Silent Summer ~姉に初恋を奪われた~



 
 ……あれっ? あの女の人って、
 
 麗は、食べるのが遅い中年のひとり客を観察して、あっ、と声に出した。
 
 ……あの人、よく見たらむーちゃんママじゃん、
 麦とそっくりな愛らしい目元に確信を得た。

 平日のランチタイムは周辺の店より遅い時間帯で設定しているため、『琴乃』は終日混んでいる。注文から提供するまでの時間も早いため回転率が高い。だから席が動かないと目立つのだ。

 麦の母親は箸を動かしながら店の奥――要するに厨房の方を見てばかりいて、食事が進んでいない。
 ……うどん、のびてるって
 麗は心の中で突っ込む。

 ……っていうか、今日はむーちゃんお休みなんだよなあ
 麦の母が、麦に会いに来たことは一目瞭然だった。 
 麗は困った顔のまま、首筋に手を当てた。
 ……教えてあげた方がいいよね

 麗は、麦の母の元へそっと近づいた。
 会釈して小声を向ける。
「こんにちは。麦さんのお母さんですよね?」
 なぜ知っているのか――という顔と共に立ち上がりかけた母親に、麗は両手を下に向けて「このままで大丈夫です」と合図を送った。
「実は今日、麦さんお休みで」
「えっ? そ、うなんです、ね」
 声が小さくなって、肩が落ちた。
 ……家で話せてないんだもん、知るわけないよね
 母親の落胆に、心の声で言う。
「……」
 きっと勇気を出して来たのだろう。
 睦美のことを伝えようとしたのか、それとも父親のことだろうか。

 よし!
 麗は心で頷いた。
「あのっ、私のこと覚えてませんか?」
 突然の質問に母親が顔を上げた。
「子供の頃、むーちゃんと遊んでいた“れい”です」
 続けて告げた。
「この春東京に戻ってきて。実はこの店、“うち”です」
 母親がみるみる目を丸くする。
「えっ、あの、れいちゃん?」
「そうです! “あの”れいちゃんです!」
 麗はくだけて言った。
「もちろん覚えてるわ。ああ、本当ね、面影がある」
 子供の頃の自分を懐かしがってくれる母親に、麗はくすぐったい気持ちになる。
「……じゃあ、麦とずっと友達でいてくれたの?」
 泣き笑いのような優しい表情に、目の奥がつんとした。
 ――本当は、少し怖かった。
 “麦の友達”として相応しくないと、思われていたんじゃないかって。
 手紙が麦に渡っていなかった事実があったから。
 だけど今、はっきりした。 
「手紙――」
 え? と麦の母が顔を上げたそこに、聞いた。
「むーちゃんに手紙書いたんです……知ってましたか?」
 麗はたまらずにぶつけていた。
「そうよね、引っ越してからしばらく送ってくれたわよね」 
「でも、むーちゃんには届いてませんでした」
「どういうこと?」
 麦の母は、本当に分からないようだった。
 麗は確信した。
 手紙は睦美によって止められたのだと。

 麗は他の客に聞こえないように声を落とした。 
「……あの、むーちゃんのことで話したいことがあるんです」
 さすがに唐突だったか……と、その曇り始めた表情を見て思う。
 子供の友達に、家庭の問題に踏み込まれるなんて、イヤだよなあ、とも。
 だけど麗はさらに言葉を続けた。
 麦のために一肌脱ごうと決めたのだ。
「たぶんむーちゃんも、むーちゃんママに知ってほしいと思ってることなんです」
「……」
 麦の母親は、深刻な顔を向けてきた。
「わかったわ。――私も、れいちゃんに聞きたいことがあるの」
 なにかを決意したような眼差しだった。
「準備してくるので十分ほど待っててください」
 同じ商店街にあるカフェの名前を告げると、麦の母親はすぐにバッグを手に取った。

 
 指定した店で麦の母と向き合った。
 麗は改めて自己紹介した。
 そうして世間話のような会話を少し。
「――麦は、ご迷惑かけてない?」
「いえいえ! 逆です! 手際が良くて助かってます」
「そうなの?」
「入ったばかりでゴールデンウイークがきたのに即戦力で、みんな感謝してました!」
「なにもできない子だと思ってたのに、麦ったら……」
 照れ隠しか、言葉のわりに目尻が緩んでいる。

 頃合いを見計らって本題に入った。
「むーちゃん、悩んでました」
「……そう、よね」
 カフェの窓が暗くなった。
 どこかで雨が降っているのかもしれない。
 湿った空気に流されそうになり麗は気を引き締めた。 
 
「麦が悩んでいるのは……姉、のことよね?」
 その震える眼差しに、麗は頷いた。
「はい。子供の頃から、苦しめられてきたので」
「……私、母親なのに、何も知らなくて……」
「実は」
 麗は言葉を選びながら伝えた。
「この前、むーちゃんママの実家へ一緒に行きました」
「……っぃっ」
 麦の母は声にならない声を喉の奥から出した。
「すみません。勝手に。だけどそれだけむーちゃんは追い詰められていたんです」
「……そ、れで、麦は……」
「近所に住んでいる岡田さんって人に会って、むーちゃんママと“お姉さんの母親”の話を聞きました」
「……」
 麦の母は、自分の腕を抱きしめて吐息を漏らした。

 少し沈黙が続いた。
 麦の母はそのことに気づかないみたいだった。
 麗は意志を持って口を開く。

「むーちゃんはずっと自由を取り上げられてきました。もう限界なんです」
「……れいちゃん、知っているなら教えてほしいの、どうしてそんなことに……なったのか」
「それは――」
 麗は握りしめた両手にぐっと力を込めた。
「むーちゃんが、子供の頃に木から落ちて入院したこと、覚えてますか?」
 麦の母は必死に記憶を辿っている。
「そうね、あったわ――睦美が家にきて間もなくの頃だった……」
「あの時です」
 麗は、ここにはいない睦美に怒りを込めて、遠慮を捨ててぶちまけた。

 麦から聞いた『あの日』のことを。
 麦が睦美の胸元に一生消えないほどひどい傷痕を残したと信じ込まされ、そのせいでずっと睦美の支配下に置かれて、なにもかも奪われてきたことを。

「……」
 言葉も出ない麦の母からは表情が消えていた。
「これを、見てください」
 麗は麦から転送された動画を開いた。
 いつのまにか、母親は麗のスマホを両手で握って目を見開いて画面を凝視していた。
「……これが、睦美……、麦が、こんな……」
 動画が終わると、母親の目から止めどなく涙が落ちた。まるで血が流れているみたいだった。
「……」
 麗は、唾を飲み込んだ。
 ……大人がこんな風に泣くところなんて、初めて、見た

「……許せない……母娘で、同じことを……私の娘にまで……」
「……」
 ところどころ聞き取れない言葉の断片を、なんとか拾った。
 ……同じこと?
 ……娘にまで、って
 どういう意味?

 底知れぬ不穏ななにかを無意識レベルで感じ取り――、それがなにかが分からないまでも、麗はうろたえた。

 窓の外に六月の雨が降り始めた。