作業場に木を削る音が響く。
龍之介は一度手を止めると、小さく息を吐いた。机の上には完成したばかりの人形が置かれている。
それは、小さな女の子の人形だった。持ち上げて角度を変えて観察し、頷く。
柔らかな表情、優しい瞳と桜の装飾を施した桃色の着物。これは、彩乃の子供へ贈るために作ったものだ。
「龍之介ー!」
大きな声の後にスパーン!と勢いよく戸が開く。
もう、驚きもしない聞き慣れた声だった。
「ったく、勝手に入るな。」
「いいじゃない。」
彩乃はそう言って笑うと、丸みを帯びた腹を撫でた。
彩乃はもうすぐ母親になるのは、昔は想像もできなかった姿だ。
「できた?」
「ああ。」
龍之介は人形を差し出すと、彩乃は目を輝かせた。
「わぁ……ありがとう。」
輝く目を浮かべた彩乃は大切に箱へ人形を仕舞う。
「礼は本人から聞くさ。」
「相変わらず素直じゃないわね。」
彩乃はクスクスと楽しそうに笑うと、そしてふと棚へ目を向けた。そこには他と違った青い着物を纏った人形が並んでいた。
一体ではない。何体も、何体も。気付けば増えていた。
「また増えたのね。」
「……みたいだな。」
龍之介自体、本当に分からないのだ。何故いつも青を選ぶのか、何故その人形ばかりを作るのか、理由は思い出せなかった。ただ。そうしなければならない気がした。
「……あ。そう言えば今日の夜飲むんだけど来る?」
「行かない」
「相変わらず即答ね。」
頭に巻いていた手ぬぐいを取って体の向きを変えた龍之介は彩乃を見上げた。風呂敷に包まれた煮物はどれも温かい。
「酒より静かな方が好きなんだ。」
彩乃は呆れたように肩を竦めた。
「また神社?」
「ああ。」
「ほどほどにね、お爺ちゃん。」
「誰がお爺ちゃんだ。」
確かに彩乃達からしたら10歳以上も年上ならばおじさんの部類になるだろうが、お爺ちゃんの年齢ではない。彩乃は笑いながら「じゃあね」と帰っていくその背中は幸せそうな背中だった。
龍之介はその姿を見送ると、静かに工房を後にした。
慣れた通りと慣れた石段を登る。一段また一段。
昔より足は重くなったし、これ位で息も上がる。
矢張り彩乃の言う通りお爺ちゃんに近い年齢迄歳を取ったものだと思う。
それでも、この場所だけは変わらない。
秋色に色付くこの場所は古いけど、静かで居心地がいい。龍之介は裏手側に周りいつもの場所へと腰を下ろした。夕暮れの町を見下ろす。
ここ数十年は特に色々な事があった。月子が亡くなった日、大吾を見送った日、真太が寺子屋の先生になった日、彩乃の結婚式、子供達の成長、町の変化、人の死と人の誕生。
沢山の時間が流れる中で、気付けば自分だけが置いていかれたような気がした。
さぁあ、と幾枚の紅葉が後ろから街の方へ流れていく。それを眺めていると、夕日が沈んで夜が降りた。そろそろ帰ろうかなと立とうとしたその時、ふわりと風が吹いた。それは、優しい風だった。
龍之介はそっと顔を上げた夜空の下。まるで雪のように光が降りていた。
それは、白銀の光。満月の日の月明かりのような輝きのその中を、青が揺れている。静かな海のようなどこまでも深い青を見た龍之介はハッとして立ち上がる。
懐かしかった。何故だろう。分からない。思い出せない。それでも、ずっと待っていた気がした。
龍之介は光の中へ手を伸ばすと、そのゴツゴツとした手を握ったのは美しい肌の少女の手で、サラリと流れてきた白銀の髪と真っ青な着物が見えた。それでも、先ず先に目に付いたのは、今にも泣き出しそうな笑顔。龍之介は優しく目を細めた。
「……ったく。」
少女の肩が震え、結局止められなかった涙が零れる。
ぽろり、ぽろりと。静かに。雨のように落ちてくるその姿に龍之介は笑った。
「待たせすぎだ。」
少女は何も言わず、ただ涙を零している。
その姿がどうしようもなく愛しかった。龍之介はそっともう片方の手で、頬へ手を伸ばし流れる涙を拭う。
「はは。」
思わず笑みが漏れる。昔からそうだった気がした。
「相変わらず泣き虫だな、お前は。」
少女は泣きながら笑った。龍之介はその顔を見つめ、そして。静かに告げる。
「俺をーー」
白銀の髪が揺れ、着物の青が波のように流れる。その姿は神々しい筈なのに、龍之介にとっては、腕の中で泣いて眠ったあの日の少女しか映っていなかった。
「お前の所へ連れて行ってくれ。」
次の瞬間には、光が溢れ白銀の羽がふわりと舞う。
龍之介の身体が光に包まれ、皺の刻まれた手が若返る。
白くなった髪が黒い色を取り戻し、重かった身体が軽くなる。曲がっていた腰はスッと伸びて、二十代の頃の姿へ変じた龍之介は、驚いて目を見開いた。
だが驚きは続かない。目の前にいる少女が、あまりにも嬉しそうだったから龍之介はその身体を抱き寄せた。
細い肩を、確かめるように。今度こそ失わないように。
強く。そして、そっと唇を重ねる。
優しく、静かに。長い約束を果たすように。
やがて唇が離れると、雨流の涙を拭った龍之介は微笑むと、額をそっと合わせた。
近い距離で優しく、穏やかに。
「おかえり、結……いいや、雨流。」
その言葉だけで十分だった。

