Silent Summer ~姉に初恋を奪われた~



 碧のアパートから逃げ出した後、どうやって家まで戻ったのか思い出せなかった。

 もつれる足で階段を上がり部屋のドアを閉めた瞬間、体から力が抜け落ちた。
 ドアを背にその場に座り込んだ。
 見慣れた部屋の風景が歪んで見えて、吐き気がした。

「……ねえ、どういう、こと?」
 誰もいない壁に向かって、訴えた。
 これまで必死に受け止め続けてきた睦美の憎しみは、なんだったのか……
 自分を責め続けた長い月日は?
 
 震える両手で頭を抱え、蹲った。
 睦美の言動を必死に手繰り寄せる。

 傷痕のせいでいつも肩身が狭いと、睦美は事あるごとに私を詰った。
『着たい服や水着も傷があるから着れない!』
『麦ちゃんのせいで、好きな人と長くつきあえないの悲しい!』
『友達の家に泊まりに行っても、傷見られるんじゃないかってすっごく緊張する!』

 これまでの睦美の言葉の、どこまでが嘘で、どこまでが本当のことだったのだろうか。
 必死に記憶を辿り、戻り、立ち止まるも結論はひとつだった。

「はあ……はあ、は、はは、は、ははははっは」
 気が触れてしまったのかと錯覚するほどの、激しい笑いが込み上げてくる。
「はははは――――っ」
 けれど息継ぎと同時にぴたり、と笑いが止まった。

「……なんで、騙したの」
 言葉に出すと、それが導火線になった。
 何の目的でっ?
 だって睦美は家族で、たったひとりの姉妹で、『こんなことをする理由』がどこにあるというのだろうか。
 現実が受け止めきれなかった。

「“むーちゃん”、睦美、なんでよ……」
 考えても考えても、分からない。

 ――今日から私が『むーちゃん』だから。
 わかった?

 子供だった私は睦美の要求のすべてに従った。
 許してもらうために、なんでも差し出した。
 

「……」
 これまでの日々が脳裏を流れていった。
 睦美に騙されなければあるはずだった平和な日常を想像せずにはいられなかった。……親に甘えたかった。……友達とたくさん遊びたかった。……楽しいこと、いっぱいしたかった、“睦美のように”。

「っう、うっ、ううっ」
 悔しい――なんて言葉じゃ足りない。
 あの怪我から、睦美は私が持っているものすべてを奪っていったのだ。言動も、表情も、友達も、親の愛情も。
「悔しいっ、くやっ、……くやし――っ」
 なんのために我慢し、苦しみ、罪の意識に苛まれてきたのか。睦美を恨みそうになるたびに自分を責め、卑屈になった。睦美に許してもらうことが私の人生のすべてだったのに。


「もう、いい」
 どれほど泣いても、両手の拳で床を叩きつけても、頭の中の不協和音は止まらない。
 
 片手で頭を押さえ、よろりと立ち上がった。
 ……確かなことはひとつなんだ

 私は、ゆらゆらと虚空を睨む。
 ……睦美には最初から傷跡なんてなくて、私はただ騙されていた

「――したことの責任は取らないとね」
 低い声が出た。
 いつも睦美に言われていた言葉だ。

 クローゼットの奥からクッキーの空き缶を引っ張り出した。
 蓋を開け、床にお札と小銭を広げる。
 お年玉や毎月の小遣い、学校に必要なものを買うために貰ったお金すら極力使わずに貯め続けた。
「……っ」
 数えたお金を乱暴に財布に詰め込み、入りきらないほとんどを元の缶へと戻した。
 ――冷静になれ、
 何度自分に言い聞かせたか分からない言葉をまた、呟く。
 
 ――このままでは前に進めない。
 奪われたものが二度と取り返せない過去だということは分かっている。だけどせめて私が被った泥を払い落として、可能ならば洗い流して、その泥水を睦美の足元へ――いや、もっと上まで返したい。汚く濁った泥水に浸かった睦美を見ることができたなら、私は自分の人生を取り戻せるだろうか。

 震えてきた肩に、必死に呼吸を送る。
 ……取り戻す以前の問題だ。そうでもしなければ、騙されて失ったこれまでの日々が名残惜しくて……生きていけそうにない。

 傷だらけの机に両手を置いた。
 小学生の頃から使い続けている勉強机。
「……」
 思春期になり、睦美は早々に大人びた机と取り換えてもらっていたが、私にその権利はなかった。
 部屋の中をぐるりと見渡す。
 どれもこれも、睦美がこの家にやってくる前から使っていたものばかりだった。新しく買い足したものは、体の成長に合わなくなった、この椅子ぐらいしかない。

 私は椅子を引き、へこんだシートに座った。スマホを取り出しSNSの鍵アカウントを開く。これまで自分の境遇や感情を吐き出し続けたそこに、今日の出来事を書きなぐっていく。
 
【真実を知った。
 私はずっと騙されてた】

 ひたすら指を動かした。
 書き続けるほどに、思考は鋭敏になっていった。頭の中にあるひどい出来事だけじゃなく封印した記憶も蘇り、無駄に傷つきながら、それでも記憶を整理することを止められなかった。

 
 ――タンタンタン……

 !
 階段を上がってくる足音に、強制的に集中力が途切れた。
 急いでスマホをポケットに戻した。

 いつものようにノックもなしにドアが開いた。
「ごはん」
 睦美の声は尖っていた。
「……」
 睦美の顔は見なかった。目が合えば、この怒りも悔しさも悲しさも、すべて見透かされてしまうだろう。
 私は静かに腰を上げた。
 
 私は『睦美がいないと食事をしない』ことになっていた。だから母は睦美を伝言役にして私を食卓に呼ぶ。睦美の帰りが遅い日は、鳴り続けるお腹を擦りながら部屋でじっとしているしかなかった。
 どうして睦美がそんなことまで望んだのか――すべてを知った今ならばその理由にも行き着く。睦美は、自分がいないところで私と親を接触させたくなかったのだ。いつ私が苦しさに耐えかねて、親に助けを求めるか分からないから。

「ねえ、大学生になったんだし外で食事済ませてきたら?」
「……」
「で、私より遅く帰ってきて」
「……」
 睦美はいつになく機嫌が悪かった。
 ……アオくんと、うまくいかなかった?
 何があったのか、聞きたい気持ちをぐっと我慢してただただ俯いたままでいた。

「はあ」
 大きな溜息が聞こえる。
「とりあえずさっさと食べてよ。私、今日すっごい疲れてるから早くお風呂入りたいの」
「……」
 睦美の背中を見ながら階段を下りた。