Silent Summer ~姉に初恋を奪われた~


    
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 「203の患者さんのご家族が、先生にお話ししたいことがあるとのことです」
「四時なら空いてる。来たら声掛けて」
 李加はドクターが指定した時間を手首のウェアラブルメモに書き込んだ。


 ――李加が地方都市の総合病院で働き始めて八年が経った。
 研修医時代から付き合っている医者の恋人もいる。
 
 
 実李と離れてからの人生は、人間関係も仕事も恋も、すべてが順調だった。
 ……私が地元で嫌われていたのは、私のせいじゃなかったんだ
 その事実が李加に安心と行動を与えた。
 
 月日と共に余裕も生まれ、実李はどうしているだろう、父と母は元気だろうか――と考えることもある。離れたことで実李が“反省”してくれていたらと……、両親や周囲の人たちに“誤解”を解いてくれていたらと、祈りにも似た願望を持ってもいた。別々に重ねた時間のおかげで心の傷も少し癒えたのかもしれなかった。



「――――李加ちゃん、今日先輩の誘いでちょっと飲んで帰る」
 ナースステーションに入ってきた恋人の光輝(こうき)が李加にだけ聞こえるように小声で言った。李加は『わかったよ』と声に出さず唇だけで言って笑いかけた。 
 
 李加が“初めての恋”だという光輝は、専門医になっても李加を大切にしてくれている。
 友達からは『医者になると周りがほっとかないからさっさと結婚しちゃいなよ』などと言われるけれど、李加は曖昧に返事を濁していた。
 もしも本当に別れがきたら……ショックでしばらくは立ち直れないだろうが、恋を終わらせることもその先へ踏み出すことも強要されるべきではない――と思う。
 
 ……そっか、じゃあ今日はうち帰ろうかな
 普段は光輝のアパートで半同棲をしている。
 『引っ越しておいでよ』と何度も言われているが、荷物が多く、借りているアパートはそのままにしてあった。
 ……さすがにそろそろ、部屋の片づけしないと!
 そう決めて、久々に自分のアパートへ戻った。


 次の日、光輝が頭を抱えながら病棟を歩いている後ろ姿が目に入った。

 ……まさか、二日酔い? 珍しい、
 李加は心配になった。
 しばらくして、医局で経口補水液を喉に流し込んでいる光輝を見つけた。
「大丈夫?」
 そっと近づいて声を掛けた。
「あっ!」
 光輝は座ったまま目を泳がせた。「今朝見送れなくてごめん、……あんなに酔ったの初めてで」
「ん?」
「李加も昨日――すごかったね、俺、ふがいなかった、ずっと李加が“上になってくれて――”」
 李加は慌ててその口元を押さえた。
 光輝の口振りからそれが“行為”のことだと分かったからだ。光輝が李加を呼び捨てにしたこともそこに繋がった。
「あっ、聞かれたらヤバいね、さすがに」
 周囲を窺う光輝の、何かを思い出したのか上気した頬と潤んだ目を、李加はじっと見下ろした。

「……光輝君、昨日どこまで記憶あるの?」
「え? ああ、飲み会終わるのを李加ちゃんが待っててくれて一緒に帰っただろ、家着いてから急に酔いが回ってさ、そこからは李加ちゃんが……」
「……」
 背後から底なしの闇が迫ってきた感覚だった。
 李加は乾いた唾を飲み込んだ。
「……急に、酔ったの?」
「李加ちゃんが水飲ませてくれたから安心したのかなあ」
 光輝はコップの水を飲むジェスチャーをした。
「……」 
「っていうか、李加ちゃん、あんなすごい下着、いつ買ったの」
 光輝がもじもじと言って李加の手を握った。しっとりしていた。
 ささやくような声が言う。
「そのまま脱ぎっぱなしだったから、ちゃんと“洗濯ネット”に入れといたからね」
 色気と無邪気が混在した眼差しが李加を愛おしそうにみつめた。
「……」
 ――ガチャ、とドアが開き、李加は光輝と共に弾かれたように離れた。

「おやおや、職場恋愛中のところ申し訳ないけど、師長が呼んでたよ」
 自分たちの関係を温かく見守ってくれている光輝の先輩医師だった。
「は、はいっ、今行きます」
 李加は急いでドアに走った。
 ……正直、助かった、と思った。
 
 李加は無意識に両手で自分の腕をきつく抱きしめた。
 
 ――実李だ、
 すぐに分かった。
 ……光輝の相手が『私』じゃないなら、実李以外、考えられない。




 廊下の端に蹲った。

 ……なんで今頃現れて、また私を苦しめるの?
 反省してくれていたら――なんて、夢のまた夢だった。

 空気が、薄い。
 体に力が入らない。
 呼吸が早くなる。

 想像したくもないのに、重なった光輝と実李が勝手に動き出して――気が狂いそうだった。
  
 異常だ。
 妹の恋人と、妹のふりをして関係を持つなんて……
 なぜそんなひどいことができるのか……
  
 どうしよう、
 
 どうするべき?
 
 涙が血のように流れた。
 永遠に出られない闇の迷路に放り込まれたようだった。

 ……私は結局、実李から逃げられないの?

 記憶と現実の狭間で、絶望の残像が点滅している。耳の奥では笑い声のようなけたたましい音が、割れるように響いて止まない。

 ……たすけて
 
「李加さん? 具合悪いの? 大丈夫?」
 その声に顔を上げた。
 精神科医の由紀子だった。
「――あ、いえ、体は大丈夫です……」
 素早く頬を拭った。
「なにか悩みがある感じ?」
「……」

 由紀子とは光輝と参加した職場の飲み会で親しくなり、年齢差はあるが気が合ってプライベートでも飲みに行く仲になった。
「診察まででもないなら話だけでも聞くよ」
「……いいんですか?」
 ひとりでは、抱えきれなかった。
 
 
 その日、李加は居酒屋で『友人の話』と前置きし、由紀子に悩みを打ち明けた。
 
「なるほどね、背景はだいたい分かったわ」
 由紀子はグラスを傾けながら、天気の話をするぐらいラフに話し出した。
「妹のすべてに介入するってことは、姉は妹を自己拡張の対象として見てる可能性が高いね。同一化欲求や自我境界が崩壊――つまり、妹と自分の区別がついてない状態よ」
「……」
 聞き馴染みのない言葉たちが事の重大さを物語っているようで、李加は生唾を飲み込んだ。
「ミラリング――からの執着――からの愛憎の混在、で、関係性攻撃って感じに転換していったんじゃないかな。要するに――」
 由紀子は専門的な言葉を李加のために分かりやすく開いてくれた。
 李加は、ずしんと重くなった頭で必死に過去を辿った。
 ……私になりたかった? でもなれなくてそれが攻撃に変わった? 愛しているのに憎い? 
 ……子供の頃から、実李は私よりなんでもできる子なのに?
 賑やかな店内だが、李加は自分だけが檻の中に囚われている気分だった。
 
「……もしもですよ、もしも姉が、妹のふりをして、妹の恋人とそういう――体の関係になったとしたらその意味は……」
「そうだねえ」
 由紀子はおかわりのビールを店員から受け取りながら、言った。
「妹がどんな風に愛を囁かれてどんな風に触られるのか、もっと言えば妹がその目で見るもの――恋人の表情とか掛けられる言葉とか、雰囲気なんかも共有したい――再体験したいってことかと思う」
 ……再体験
 その言葉を嚙み砕こうと努力し――李加は頭を振った。
 理解が追い付かない。
「なんにしてもカウンセリングが必要なレベルだよ」
「……そう、ですよね」

「ところで李加さんに双子のお姉さんがいるなんてね。宮原クンには話してないんだね」
「!」
 友人の話、と言ったのに由紀子にはお見通しだったようだ。
 李加は滲んできた汗を指の腹で拭った。
「どうするの? 宮原クンに打ち明ける? 『あの日は私じゃなくて姉と関係を持ったんだよ』って」
「……まだ、どうしたらいいか分からなくて」
 李加は観念して白状した。
 実李のことを知り合いに話したのは、故郷を捨ててから初めてだった。

 
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 結局結論が出ないまま、時間だけが過ぎた。
 李加は、実李がいつ自分の前に現れるのかと、毎日緊張していた。
 下着を残していった――という状況から考えれば、自分の存在を隠すつもりはない……、むしろその逆だから。
 だが李加の覚悟に反して実李は現れなかった。そして李加は実李との対峙をあきらめた。
 妊娠したのだ。
 
「女の子だったら“麦”だよね!」
 光輝は、膨らんでもいない李加の腹を触りながら言った。
「気が早いよ……っていうか、よく覚えてたね」
 ――『子供が生まれたら名前決めてるんだ』
 李加が過去、なにげなく話したことだった。
「結婚しよ」
 光輝から当然のようにプロポーズされた。
「もう少し稼ぐようになってから……と思ってたけど、結婚してから頑張ってもいいよね。東京へ行こう!」
「え、なにもそこまでしなくても」
「俺たちのためもあるけど、生まれてくる子のためにもそうしようよ、良い教育を受けさせたい!」
 光輝の決意は強かった。悪阻が始まってしまったこともあり、すべて光輝に任せた。

 ――出産、育児、慣れない環境、新たなチャレンジと、李加の日々は目まぐるしく変化した。
 麦は光輝に似て明るく活動的で、屈託のない子供だった。我が子は目に入れても痛くない――という表現があるが、光輝もそうだった。生まれた瞬間から麦を溺愛した。成長の記録を撮りためて誕生日には光輝の両親を招待し、それを鑑賞するのが恒例行事となった。あの日までは。

 “あの日”――――
 父から電話があった。