Silent Summer ~姉に初恋を奪われた~



「――止まって。ここで降りる」
「!」
 麦の声に、李加ははっとしてブレーキを踏んだ。
 無意識にウィンカーを出し左の車線に寄った。スピードを落として路肩に停車する。
 降りようとする娘に思わず声を掛けた。
「む、麦……」
 声は娘の全身を硬直させた。
 ……私の言葉を待っている――
 痛いほどに伝わってくるのに、口が動かなかった。

「……」
「……」
 無言の数秒を経て、麦は車を降りた。
 振り返らない背中はすぐに雑踏に紛れた。

 …………はあ、
 弱々しい吐息と共に、李加はハンドルに突っ伏した。

 どうすればよかったのだろう……。
 ……私の娘はまた、心を閉ざしてしまうの?

 想像し、足元から砂が引いていくような感覚に陥った。
 
 
 最近の麦は、これまでとは何かが違った。
 相談したいことでもあるのか、物言わぬ目が幾度とな自分を追いかけてきた。ようやく難しい思春期が終わったようだと安堵し、話しかけやすいようにと少し長めにリビングにいて、朝や帰宅の際はずっと麦を見ていた。
 
 そんな中、麦に誘われた……!
 失った時間は取り戻せないけれど、ここから新たな親子関係を築いていけばいい。その一歩が今日に違いないと、李加はひさしぶりに晴れやかな、幸せな気持ちになっていた。なのに……。

 夫婦で必死に隠してきた秘密をまさか麦に知られているなど想像もしなかった。睦美が疑っていないのに、麦が気づくはずはないと思い込もうとしていたのかもしれない。
 いずれ話さなければならないとしても――、もう少し……いや、もしかしたらこのまま墓場まで持って――もちろん、それが不可能であることは頭では分かっていた。海外旅行に行きたいと言い出すだろうし、結婚もするだろう。いずれは戸籍を取り寄せる時期がくる――だが、できるだけ長く、可能な限り“平穏”の中にいたかった。

 ……この問題から逃げているのは夫だけじゃなくて、私も同じだったのね――
 李加は、自分の心の底を覗き込んで絶望的な気持ちになった。


    +
 
 ――今は亡き双子の姉、実李のことを思い出すとき、李加には常に苦しみが付きまとう。
 
 姉の支配欲と攻撃性を知ったのは高校生の時だった。
 子供の頃からおっとり気味の自分に対し、実李は器用な優等生タイプだった。
「実李はすごいねえ、なんでもできるんだもん」
 習字、水泳、ピアノ、手芸。
 あれがやりたい、これがやりたい――そうやって始めるのは自分なのに、付き添いで付いてきた実李が追い抜いていく。
 と同時に、習い始めてしばらくすると李加はどの先生からも理由が分からない“無視”をされるようになった。哀しかったが、その頃から友達に『李加ちゃんって性格悪いよね』と面と向かって言われるようになり、どこが悪いのか分からないなりにも、とにかく気をつけよう……と思うようになった。
 けれど中学――、さらには電車で三駅の隣町の高校に行っても状況は変わらなかった。進級のたびに仲良しだった子たちから嫌われてしまう。

「ねえ、私なにかした?」
 直接聞いてみたこともあった。
「あんなに仲良かったのに、なんで急に無視するの?」
「はあ? 陰でうちらのことバカにしてたのそっちでしょ」
 それぞれ不機嫌な態度をぶつけてきた。
「私が?」
「とぼけたって無駄だから」
 皆、聞く耳を持たなかった。
 落ち込んでいると実李が相談に乗ってくれた。
「誤解を解きたい気持ちも分かるけど、離れていく人より、今そばにいる人を大切にするほうがいいよ」
「……」
 言われてみれば、そうかもしれないとも思った。
「そんな風に考えられる実李はすごいね。私はひとりで傷ついてるだけなのに」
 実李に何かを相談するといつも大人びた答えが返ってきた。そのたびに李加は自分の幼さを恥じることになった。

 高校生のある日のこと、友達以上恋人未満の時弥ときやから呼び出された。
 「修学旅行のフリー時間、一緒にいよう」
 修学旅行でつきあうカップルも多いことから、それは誰もが憧れるシチュエーションだった。
 「い、いいけど……」
 李加は真っ赤になりながら了承した。もしかしたらこの日、自分たちもカップルになるかもしれない――そう思うと恋心はさらに加速し、世界は輝いて見えた。
 けれどそれは実現しなかった。
 
 修学旅行が近づくにつれ、これまでアイコンタクトで照れ合っていた時弥と目が合わなくなった。それどころか、実李とふたりで会っているところを見てしまった。
 
 修学旅行は、何事もなく平凡に終わった。
 
「実李……、この修学旅行で、誰かに告白された?」
 我慢しようと思っていたが、やっぱり気になって仕方がなかった。
 実李は、何人かには、と笑った後で真顔を向けてきた。
「されたとしても、こんな田舎で相手決めないよ。だって私たちは東京に行って、アナウンサーになるんでしょう」
「……そうだっけ?」
 それは遠い昔、実李から『一緒にならない?』と誘われて『それもいいかもね』と軽く頷いた、他愛ないやりとりのひとつだったはずだ。
「私たちは顔も綺麗な方だし成績だって良いし、双子という話題性もある。受からない理由がないじゃない?」
 ……そう、かなあ?
 ……そんなことよりもさ、
 李加は、時弥のことが聞きたかった。
 付き合う気がないならどうして何度もふたりきりで会っていたのかと。
 
 気になり始めたら、はっきりさせずにはいられなくなった。
 李加は学校で時弥を呼び出した。
 時弥はあからさまに仏頂面だった。
「……あの、さ、なんで修学旅行の約束、やぶったのか、理由教えて」
 勇気を振り絞って聞いた。
 時弥は苛立ちを向けてきた。
「ふったの、そっちじゃん。俺のこと迷惑だって、“タイプ”じゃないって」
「……誰が言ったの、そんなこと」
「おまえが姉ちゃんに言ったんだろ、俺に勘違いされて困ってるって」
 ……!
 その言葉を聞いた瞬間、過去の自分が抱えたトラブル――小さなこと、大きなこと、傷ついたこと、納得できなかったこと――、それらがパズルのピースがはまるみたいに完成されていった。
 ……実李だったの? 
 今まで、私からいろんなものを奪っていったのは……
 まさか、そんなはずはない、だって自分たちは双子の姉妹なんだから。
 李加は混乱した。
 信じられない――いや、信じたくない。
 
 その日どうやって時弥と別れたか、続いただろう会話もなにも思い出せなかった。ただ、“人に嫌われてしまう”自分を責めた月日の苦しみが、やるせなさが、頭の中をぐるぐると回っていた。
 

    *
 
「うちらの大学はこの辺かな、ねえ、李加」
「……」
 実李はそろそろ志望校を絞ろう、と言ってきた。一緒の高校を選んだ時同様、大学もそうなることが当然だと思っている口調だった。
「入れるとこならどこでもいいけど」
 李加は慎重に答えた。

 時弥と話した後、李加は中学校時代の友達に会いに行った。
 時間が経ってお互いに少しは成長したのか、友達は以前のように李加を拒まなかった。
 そうして李加は知った。自分は、友達の『秘密』を簡単にばらす人間として認定されていることに。
「私は“あのこと”誰にも言ってない! たとえ『家族』だとしても絶対に言ってない! 信じて」
「けど実李ちゃんが、李加から聞いたって言ったよ」
「言ってない! どうして実李が知ってるのか分からないけど絶対私じゃない! 信じて!」
「……」
 友達は頷いてくれなかった。『信じて』と言い過ぎて、逆にその言葉が安っぽくなっているのをその表情から読み取って、言葉が続かなくなった。

 もしかして無意識に友達の秘密を実李に話してしまったのだろうか――と自分を疑い、打ち消し、必死に違和感の正体を探った。
 なんでも自分と同じことを始める実李……、自分の通う場所へ当然のように付いてくる実李……、髪型も洋服も、趣味さえも『李加と同じでいい』というのが口癖だった。時々、間違えて実李の物を使ってしまうから、自分のものだと分かるようにシールを貼ったり印を付けたりするが、気が付くとそれさえも同じになっていて区別がつかなくなった。 
 ……なにか、おかしい
 その日から李加は、悟られないように実李の言動に集中するようになった。
 
 ある日、いつものように日記帳を開いてぎょっとした。
 インクが出過ぎてしまった左端の個所に指紋のような模様がついていた。
 誰かが、日記帳を開いたのだ。
 ……実李だ
 証拠はなかったが、友人たちと話した内容が実李から洩れているとしたらそれ以外考えられない。
 だとすれば……過去の交換日記や手紙の類も、見られていた可能性があるのではないか。

 ……怖い、
 李加は怒りよりも哀しみよりも、恐怖を感じた。

 ……誰よりも近いところにいて一番の味方で理解者の実李。なのに裏では私の一挙手一投足を監視し、そして間接的に攻撃している。……なんのために?

 分からない分、怖かった。
 
 この日から李加は、『嘘の感情』を日記に書くようになった。
 実李を疑ったことを『勘違いだった』と訂正し、他愛のない悩みを書き続けた。
 それ以降も、実李は相変わらず李加のやることを“真似”た。自分の方が優秀で、人気者で、器用なのに。

 ……実李から離れたい、
 息が詰まる暮らしは李加の心を蝕んだ。
 ……誰も知らないところへ、行きたい
 誰にも相談できなかった。もし実李と繋がっていたら……
 誰も彼もが、実李の手先に思えた。「実李のように優しくなりなさい」そう諭す両親でさえも。

 李加は慎重に動いた。
 どこにでもついてくる実李を交わすのは簡単ではなかったが、わずかな隙を見つけては必死に自分の道を模索した。

 李加は地方都市の看護専門学校を選んだ。
 願書受付期間を一日過ぎた時、ようやく実李から解放された気がした。もうどんなに実李が望んでも願書は受け付けられない。一方で、大学受験も準備しているふりを続けた。実李と一緒に受けて、落ちればいいだけのことだったから。


 大学入試に落ちた日、実は専門学校には受かっている――と夕食の食卓で家族に話した時の、実李の表情を李加は忘れることができない。
 実李は、憎悪にも失望にも近い形相で李加を射るように見た。――裏切ったな?
 そんな声が聞こえてくるような『見知らぬ顔』に、息が止まりそうになった。

 それからは実李とひとことも口を利かなかった。
 『心配だから、実李と一緒に暮らして来年また同じ大学を受験しなさい』と、実李から言われたであろう両親の説得も拒否した。

 ――――これでようやく実李から自由になれる。
 
 李加は振り返らずに故郷を捨てた。