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夕食の後、私は物音を立てないよう階段を下り、睦美が入った浴室の気配を探った。
シャワーの音がしたのを確認し、素早く母のところへ行った。
「“ママ”、明日時間ある?」
意識的に“ママ”と呼びかけた。私の変化に気づいてほしい――その願いもあった。
ダイニングテーブルで書き物をしていた母はペンを置いた。
「あるわよ、でも麦はバイトじゃないの?」
私は小さく横に首を振った。
「大丈夫」
――明日、睦美に予定があるらしい。
今朝、朝食のテーブルで母と睦美の会話を耳が拾い、いよいよ母に真実を告げるチャンスがきた――と、心臓が早くなった。
「……えっと、外で食事しない? ふたりだけで」
いつシャワーの音がやむかと、ビクビクしながら伝える。
「ちょっと遠くに、行こう?」
「もしかして睦美に内緒なの?」
私の様子に気づいたのか、母が尋ねてきた。
「前にもそんなこと言ってたわね。ケンカでもしたの?」
「……」
私はぐっと唇を噛む。
……そんなレベルの話じゃないんだよ、
けれど今は語れない。
「そうだよ。内緒。絶対守って」
「わかったわ」
母の返事にほっとして、私はまた足音を立てないよう階段を上がって部屋へと戻った。
母に真相を話すと決めてから、私はいくつかの事実を整理した。
――母は、睦美が自分の子供ではないと知っていること。そして、
睦美を迎えに行ったのは両親だから、睦美が誰の子供かふたりは知っているはずだということ。
睦美が自分の出生について知っているかどうかは分からないこと。
母にこれまでのすべてを伝えるには、私も事実を知らなければならない。
睦美が嘘をついてでも私を虐げたかった理由はなんなのか。知ったところで何も変わらないけれど、知る権利はある。そして母の答え次第で、母が私ではなく『睦美の味方』かどうかも分かる――もしもすべてを打ち明けても母が睦美を庇うなら……私はもう、この家で暮らせないから。
今は正直、期待と不安が半分ずつ私の中で出入りを繰り返している。
だけど、母が“私だけの母”なら信じていいんじゃないかと思うし、願っている。
――そう思っていたのに、
母と車に乗って数分後、私は感情を爆発させていた。
* *
――「この前ね、睦美と成人式の着物を見に行ったのよ。麦も着物着るでしょう?」
車を走らせてすぐ、母が楽しそうにそんなことを言うのもだから抑えていた泥のような感情が足元から上がってきてしまった。
「なんで睦美とだけ行ったの」
質問ではなく、投げつけるような言葉尻になった。
「え?」
母は焦ったような顔になった。
「あ、麦も、行けた? 誘えばよかったね」
「……」
確かに私は、暇さえあればバイトを入れている。加えて母と二人で話す時間も作れていない。たまたまその日は、睦美が家にいて自然な流れで出掛けただけかもしれない。けれど……
「ママは、私のママじゃないの? なんで睦美の話ばっかり信じるのよ」
母の子供が自分だけだと知った時から独占欲が募っている。
「どうしたの? 睦美とケンカしたの?」
「そういう話をしてるんじゃないよ。ママは、私が中学でどう扱われてたか知ってたのに」
唐突に昔の話を始めた自分を、頭の中で必死に引きとめる。
“そんな話、今どうでもいい”――分かっているのに、止められない。
「授業参観で、私がクラスで浮いてたこと、気づいたのに」
――私もフォローしてるんだけど、クラスが違うからずっとは無理で……
睦美が涙ながらに喋り出した。
私は学校で『気難しくて不機嫌で、それが理由でみんなから敬遠されている』と、『優しい姉』を演じた睦美に、母はなんと言った?
――麦は家と同じようにしてるのね……
そう言って溜息を付いたのだ。
私が母の目にそう映るように行動したことを棚に上げてでも……、母には見破ってほしかったのに。
「高校の時は、もう私の人格決めつけて疑問も持たなかったっ」
不満には際限がない。
「私がそうしなきゃならなかった理由っ、……なんで真剣に探ってくれなかったのっ」
「麦?」
母はハンドルを握りながらも、興奮する私に何度も視線を向けた。
「ごめんね、麦、――なにかあったの? ママに話してくれない?」
「!」
なだめるようなその声色に、それまで我慢していた『甘えたい』という欲求が膨れ上がって、自分の意思ではどうにもできなくなった。
「今だってっ、私が“こんなに喋ってること”おかしいと思わないっ?」
これまで睦美の言いつけを守って親とは距離を置いていた。こんな風に会話がリレーすることもなかった。なのにどうしてそこに触れてくれないの?
「麦はママに怒ってるのよ、ね?」
母の困ったような戸惑った表情が、さらに私の心を逆なでした。
「は……、なんの理由で私が怒ってると思ってるの?」
「それを言ってくれないと、ママには分からないよ」
「……っ」
言葉にしなければ伝わるはずがない――そんなことは百も承知で、察してほしいと――強く願う。
「麦、ごめんね、睦美を勝手に迎えてしまったこと、ずっと許せないんでしょう?」
「……なに、それ」
導き出した答えがそれなのかと、失望の中で目をぎゅうっと閉じた。
「だけどこうしてママに気持ちをぶけてくれるってことは、麦にも心境の変化があったのよね?」
「……」
「これからは家族みんなで仲良くできるわよね?」
「……」
……落ち着いて、麦
自分で自分に声を掛けた。
母の愛を求めすぎた――その極論に、心がすうっと冷えていった。
「――――私は、睦美が家に来たときから睦美を受け入れてた。そのことママは忘れちゃったみたいだね」
もう母の答えはいらない。
だけど、過去の自分の姿が捻じ曲げられることは拒否する。
「ママは睦美の言うことならなんでも信じるんだ。実の娘のことより愛情持って育ててたもんね」
「!」
母が打たれたような顔になった。
……言ってしまった、と思ったが私の唇は止まらなかった。
「なんなら試しに言ってみてよ、……『成人式の着物、もう“麦”に用意してあげた』って」
母と睦美が『仲良し親子』をしている様子が、弾かれたように脳内に現れて私の心を荒ませる。
「睦美は哀しそうにしながらこう言うはずだから――『麦ちゃんに伝えたらそんなのいらない、絶対着ないって怒ったの』って」
心はどんどん固くなるのに、唇はどんどん滑らかになる。
「その先の言葉も想像できるよ、『そんなのよりお金が欲しい』とか『成人式に出ない』とか。あ、『買ってきたら切り刻んでやる』とかもあるかもね」
想像したら笑えてきた。
「アナウンサーより脚本家を目指せばいいのに。“妹”の言葉を勝手に創作する才能があるんだから」
「……」
言葉を止めると、車内に充満する重たい空気が一気に喉の奥に入ってきた。
母を横目で見た。
……なにか、言ってほしい、と切実に思った。
睦美の悪行を知って、一緒に怒ってくれてもいいし、泣いてくれてもいい。
母が口を開いた。
「……麦、いつから、知ってたの? だから……ママのこともパパのことも、睦美のことも怒ってたの?」
「!」
なんでそうなるの?
あくまでも私を、――私の意思で、私を根暗で陰湿で不機嫌だったことにしたいの?
ここまで言っても、睦美に怒りや憎しみを向けてくれないの?
「そんなことが、私が“こうなっちゃった”ことよりも重要?」
私は再び、我を忘れた。
「睦美が、お父さんの子だけどお母さんの子じゃないってことより?」
「!」
私が投げつけた言葉が、母を動揺させたことは間違いなかった。
母はおもわずアクセルから足を離していた。後続車にクラクションを鳴らされても周りが見えないほどに。
……間違えちゃった
私はようやく最悪な暴露になったことに気づいた。
……もうだめだ
母に味方になってほしかっただけなのに、なぜこんな方法を取ってしまったんだろう。
震える自分の指先をぎゅうっと太ももに押し付けた。
――だけど私は、この時は気づけなかった。
母もまた、過去の自分と抗えず向き合っていたことに。
