天山神は短刀を握る結の手へ視線を落とし、恐怖で冷え切った手に触れた。震えが止まらない結の指先のその上へ、そっと自身の手を重ねる。包み込むように、逃がさないように。結は熱いくらいの天山神の手の熱さに思わず息を呑んだ。
「結。」
初めてだった。天山神が名前を呼んだのは。結は驚いたように目を見開いた。
「俺は、お前を守ることはできない。」
「……天山神?」
真面目な顔。
迷鬼を前にしているからではない。もっと別の何かを決意したような顔。
「だから……。」
天山神は短刀へ添えた手に力を込め、結の手ごとゆっくりと。鞘から引き抜かせた。
……すらり。
澄んだ音が響き、露になる刀身は淡く輝く銀の刃。
その光が一瞬だけ周囲の闇を押し退けると同時に天山神の身体が光に包まれる。
「え……?」
天山神の輪郭が崩れ、光となり。吸い込まれるように短刀へと溶けていく。
「天山神!?」
目の前に居たはずの天山神の姿は何処にもなく、途端に恐怖が膨らみ、懸命に呼びかけるが返事はない。
次の瞬間、どくんっ。と心臓が強く跳ねる。
「……っあ。」
突然押し寄せてきた痛みに、心臓を抑えると身体の奥で何かが脈打ったのが分かる。握った短刀が熱を持つ。まるで意志を持って生きているみたいに。
『……結。』
途端に声が聞こえたが、それは耳からではない。頭の奥?もっと近い場所?心臓のすぐ隣?
「……こ、え?」
結の顔から血の気が引いた。まさか、これも迷鬼の……でも、今確かに名前を呼ばれた。
『聞こえているな。』
そこで、「まさか」と声を出す。
間違いない。これは、天山神の声だった。
「き、聞こえてるけど!」
結は半泣きだった。声しか聞こえないのが怖いのだ。
『なら、構えろ。』
「は?!ちょ、構え方知らない!」
『前だ。』
「だから知らな――」
いつの間に目前に迫っていたのだろう。まるで覆い被さって来そうな勢いで迷鬼が黒い靄を引きずりながら一気に距離を詰めてくる。
「ひっ!」
反射的に短刀を前へ突き出したが、当たらずに、その勢い余って身体がよろめいた。
『右だ。』
「右ぃ!?」
何とか身体を捻った直後、迷鬼の黒い腕が肩を掠め、びりぃっ!スウェットの袖が裂けた後、地面に思いっきし転がった。
「っ!」
熱い。数秒遅れて痛みが走って来て、肩から血が滲んでいき、赤いシミを作っていく。ジンジンと痛む膝。
『立て。』
「っいぃ!!」
『死ぬ方が痛い。』
「い、今それ言う!?」
結は無理矢理立ち上がるが、完全に膝が笑っていた。緊張と恐怖と訳の分からない興奮で呼吸も乱れている。怖い!逃げたい!けれど、迷鬼は待ってくれない。
再び迫り来る影。
『上だ。』
「わっ!」
咄嗟にしゃがむと、頭上を黒い腕が通り過ぎた。風圧だけで背筋が凍る。
『今だ。』
「え!?」
避けられたのも奇跡だと喜ぶのもつかの間、『刺せ。』と言われた結は、無我夢中で叫びながら短刀を大きく振るった。
「うわあああああっ!!」
銀色の刃が迷鬼を掠めた次の瞬間、運良く当たったのか黒い靄が弾け、迷鬼が苦しむように身体を捩る。
「や、やったの!?」
『まだだ。』
天山神の否定に絶望するが、迷鬼は確かに弱っていき、黒い靄が身体から零れ落ちた。
輪郭も少しずつ崩れていき、やがて気配が消失した。
「はぁ……はぁ……。」
一体倒せた事で、安堵する結は肩で息をした。
腕が痛い、肩も痛い、足も震えている。
それでも、まだ一体だ。奥にはまだまだ気配がある。
「た、倒せるかな……?」
『油断するな。』
天山神の声が響いたその時だった。
ぞわり。
結の身体が強張る。
「……え?」
さっきとは違い、比べ物にならない気配。背筋を冷たいものが這い上がり心臓が嫌な音を立てた。呼吸が止まり、天山神の声も低くなった。
『結、下がれ。』
「な、何……?」
天山神答えは無い代わりに、鳥居の向こう側の揺らめく景色の奥から。何かがヌッと現れた。大きい。
ただ大きいのではない。そこにいるだけで空気に圧がかかり、森が軋み地面が震える。周囲にいた迷鬼達がざわ付き、まるで怯えるように従うように鳴りを潜めた。巨大な影はゆっくりと姿を表していく。顔は見えないし輪郭も曖昧だ。あの鳥居と同じ様な大きさをしている。結は理解してしまった。
ー……勝てない。
あれには、勝てない!
「……っ。」
足が動かない。逃げたい。逃げなければ、死ぬ。
そう思うのに。身体が言うことを聞かなかった。
『結!』
天山神の声が響き、刀を構える暇もなく、巨大な迷鬼が腕を振り上げた瞬間。結の意識は真っ白になった。恐怖だったのか、それとも別の何かだったのかは分からない。ただ……その瞬間。
短刀を握る手から震えが消えて呼吸が静かになる。
そして、ゆっくりと刃が構えられた。

