悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜

雨流は白銀の光を纏いながら走った。崩れゆく狭間の世界を。迷鬼の群れの中を真っ直ぐに。その光に触れた迷鬼達が立ち止まると黒い瘴気が消えていく。歪んだ身体が光へ溶けて長い苦しみから解放されるように静かに穏やかに消えていった。天山神はその背中を見つめ白銀の中を揺れる青、どこまでも真っ直ぐな光、誰一人見捨てようとしない愚かさに息を吐く。
「……本当に美しいよ、お前は。」
その声が風に溶ける次の瞬間雨流と天山神の姿が光となった。白銀の中へ溶けるように。それでも雨流は止まらない。そのまま御神木の中心へ辿り着く。
巨大な空洞は鼓動のように響く音に満たされる。深く、重く、世界の底から鳴るような音だ。
その中央に一人の存在がいた。全ての星を従える様な出で立ちの主神だった。主神は御神木へ手を伸ばしている。まるで離すまいとするように、まるで失う事を恐れるように。主神に言葉は無い。ただ音だけが響くだけ。人には理解できない音だけど、雨流には分かった。それは何故か。その意味が、その悲しみが、その孤独が。
「……壊すよ。」
雨流は御神木を静かに見上げた。再び音が響く。深くて悲しくて寂しそうに。
「だって、これが有る限り悲しみは消えないのよ。」
沈黙。また音。深く深く。孤独な音。雨流は目を閉じ、そしてゆっくりと言う。
「……一人は寂しいの。悲しいの。孤独は辛いものよ。」
その瞬間、白銀の光が集まって雨流の手の中へ。
天山神だった。だが、それは短刀では無く大太刀。本来の姿だ。月光をそのまま鍛えたような刃の柄を握る。両手で強く。そして振り上げた。御神木の核へ向かって振り下ろす。
パァン!と光が弾ける音の後、雨流の顔が歪んだ。届かない!轟音と共に世界が揺れる。御神木が抵抗する。今よりも更に根が伸びて光が弾ける。刃が止まってしまった。あと少し。本当にあと少しなのに!

その時だった。「……まったく。」と近くから聞き慣れた声がして、雨流が笑う。振り返らなくても分かった。
「私の妹は無茶をしすぎでは?」
淡くて深い翡翠の光と優しい声。羽依だった。「誰に似たんです?」の声に雨流は思わず吹き出した。
「ふふ。お兄様も同じでしょう?」
一瞬、羽依が目を丸くすると、小さく笑った。
「……そう、でしたね。」
翡翠の光が重なる。雨流の白銀へ静かに。優しく。混ざり合う。後ろから支えるように羽依はそっと自分の解放した神気を載せる。
「お兄様。」
「はい?」
雨流は御神木を見つめたまままるで当たり前の約束をするように。「……帰ったら。」白銀と翡翠が混ざる。
「みんなで甘いもの、食べましょうね!」
羽依が息を呑みその瞳が揺れる。そして、泣きそうな顔のまま笑った。声にならなくても、それでも確かに頷いた。「ああ」優しい声だった。本当に優しい声だった。
「そうだね、雨流。」

2人の力が重なり天山神を振り下ろした瞬間、世界が止まる。風も。音も。鼓動さえもが全て、一瞬だけ止まった。御神木の核に一本の線が細く走り、静かな亀裂が出来た。誰も声を上げないし、上げられない。次の瞬間御神木は消えた。呆気なく、音もなく、叫びも抵抗もなくまるで最初から存在しなかったかのように。静かに。ただ静かに、光へ還っていった。沈黙。

そして、世界が変わる。迷鬼達が立ち止まり空を見上げる。何かを思い出したように、誰かを思い出したように。その身体が光になった。一体。また一体と苦しみから解放されるように、悲しみから解き放たれるように静かに消えていく。異界が崩れて境界が消える。長い年月をかけて積み重なった歪みがほどけていく。空が、大地が崩れて世界は滅茶苦茶だった。きっと、これからが大変だろう。誰かが困し、誰かが悩む。誰かが泣くかもしれない。それでも、もう迷鬼は生まれない。もう異界で一人泣く子供はいない。もう誰かが永遠の孤独へ落とされることもない。悲しみは消えないけれど。悲しみを生み出す仕組みは終わった。
その時、光の向こうから一人の影が現れる。
主神だった。雨流は初めてその姿を間近で見る。それは、神々しい姿でも威厳に満ちた姿でもない。ただ、どこか途方に暮れたような顔をしていた。まるで帰る場所を失った子供のようで、雨流は思わず笑う。
「そんなに慌てなくても大丈夫よ。」
主神が顔を上げと、雨流はそっと横を見て微笑む。
隣には羽依がいるし、戻れば蒼炎がいる。楽羅が、樹樹が、そして天山神も。みんなそこにいる。
「これからの事は」
白銀の髪が風に揺れ動き、その中を青が流れる。
「お兄様とお父様と、皆で考えるから」
主神は何も言わずにただ雨流を見ていた。すると、雨流はそっと手を差し出す。何の迷いもなく。当たり前のように。
「だから、あなたも一緒に行きましょう?」
結の時と全く変わらないその笑顔。長い沈黙が落ち、風が吹く。どこまでもどこまでも。空は青かった。やがて、主神はゆっくりと手を伸ばし、その手が雨流の手に触れた途端、パァンと光が弾け、中から現れたのは女性のような男性のような見た目の白い長い着物を着た人だった。小さな温もりがじわりと流れてきたその瞬間。何かが終わった気がした。そして、何かが始まった気がして、微笑むと「……まったく。」と後ろから呆れた声が聞こえる。振り返れば羽依が苦笑していた。少しだけ灰色の混じった髪を掻き上げながら。
「本当にお人好しですね。」
雨流は笑うと、向こうから手を振り近寄って来た人影に気がついた。雨流もそれに気が付き主神の手を上げながら手を振ると、それに気がついた月宮様……蒼炎は驚きながらも優しく微笑んだ。どこか肩の力を抜きながら、何百年もの重荷を下ろしたように。
そして、楽羅は空を見上げていた。もう怒りは無いしもう憎しみも無い。ただ、晴れやかな静かな顔だった。雨流はそんな皆を見て、そっと息を吐いた。

風が吹き、白銀の髪が揺れる。
どこまでも青い空へ消えていく光は、長い旅路の果てに巣へ帰る鳥のようだった。