる?」
「あ、はいっ、今」
麗はすぐに操作した。
もともと麦はこの動画を母に見せたいと言っていた。だから問題ないはずだ。
……お父さんにも見せてくれるのかな
麗は期待と共に願った。
……これを見たら、むーちゃんの味方になってくれないかな
「れいちゃん、今日は本当にありがとう」
麦の母が静かに頭を下げた。
「麦を支えてくれて、ありがとう」
「いえっ、友達ですからっ」
「アオくんにもよろしく伝えてね。ふたりで家にも遊びに来てね」
「もちろんです、絶対行きますっ」
……全部終わったら――
心の中で付け加えた言葉を、麦の母も感じ取っていると確信できた。
「私と夫――麦の父親のことは心配しないで。今は麦のやりたいように……していいから、って……」
「むーちゃんに伝えます。『もうお母さんは味方だよ、安心して』ってちゃんと伝えます」
ありがとう、と麦の母は赤い目のまま小さく笑って、また頭を下げた。
外に出ると、泣いた後のような空が広がっていた。
*
………むーちゃんママ、そうとうショック受けてたな
大人をあんな風に泣かせてしまったことに麗自身も引きずられながら、店に戻って仕事の続きをした。
数時間後、麦からメールが入った。
今日は土曜日だが麦は必修の語学授業があり大学へ行っていた。
麗はすぐに休憩室で電話を掛けた。
そして麦の母がバイト先に来たこと、自分が対応したこと、会話の内容――すべてを詳しく話した。
「ママがっ? そ、そっかあ……知ったんだ、全部」
麦の声は喜びで震えていた。
「れいちゃん……ありがと。ほんとに、ありがと。私じゃきっと興奮しちゃって、半分も話せなかったと思う……」
「こちらこそ、“うちら”のお節介に慣れてくれてありがとね」
碧も一緒だと、精一杯のヒントを出す。
自分も碧も、麦と再会してからずっと麦のために動いていた。もちろん、子供の頃の関わりがそうさせたのだ。あの頃もお互いの領域にあっさりと踏み込み合った仲だから。
睦美によって自尊心を折られた麦は、忘れてしまったかもしれないけれど。
「金曜が終わったら、むーちゃんの世界はガラッと変わってる。私が保証するからね。だから頑張ろう!」
麗は隠し事のせめてものお詫びにと、会話のあちこちに碧についてのヒントを残したが、すでにいっぱいいっぱいの麦には気づくことができないのだろうと、歯痒かった。

