*
「――また明日ね」
「むーちゃん、気を付けて帰って」
電車を降りた麦を見送り、麗と碧だけが残った。
「……」
「……」
麦の前で保っていた笑顔が、すうっと引いていく。
「――むーちゃん、無理してたよね」
親たちの秘密を知ってからの麦は、楽しそうにしていても会話が途切れるとふっと心ここにあらず、になった。気が済むまで吐き出してくれていいのに、麦はそうしなかった。だから自分たちにできることは麦が束の間、現実から離れて思いっきり笑い、楽しめるようにどんどん会話を広げることだった。
「壊れそうだったな……」
碧が重たそうな額をてのひらで支えながら言った。
「むーちゃんを苦しませてるのは親のことだけじゃないしね」
「絶対、あの女は許さない」
碧が呪いのように言った。
昨日と今日、碧は睦美を旅行に誘って、すっぽかした。
「けど、むーちゃんで憂さ晴らしされたら本末転倒だよ」
「大丈夫。今日これから会って機嫌取るから」
罪悪感なく口にする碧が頼もしいやら、恐ろしいやら……
……本当にブレないな、と懐かしさを覚える。
綺麗な顔で、復讐を考えていた頃と変わらない。
「それにしてもむーちゃん、アオくんに何も言わなかったね」
この旅で、麦が今後のことを相談するはずだと思い込んでいた。
「俺も、むーちゃんの復讐手伝ってるって言うチャンスがこなかったこと、正解か不正解か分かんないんだ」
碧は額に手を当てて溜息を付いた。
「たださ、むーちゃんが言いたくないことを無理に言わせるのだけは避けたいし」
「言いたくないわけじゃないと思うけど。それに気になってるはずだよ、アオくんと睦美の関係とか」
麦が、睦美の胸に傷痕などなかったと知ったのだから、アパートの一室での碧の“ひと芝居”を見ていたはずだ。
なのに麦は【れいちゃんの後に私もアパート出ちゃったから】とメッセージに書いてきた。――もしかしたら盗み見をしたことへの罪悪感か羞恥心なのかと思い、そっとしておくことにしたが、果たして“こっちも”それで良かったのかどうか。
「ひとつ言えることは」
碧が急に顎を上げた。
「俺のこと意識してるってことじゃない?」
「は」
麗はずっこけそうになった。混んでいる電車の中じゃなければ碧の脇腹にチョップをするところだ。
「だから聞かないんだろ。単なる“友達”だったらあっさり聞くはずだし」
「はあ……」
麗は盛大に溜息を付いてから、話を戻した。
「この前、睦美に紹介された“光里ちゃん”って子とどうなったの?」
碧は“自分の予想”についてもっと語っていたいようだったが、無視した。
「会うって言ってたじゃん?」
「次の日会いに行ったよ」
早すぎ、と麗は思わずつっこんだ。
彼女にしてくれない碧に痺れを切らし、睦美は友人たちを待ち合わせ場所に連れてきたらしい。『わあ、カレシ?』『お似合い!』『むーちゃんをよろしくお願いします!』そんな言葉を言わせたいがために。
だがその中のひとりが、碧にこっそり連絡先を渡してきたという。
「よくよく話を聞いてみたら」
「うんうん」
「光里ちゃんが片想いしてる男友達が、睦美を好きになったらしい」
「ええー、なにそれ地獄じゃん」
「睦美は光里ちゃんの気持ちに気づいてその男を振ったらしいけど、そこが鼻についたらしい。だから俺を利用してやり返したいんだよ」
「“光里ちゃん、かわいそう”って一瞬思ったけど、自分だって友達の男に手を出そうとしてるんだし、どっちもどっちだわ」
――やだやだ、私はそんな友達はいらないね
麗は鼻先を鳴らす。
麦と離れてから麗にも友達はたくさんできた。
それでも麦との日々を忘れることはなかった。
麗が当時住んでいた家は長屋のような佇まいの都営住宅で、クラスの友達は「れいちゃんちには汚いから行っちゃだめだって」「れいちゃんがおうちに来ると汚れるから家に入れたらだめだって」と、親に言われたことを繰り返し伝えてきた。
外観は汚くとも家の中は清潔だったし、同じ服を繰り返し着ていても毎日洗濯されていたのに。
でも麦だけは違った。そのことがどれほど嬉しかったか。
そんな色褪せない思い出を記憶の箱にしまったまま、履歴書に麦の名前をみつけた日――
動揺と興奮がない交ぜになって、麗の気持ちをかき乱した。
いつかまた会いたいと願っていたのに、いざとなると燻ぶっていた感情が湧き上がってきた。……ずっと返事くれなかったのになんで今さら……
……。
――いや、理由を聞いてからにしよう
記憶の中の麦は、手紙を無視するような子ではなかった――それも事実だったから。
麦の初出勤日、麗は再会が待ちきれず麦よりも先に店に着いてしまった。
……どのタイミングで話しかけようかな
麗はあれこれと考えた。
……第一声はなにがいいかな、子供の頃みたいなハイタッチで決まりかな、でもちょっと緊張するかも……
少し離れたボックス席でそわそわしていると、麦が入ってきた。
「!」
現われた麦は、麗が想像していた“今風の女子大生”ではなかった。
……いったい、むーちゃんになにがあったの?
麦が店長とともにバッグルームへ入ったのを見届けて、麗はいったん店を出た。
……ちょっと予想してなかったな
子供の頃と同じノリで再会するつもりだったが、それは難しそうだと感じた。
バイトの時間が終わる頃、改めて店へ戻った。
ここまできたら麦の“出方”に合わせよう――そう決めて声を掛けた。
麦がまさかの、何も知らずに“うち”を選んだという事実には拍子抜けしたが、自分との再会を全身で喜ぶ姿を見ていたら、いつのまにかわだかまりが解れていた。
「私ねっ、うどんが大好きなの! れいちゃんのこと思い出すって理由もあるけど子供の頃から一番好きなの。求人情報でみつけて、ここしかない! って」
興奮する麦の口調は子供の頃と同じだった。
「採用してもらえたのも奇跡だったのに、その店がれいちゃんのお家って、こんな幸運ある?! 一生分の運、使っちゃったかも」
「……はは、は。まあ、うちも助かるしね」
このご時世、働き手は常に足らない。求人に応募があればよほど態度が悪い人でない限り店長の裁量で即決採用なのだが、せっかく誤解してくれているから事情は濁した。
「――私のこと、覚えててくれただけでも、嬉しい」
麦が視線を床に落としたときに、なにかおかしい、と思い始めていたのかもしれない。
「――アオくんのこと覚えてる?」
そろそろはっきりさせようと、頃合いを見て聞いてみた。
麦の反応はある意味予想通りだった。やはり手紙は麦の元に渡っていなかった。自分たちは長い時間、お互いを誤解して過ごしてきたのだ。
咄嗟に浮かんだのは、あの当時友人たちの親から『れいちゃんとは遊ばない方がいい』と言われていたことだ。麦の親が同じように思っていたとしても不思議ではない。……けれど毎日のように麦と遊んでいて、麦の母親から嫌味を言われたことも疎まれた記憶もなかった。
麗の母もよく言っていた。
『お医者さんの奥様なんて威張り散らしてるかと思ってたけど、気さくだし穏やかだし、むーちゃんに愛情いっぱい注いでるし、本当に素敵なお母さんだよね』
麗の印象も同じだった。
であれば、子供の友達を選んだのは麦の父親なのだろうか?
答え合わせをしたいわけではなかったから、この話はここで終わった。
……それにしても、なぜ外見に無頓着なふりをしているのだろう
化粧っ気のない素顔でも吸い込まれそうな澄んだ目や可愛らしいふっくらとした口元は隠しようがない。なのに不揃いの髪で目元を隠し、性別不詳とも言えるような服と、穴が開きそうなスニーカーやバッグを身に着けて、常に俯いている。記憶と正反対の雰囲気が麗には不思議でならなかった。
その理由がようやく分かった時、麗は泣いた。
……よくも、私の大切な友達を
たとえそれが双子の姉であろうと許すことはできなかった。
その気持ちは碧も同じ――いや、睦美と直接やりとりをしている碧の方が沸々と滾っているのかもしれなかった。
*
碧が降りる駅が近づいてきた。
「似た者同士だったのは俺たちだけでよかったのに」
碧がぼそりと言った。
「……」
碧の言葉の意味はもちろん分かっている。
離れてからも近況を報告しあっていたこともあり、互いの立場に共感するところが多かった。碧は怪我で、自分は貧しさで『青春』とは無縁だったから。
だが麦だけは、希望のように“無傷”であることが慰めだった。それなのに。
「むーちゃんには幸せでいてほしかった」
碧の言葉は子供の頃の無邪気な麦を脳裏に蘇らせた。
「むーちゃんは太陽の下で大きく口を開けて笑っているのが似合ってたね」
麗は瞼の裏に力を込める。
そんな当たり前のことすら、突然現れた姉によって奪われていたなんて。
だけど……
「大丈夫だよ、これからは私たちがいるんだから」
そう。睦美にこれ以上好き勝手はさせない。
「“復讐してやろうよ”」
子供の頃、麦と一緒に碧を励ました言葉を意識的に使った。
本当は碧の肩に手を回したかったが、満員電車の中で腕を上げるわけにはいかない。
電車がスピードを落としている。
碧は立ち上がった。お互い言葉はいらなかった。
碧は片手をあげ、麗はてのひらを振った。
【麗視点おわり】
