――――やってしまった
抑えてきた反動だろうか……
今まで耐えてきた分、怒りが制御できない。
雑踏で足を止め、恐る恐る振り返る。
まだ母の車は動いていなかった。
……どうする? 戻る?
冷静に、ちゃんと話した方がいいよね
「……」
だけど私の足は、動かない。
しばらく迷って――迷って――、戻らないことにした。
また母と話したとしても同じやりとりになるだけのような気がした。
これからどうしよう。
……バイトは、休むって言っちゃったし。アオくんは――“友達”だもの、連絡すれば気軽に応じてくれるんじゃない?
……でも
二人きりで会えば睦美のことを聞きたくなってしまう。
……それに、睦美との“恋愛相談”なんかされたらどうするの?
……ちゃんと笑顔でいられる?
これまでは二度と会えないから『大切な思い出』として割り切れた。だけど再会後は碧への想いがどんどん強くなっている。
碧は大人になり、触れられるほど近い場所にいて、動いて、話して、笑って――もう、思い出じゃない。
「苦しいよ……」
雑踏に紛れて誰にも聞こえないから、本音を吐いた。
「アオくん、助けて……」
母のことを相談したかった。睦美のこともぶちまけたかった。
!
ポケットの中でスマホが振動した。
「…………もしも、し」
声を聞く前に、もう泣いてしまっていた。
「むーちゃん? どうした?」
「アオく……ん、なんで――――」
言葉が続かなかった。
こんな偶然があるだろうか。私は今、心の底からアオくんを求めていた。
「むーちゃんが、俺を呼んでいる気がしたんだ……、合ってた?」
「アオくん……私、私――」
私の心の叫びに反応してくれる碧に特別な絆を感じる……感じてはダメなの?
「むーちゃん?」
「……」
睦美に、碧を取られたくない。
……アオくんと、友達のままじゃ、いやだよ
言いたい。
でも……。
「……あのね、アオくん」
「うん?」
「話したいことがあるの。……全部終わったら、聞いてくれる?」
「……今は、言えない?」
今話して、碧の反応を見る勇気がない。もしも睦美を許してあげてほしいと頼まれたら復讐の手が緩んでしまう。――それは、できない。
「うん、後で……、後で話したい」
碧が睦美を庇って、碧と会うのがそれで最後になったとしても、私は復讐を遂げて前を向いて碧に告げたい。……アオくんは私の初恋だよ、と。
「……っ」
涙を拭った。
……本当は私があの日、アオくんと再会したかった
だけどそれさえも睦美に奪われてしまった。
「むーちゃん、つらかったらいつでも頼って」
「ありがとう」
碧の言葉を振り切って、自分を奮い立たせる。
「また三人で会おう! れいちゃんと三人で」
それまでにケリをつける。
「むーちゃん……」
何か言いたそうに私を呼ぶ碧に後ろ髪を引かれながら、通話を切って歩き出した。
+
家に帰ると、夕食を作っている母を相手に睦美が友達の話をしていた。
「――麦、おかえり」
「!」
母が、今にも泣きそうな顔を私に向けた。
「あ……」
どうしたの、と言いそうになって睦美の鋭い眼差しを受ける。
「……」
私はぷい、っと顔を背け、口を閉じたまま階段を上がった。
だが母の悲痛な表情が気に掛かった。
数時間前にあんな別れ方をした罪悪感のせいかと思ったが、なんとなく、それだけじゃないような気がした。
……もしかして、睦美の嘘に気がついた?
一瞬浮かんだ考えも、車の中での母との会話を思い出し、そんなはずないか、と打ち消した。
……ママは睦美の存在に救われてるんだもんね、私がこんなだから
部屋に戻り、仕込んでいるカメラの位置を確認し、録画ボタンを押した。
少し前から睦美の暴言は集まっている。だが足りない。まだ睦美の残忍さが撮れていなかった。
睦美の日課は、私の自尊心を傷つけることだ。
思い通りにいかなかった日は特に私で憂さを晴らすことが多い。長年の観察から、今日がその日だという確信があった。
――――タンタンタン、
と、階段を上がってくる足音に、私は急いで椅子に座る。
勢いよくドアが開き、すぐに閉まる。
「ねえ」
密室状態を作ると、乱暴な大声が向かってきた。
「ママに成人式の着物買ってもらったって?」
「!」
……えっ、その話、睦美にしたの? ……じゃあ、ママのさっきの表情は――
母がようやく睦美の異常性を知ったのかもしれないと思うと、希望のように、勇気が湧いてきた。
「ママに『恥ずかしい』って言われてるのによく一緒に外に出れたね」
「……」
「そもそもさあ、私がいないときにママとふたりきりになるなって言ったよねえ?」
睦美の声はどんどん荒くなる。
私は意志を持って睦美の目の前にすとん、とひざを折った。
まるでいつもそうしているみたいに。
「……ごめんなさい」
私は怯えた体をより小さくした。
睦美は自分の怒りの分、私が反省することが当然だと思っているのか、正座の私を見下ろし睨みつけたままだ。
なんにしても都合が良かった。
「わかってるよね、それ着て成人式に出るなんて許さないからね」
「……でも、もう買ってくれて」
反抗されるのが大嫌いな睦美にぐっと顔を上げた。案の定、睦美はカッとなった。
「いつもくちごたえすんなって言ってるよねえっ」
言葉だけじゃなく足が飛んできた。
今日の睦美はいつも以上に機嫌が悪かった。
「気が変わったってママに言って、返品でもなんでもしたらいいじゃん」
「……」
身を固くしていると睦美は見開いた目を近づけてきた。
「イヤなの? 今度は着物を切り刻まれたいの? ママ、傷つくだろうね、洋服とはわけが違うよ?」
「ごめんなさい……でも“ママ”が」
「『ママ』? そう呼ぶなって言ったことも忘れたっ?」
また足が飛んできた。
「あんた、ママとなに話したの? まさか私の胸の傷痕のこと話してないよね?」
「……え、っと」
私は、蹴られた腕を擦りながらおろおろする。
睦美が私を「あんた」と呼ぶときは、怒りの指数が振り切れる直前だ。どくどくと、体の中を駆け巡る血液に押される。――もっと睦美を怒らせないと。
「そのことなんだけど、私、もう、つらくて……」
睦美の片頬が、唇と共に上がった。
「私の傷痕はっ! あんたが一生かけて私に償うんでしょうっ! その約束でしょうが!」
ドスをきかせた低音が迫ってくる。
「……胸の傷痕、もう一度……見せてくれないかな」
懇願する。「子供の頃に一瞬だけ、見せてもらったよね……私が、やってしまった……んだよね、でも、どうして私はそのこと、覚えてないんだろう……」
「はあ?」
睦美は目を吊り上げて歯を剥いた。
「私が嘘ついてるっていうわけっ? あんたに付けられた傷のせいで今も胸の半分赤黒く変色したままなのに!」
「ごめ――ごめんなさ……い、でも、もう許して、ほしい……」
私はカーペットに頭を擦りつけた。
「十年……必死にお金、貯めたけど……全然、追いつかない……、パパとママに相談したい……」
私は睦美に逆らって、ぐんと顔を向けた。
――今、ここで頬を叩かれれば睦美の本性が撮れる。
「だからっ! パパママって呼ぶなって言ったよねぇっ」
バチンッ、と音がした。
自分から差し出したとはいえ、叩かれた頬が時間差で熱くなった。じんじんと、痛みが襲ってくる。
それでも耐えて、私はうつむいた。――まるで、これが日常とでもいうように。
「あのふたりは私のパパとママになったの。あんたが私を傷つけた代償に」
睦美は興奮して口走った。
「……」
私は、じっと動かずにいた。
頭の奥でピースが嵌った。――パパとママに“なった”
睦美が捲し立てた言葉に、真実があった。
……睦美も、知ってるんだ。自分の出生を。
そこに行き着いたとき、『私の家族』はもう二度と元の姿には戻れないだろうと思った。なぜなら私が――、私が、この嘘だらけの家族を壊すからだ。
そしてその後は……願わくは、遠い記憶の中の父と母に会ってみたい。睦美が現れる前のふたりに。
ただ一度でもいいから。
