Silent Summer ~姉に初恋を奪われた~



 
 李加はスマホに表示された『実家』の番号を凝視した。
 ……間違えて掛けてきたとかじゃ、ないよね?

 
 両親から縁を切られたのは、光輝との結婚が決まり両親に報告をした時だった。
 これまで帰省しなかったことを詫び、妊娠の事実も明かした。だが両親から返ってきたのは祝福ではなかった。
 ――なんてことをしてくれんだ。まさか実李の『婚約者』を奪うなんて
 ――どれほど実李を傷つけたら気が済むの
 
 李加はもちろん否定した。必死に。
 けれど実李を全面的に信じている両親には届かなかった。

 李加は誤解を解くことをあきらめた。
 自分が両親に対して不義理であったことも、両親にとって実李が『優しい娘』であることも事実だ。
 逃げるように故郷から離れた李加はこれまで両親を気遣うこともしなかった。その穴埋めはきっと実李がやったのだろう。両親が自分を信じないことは自業自得かもしれないと、思ったのだ。
 ……それに私には光輝と、お腹の赤ちゃんがいる。
 自分の家族を大切にしていこう、と気持ちを切り替えた。
 
 
 李加は恐る恐る、受話器マークをフリックした。
 すると父は挨拶もそこそこに言った。
 ――実李の忘れ形見を育ててほしいと。

 え……?
 忘れ形見?
 どういう、意味……?

 この日、頭でも心でも処理しきれない現実が次々と李加を襲った。
 実李はすでに亡くなっていて、実李の遺言に従って李加にはその死を知らせなかったこと。
 実李には子供がいて、両親が育てていたこと。
 その両親も体力の限界を感じ、家を処分して老人ホームに入ると決めたこと。
 
「実李と婚約者だった男との子供だ。おまえが育てないと」
 父の言葉に李加はまだ“何が起きているのか”気づかなかった。それほどに突拍子もなかった。
「その婚約者の人には連絡したの?」
 いくら双子の妹だとしても、もう片方の親の承諾も得ずに勝手に子供を養子にするなんて……。
「……」
 ……ちょっと待って……

 李加の脳内に“いつか”の断片が現われた。初めは静かに、だがその正体に思い当たった瞬間、記憶が疾風のように一瞬で近づいてきた。
 !
 ……まさか、『婚約者』って……、光輝のこと……?
 実李が産んだ子供は“あの時の”――

 そこに行き着いた途端、サアーッと、足元にあった地面がなにかによって引っ張られ、李加はその場にしゃがみ込んだ。

 実李がもうこの世にはいない――そのこととも向き合えないのに、光輝に事実を話し、“光輝と実李の子供”を育てなければいけない?
 
 ――そこからの数日間は生き地獄のようだった。
 
 光輝は壊れたおもちゃのように同じことを質問し、青褪めながら目を見開いて何度も空笑いをした。

「ごめん……ごめんなさい」
 李加は泣いて詫びた。
 過去『自分には双子の姉がいる』と打ち明けていたら、“あの日”体を重ねる前に、恋人とは別人だと疑うこともできたかもしれない。――光輝は何も悪くない。
 

 光輝は気持ちの整理が必要だと、家に帰ってこなくなった。
 父からは毎日『いつ迎えに来るのか』と電話がきた。
 ひとりでこの問題と向き合っていると気が狂いそうだった。
 
 ようやく会えた時、光輝は別人のように暗い目をしていた。ぼさぼさの髪で、髭もそらず、こけた頬をさらして唸るように言った。
「子供の頃から必死に勉強して医者になって、初恋を実らせて結婚して、生まれた娘も最高に可愛い――幸せだったんだ……」
「……」
「親になんて説明したらいい? 麦には……? 俺、『勝手に』最低な人間になったんだよ……」
「ごめん……ごめんね、光輝……、こんなことに巻き込んで……ごめんね」
 ふたりで泣きながら互いを抱きしめ合った。

 光輝は涙を拭き、声を落とした。
「その子を引き取ろう。『俺たちの子として』。だけど麦と誕生日が近すぎる……双子――にしよう。病弱で、生まれてすぐ実家に預けたことにしよう。つっこまれたら俺が――その都度答えを用意するから」
「そうだね、……うん、それがいいね」
 出生に関わることだ、誤魔化せるようなものではない。それでも李加は不安に囚われた光輝の、その狭い考えに同調した。
「麦に嫌われたくないよ……」
 絞り出すような光輝の声が耳の奥で消えなかった。
 
 
 睦美を引き取ってからの光輝は人格が変わってしまった。
 
 ――「宮原さんの旦那さんって静かで無口よね、話しかけずらいというか」
「まあ、お医者サマだから……」
 李加のママ友や近所の人たちは光輝をこう表現する。
 自分で決めた――誰かに聞かれたら俺が答える――が、光輝をそうさせているのだろう。結果して、聞かれる隙を作らないように生きるしかなくなったのだ。

 ただ、救いだったこともある。
 葛藤を抱えながら迎えた睦美がとても良い子だったことだ。素直で優しく、周囲を気遣える。そんな睦美によって李加と光輝は時々、『親子ごっこ』ができた。……本当は、そこに麦も加わってくれれば光輝も自分を許せて楽になれるのかもしれない――そんなことを連絡を取り合っている由紀子に話すと、由紀子は深刻にならない口調で言った。
「逆なのかも。麦ちゃんの反抗期がなくてイイ子すぎたら、罪の意識で宮原クンが壊れちゃってるかも」
 あの時、李加は救われた思いだった。
  
 
 ……だからって、麦を放置してしまったことは、よくなかった……

「私、母親失格だ……」
 家族のバランスを取るために、麦を犠牲にして罪の帳尻を合わせたなんて。
 自分たちの言い訳がどれほど麦を追い詰めていたのか、李加は今日初めて知った。

 ……私の子――、心の底から愛おしいのは麦、ただひとり
 
「まずは麦に謝らないと……」
 そして、夫にもこの事実を話さなくてはいけない。
 
 李加は、なんとか重い頭を持ち上げて、ハンドルを握り直した。
 
 

    +  
 
 家に帰ると、睦美がいた。
「――睦美? どうしたの、今日はお出掛けじゃなかったの?」
 部屋の中が暗いのかと電気を点けた。陰険な表情が蛍光灯に一瞬浮かび上がり、すぐに柔らかい笑顔になった。
「ママ、おかえりなさい」
 ……見間違え?
 李加は「ただいま」と取り繕った。
 抗えず過去を振り返ったせいか、神経が過敏になっているようだ。
 
 ……そうよね、睦美は、実李の子供なのよね
 もちろん、一秒も忘れたことはない。どんなに可愛がっても、睦美を『本当の娘』だと思ったことはなかった。

――『赤ちゃんが生まれたらどんな名前がいい?』
 まだ子供だった頃、少女漫画に影響されて実李とそんな会話をした。
「実李は決めてる?」
「うーん、……李加は?」
「私? 私はね、『む』から始まる名前にするんだ!」
 当時、夢中で読んでいた漫画のヒロインが『むーちゃん』と呼ばれていた。それに影響されたのだ。
「“むつみ”とか“むつき”とか“むぎ”とか、かわいいよね」
 
 ――実李は賭けに出たのだろうか
 睦美が先に生まれなければ李加が付けた名を、自分の子供にも付けたのではないか?
 その可能性を想像しただけで、李加は心臓を鷲掴みされたような気分になる。
 ……あの時、候補の名前をひとつだけ答えなくて良かった
 そんな無意識の選択にしか、拠り所がないことがやりきれない。

 実李が『あんなこと』さえしなければ、自分たち家族はどれほど幸せだったかと考えない日はない。
 それでも、半分は光輝で出来ている睦美をしっかり育てなければとも思う。それに……
 睦美を大切にすれば、実李の死によって永遠に知ることができなくなった『なぜ?』への苦しみ――消化不良のようなこの感情が、少しは整理できるような気がした。
 由紀子はそれを『修復的再演』『哀悼作業』だと言った。なるほど……と李加は静かに受け入れた。
 自分の感情に名前が付いていることにどこかでほっとしたのだ。
 
 
「今日、お出掛けじゃなかったの?」
「うん、その予定だったんだけど、なくなったの」
「そうなのね」
「ママはどこへ行ってたの?」
「えっとね――」
 口を開きかけて、麦の言葉を思い出した。
 何かを深く考えたわけではない、ただ、押されるように『麦の言葉』をなぞっていた。
「麦の成人式の着物を買いに行ってたの」
「……」
 睦美の片方の眉が一瞬歪んだのを、李加は確かに見た。けれどすぐに綺麗な笑顔に吸収されていった。
「そうなんだね! あ、でもね、ママ……」
 睦美は申し訳なさそうな、泣きそうな、李加にとって見慣れた表情を作った。
「この前、睦美とママとで着物見に行ったでしょう? あのこと麦ちゃんに話したの。そしたらね」
 その先の言葉は、麦が想定した通りだった。
 
「……」
 李加は、“見知らぬ他人”を見るように睦美を見た。
「――ママ?」
 睦美の声に反応したのは、これまで睦美と過ごした月日の延長だった。
「ママ……ショックだよね、せっかく買ったのに。麦ちゃん、ひどいよ」
「……」
 涙ぐむ睦美は『誰』なのだろうかと、李加は睦美に探るような目を向ける。
「でも麦ちゃん、怒ると怖いから……しょうがないよ。もちろん睦美はお姉ちゃんだから受け止めるよ。私にまかせておいて」
「……」
 ……このやりとり、何度目だっけ
 李加は眉間に指を当てた。もどかしい感覚だった。
 
 ――必死に、妹の悪態をかばう姉
 ……あれっ? “妹”って私の娘、麦のことよね?
 違う……? ……私?
 
 ――『実李を産んで良かった』
『睦美、いつもありがとう』
『同じに育てたのにどうして』
 親の言葉にいつも傷ついていた。
 ……傷ついたのは私、
 …………麦、も?
 
 ――「私なにかした?」
「なんで睦美の話ばっかり信じるのよ」

 ……なに、これ、どうして
 頭の中で、子供の頃の自分が常に“誰か”に向けていた疑問と、さっき麦が自分にぶつけてきた不満が並走している。

 ――『私がっ、気難しくて、不機嫌な理由っ、……なんで真剣に……探ってくれなかったのっ』
 !
 麦の悲痛な叫びが、幼い頃の自分の心の声とぴたりと重なった。

 ……まさか
 視界が急に狭くなり、自分の外側が真っ黒になっていく。

 なぜ麦が、“睦美を勝手に迎えた自分たちに怒っている”と思い込んできたのだろう……
 
 ――『私は、睦美が家に来たときから睦美を受け入れてた。そのことママは忘れちゃったみたいだね』
 麦の声は、怒りを含んで“あきらめて”いた。

 ……そうだ、なぜ忘れていた?

 睦美をどうしていいか分からなかった自分たち夫婦は、いつも麦に睦美を託してしまったではないか。
 麦は親の言うことを素直に聞いて、無邪気に睦美の手をひっぱって遊びに連れて行ってくれた。
 
 “見えていた”ものが真実だったのに、いつのまにすり替わった?

 ――睦美が“教えくれた”のだ。『麦の人格』を。
 

「ママ! そろそろ麦ちゃんのアルバイト先にお食事しに行こう。ふたりで行ってびっくりさせようよ! あっ、パパも誘って三人で行こう!」
「……」
 家族の予定はいつも睦美が決めてくれた――そう、“決めてくれる”と感謝すらしていた。『家族ごっこ』をする必要があったから…… 
 
「……そ、そうね」
 李加は取り繕うのに必死だった。
 わずかでも気を抜けば、睦美に『敵』のような目を向けてしまうだろう。

「パパとママと睦美で仲良くしてれば、いつか麦ちゃんも“混ざりたいな”って思ってくれるからね!」
「……」
 睦美の言葉が、表情が――存在が、なにもかもに嘘と裏が見えた。
 
 どうして『これ』を、今の今まで見ないふりできたのだろう……

 李加は、あまりの衝撃に後退りした。
 

 ……ああ、麦、

 ……私の大切な娘、麦、

 ……私と光輝の、輝くような存在の麦、

 麦を孤立させていることにも気づかなかったなんて……
 ――これが、夫婦で逃げ続けた結果?
 
 
 李加は上着の胸元をぎゅうっと握った。
 呼吸が乱れる。
  
 
 今すぐに、娘に会いたかった。
 ごめんね……苦しかったね……寂しかったね……、そう言ってただ、おもいっきり抱きしめて、抱きしめて――――許しを乞いたかった。
 
 
【李加視点おわり】