Silent Summer ~姉に初恋を奪われた~


   *

 決意は、じりじりと朝を待っても変わらなかった。
 
 私はいつも通り不揃いの前髪で顔を隠し、使い古したバッグを肩に掛けた。
 階段を降り、母と睦美の前を俯いて横切る。
「ごはんは?」
 母の声を背中に受ける。
 母は、私が無反応でも毎朝必ず話しかけてくる。
「……」
 何気なく振り返って母を見た。
 !
 どうせ呆れているはずだと思い込んでいたのに、母の眼差しには憂いがあった。
 ……ママはいつも、こんな風に、……私を心配そうに見ていたの?

「!」
 母の隣にいる睦美が鋭い視線を飛ばしてきた。
 私は慌てて俯く。いつもと同じに。
 そうして母に返事もせず、リビングをすり抜けて玄関のドアを開けた。


   *

 電車に乗ってから麗にメールした。
 ――昨日、麗から入ってきたメッセージに『ごめん、あとでメールするね!』と返したままになっていた。

麦:昨日、先に帰っちゃってごめん。急用ができちゃって
 嘘をついた。返信はすぐにきた。
麗:アオくんには会えた?
麦:ううん。れいちゃんの後に私もアパート出ちゃったから
麗:実は私も、あのまま店に戻ったんだ
麦:そうだったんだね
麗:仕切り直しだね

 麗が昨日、碧と睦美に会わなかったと知り安堵する一方で、あのふたりの事情や進展を知ることができず心はくすんだままになった。

麗:今日、早番だよね、よろしくね
麦:こちらこそ! それと、仕事が終わった後に時間あるかな?
麗:大丈夫だよ、遅めのランチしよ
麦:じゃあ、そのときに
麗:わかった!

 ……れいちゃんは、アオくんと睦美が会っていることを知っても私の味方になってくれるかな、
 ……それ以前に、私とアオくんの板挟みになって悩むよね、

 考える分だけ憂鬱になった。

 スマホをバッグにしまいながら、そっと決意した。
 ……ふたりのことは、私の問題が片付くまで、言わないでおこう
 
 
   *

 バイトが終わり、麗に連れられてファミレスへ向かった。
「いいねえ、むーちゃんの食欲!」
 鉄板にステーキとハンバーグとエビフライがのったメニューに大盛りライスとスープ、さらには季節のパフェを選んだら、麗が手を叩いて喜んだ。
「贅沢ランチ!」
 私は、ぐいっと顎を上げた。
 もうお金を貯める必要はないし、我慢もしない。

 料理がくる前に、私は昨日の決心を話した。碧のアパートで見聞きしたことは黙ったまま、睦美には傷痕など存在していなかったこと、自分は騙されていたことを伝えた。
 
「私ね、ずっと非公開で日記つけてたんだ」
 鬱積した感情を吐き出すだけの場所。
 睦美に騙されていたと知らなければ、永遠に隠しておいて、睦美の傷痕を治した後で葬ろうと思っていた場所。
「それを、時期が来たら公開設定にしようと思う」
「私には先に読ませてくれる?」
「もちろんだよ」
 私はURLを麗に送信した。
 『公開』すると決めた後、睦美に関連しないこと――麗や碧について書いた部分は削除した。
 
 パスワードを伝え、麗のスマホを覗き込みながらページが開いたことを確認する。
「私にできることがあったら言ってよね」
 麗は私を止めなかった。そのことに勇気をもらう。
「じゃあ、れいちゃん、さっそくなんだけど……」
「なになに!」
 身を乗り出した麗に、小さく笑ってお願いした。
「メイクの仕方教えて」
 過去、メイク用品を買ったことも使ったこともなかった。
「あと、よかったら、服とか買うのつきあってほしい」
「まかせてよ。それから?」
「お墓参り――に行ってこようと思ってる、お母さんの親、の」
 麗が、はっと思い当たった顔をした。 
「そういえば、お姉さんって……」
「うん」
 睦美が母の祖父母と暮らしていたことは麗に話してあった。
「でも住所しか知らなくて」
「お葬式とかは?」
「いつのまにか終わってたんだよね。そもそも亡くなったのもだいぶ経ってから知ったし」
 母方の祖父母とは結局会うことが叶わぬままだった。それに、睦美からも母からも祖父母の話題が出た記憶はない。――私だけが知らない何かがあるのかもしれない、と疑っている。
「もしかしたら、近所の人が家の事情を何か知ってるかもしれないと思って」
「なるほどね」
 『墓参り』というもっともらしい理由の裏には、睦美がどんな風に暮らしていたのか――なぜ睦美だけがそこで暮らしていたのか、知りたいという思いもあった。

「そのお墓参り、私も付いて行ってもいい? ついでに旅行しない?」
「……いいの?」
 ひとりでは心細く、麗に一緒に行ってほしいと頼むつもりだった。なのに先に誘ってくれるなんて。
「信越方面、行ってみたかったんだ!」
「れいちゃん、……ありがとね」
 しみじみ伝えた。
 
「外泊は大丈夫そう?」
 麗の質問に、どうだろ……、と言葉を濁す。過去、一度も外泊をしたことはない。
「当日、言おうかなって。終電を乗り過ごしちゃって漫画喫茶で時間を潰すとかなんとか……」
 母には叱られるだろうが、今の私には些末なことだ。問題は睦美の目を誤魔化せるかどうかだ。
「お姉さんが先に外泊すればいいのかな?」
「え?」
「そうすればむーちゃんが外泊したことはバレないよね」
「……うん」
 そんな都合のいいことが起きればいいけれど……。
「とりあえず運を天に任せて、買い物にいこう」
 
 ――そんなやりとりをした旅行前日のことだった。
 睦美が『明日、友達の家に泊まるね』と母に言っているのが聞こえた。
 ……!
 このタイミングに驚いたと同時に、まさか碧と……? と、黒い感情が波立った。
 
 ……それでも一晩かけ、無理矢理気持ちを切り替えた。

 朝、睦美が家を出た後で母に近づいた。
「今日、お姉ちゃん帰ってこないんだよね? 私も友達の家に泊まりに行くから」
「え?」
 母は私の外泊に動揺したようだった。
 だが睦美を送り出した手前、差別できないと考え直したようだった。
「あと、お姉ちゃんにはこのこと言わないでほしい」
 私は、一番大切なことを慎重に口にした。
「……どうして?」
「どうしても」
「……」
 母は床に泳がせた目をふいに上げた。じいっと私を見る。
「――麦、今度、ママとふたりきりで出掛けない?」
「!」
 私は随分昔に、睦美から命令されて『ママ』から『お母さん』に呼び方を変えていた。直接呼びかけることはほとんどなかったけれど、睦美との会話では『お母さん』で統一してきた。そのことを母も知っているはずだった。
「……なんで?」
 動揺が激しい。「急に、どうしたの……」
 母は弱く笑った。
「麦がこんな風にママの目をしっかり見てくれたのもひさしぶりだから、もしかしたらまた、前みたいに戻れるのかなって思って」
「……」
 遠い存在だった母が急に、自分と同じ“人”に思えた。……そう感じたことが意外で、そのことによって自分の視野がほんの少し広がっていることを自覚できた。
「……私も、『ママ』に話があるよ。だからいつか、ふたりだけで行こう」
 睦美のことで伝えなきゃいけないのは私の方だから。
「ほんとう?」
 『ママ』と呼びかけたことに自分なりの変化を込めた。それが伝わったかどうかは分からない。母の目にじわりと涙が滲んで、それを見ていたらつられそうになり視線を外す。
「うん。だからこの会話もふたりの秘密で」
「わかったわ」
 
 そうして私は静かに家を出てきた。
 
 睦美が誰と旅行に行ったのか、考え始めたら苦しくなるからなるべく考えないようにして――、
 これから始まる小さな旅を楽しみに麗と共に降りた階段の先、新幹線のホームに、碧が立っていた。