狭間の世界へ戻った雨流は足を止めた。そこは、もはや彼女の知る狭間の世界ではなかった。
空は砕け、幾重にも走る亀裂の向こうに異界が覗いている。大地は裂け、神域を満たしていた清浄な気配は黒い瘴気に呑まれつつあった。形を歪ませた迷鬼が歩き吠え空を埋める。その様は世界そのものが腐り始めているようだった。それでも、遥か先。御神木だけは輝きを無くす事なく立っている。巨大な影となり全てを見下ろすように。その足元には、一人の男がいた。篠目だった。だがその姿はもう雨流の知る篠目ではなかった。
黒い文様が身体中を侵食している。腕も首も頬も。まるで呪詛そのものが人の形を取ったようだった。翡翠の面には無数の亀裂が入り、その隙間から漏れ出る緑の炎が揺れている。迷鬼達は彼の周囲に跪くが、その王自身が今にも迷鬼へ堕ちようとしていた。ぞわりと恐れる。だが、雨流は迷わなかった。
「……お兄様!」
その声に、篠目の肩が僅かに震えるが振り返らない。
「……今更来ても遅い。」
掠れた声だった。黒い文様が脈打つ。
「お前は私の為に月宮となり、御神木を壊す役目を担うのだ。」
ゆっくりと振り返ると、翡翠の面の奥から見えるその瞳だけが痛々しいほど寂しかった。
「さぁ。こちらへおいで、雨流。」
壊れた微笑み、伸ばされた手の震える指先。
「私の可愛い傀儡――」
「お兄様!!」
次の瞬間雨流は飛び出していた。迷鬼も瘴気も呪詛も、そんなものは関係ない。そのまま篠目へ抱きつく。
「……っ!」
篠目が目を見開いて離そうと突き飛ばそうとする。が雨流は絶対離れない。
「離せ!」
黒い瘴気が暴れ、呪詛が悲鳴を上げる。それでも雨流は腕に力を込めた。
「嫌です!」
「雨流!」
「嫌です!!」
震える声は泣きそうな声だった。
「やっと会えたのに!」
篠目の身体が止まり雨流は顔を埋めると、まるで幼い子供のように。「お兄様……。」その呼び方だけで十分だった。
ー……羽依。
何百年も失われていた名前。何百年も呼ばれなかった名前。羽依。その存在を確かに繋ぎ止める呼び声の後、二人の目の前にふわりと大きな羽が二人を包む。それは、白銀の翼。夜空に広がる月光のような羽。月宮様だ。二人を覆うように、守るように抱きしめると篠目が息を呑む。
「……私は。」
震える声に黒い文様がまた広がる。
「私は迷鬼だ。既に消えかけている。」
何百年も抱え続けた絶望を吐き出すように。
「あなた達二人のいる光の中へ入る事等出来はーー」
「……すまなかった。」
篠目の言葉を遮ったのは月宮様だった。白銀の羽が揺れ、その腕が二人を更に強く抱き締める。
「羽依。」
その名を呼ぶ。父親だけが呼べる名前で。
「お前には辛い思いをさせてしまった。」
篠目の瞳が揺れ動き、蒼炎は目を伏せた。長い後悔を噛み締めるように。
「父が弱かったばかりに。」
その言葉だけで、篠目は、羽依は何も言えなくなった。
白銀の羽が広がり月宮様の神力が羽依を包み込んだ途端黒い文様が悲鳴を上げた。まるで居場所を失ったように、まるで拒絶されたように。呪詛は暴れ狂った。
「っ……!」
羽依が苦しそうに顔を歪めるが、二人は離さない。その温もりに包まれながら。何百年も身体へ食い込んでいた呪いが剥がれていく。ぱきり。小さな音が響いた。翡翠の面に亀裂が走る。一つ、また一つ。そして面は完全に砕け散った。緑色の炎が霧散すると黒い文様もまた風に溶けるように消えていく。
やがて、そこに立っていたのは篠目ではなかった。長い白の髪。透き通る翡翠の瞳。結った髪には羽を模した飾り。軽い和装。どこか蒼炎に似ていて、どこか雨流にも似ているが、その髪の一部だけは灰色だった。これは呪詛の痕。失われた時間の証は完全には戻れない。
それでも、十分だった。羽依は呆然と自分の手を見てから泣きそうな顔のまま笑った。
「……めちゃくちゃだ。」
掠れた声に雨流も笑い、月宮様も目を細めるその時だった。
「……篠目。」
楽羅が呼ぶと、羽依が振り返る。その動作で羽飾りの装飾がシャラと音を立てた。
楽羅は複雑そうにしながらも少しだけ笑う。本当に少しだけ。
「もう、やめにしよう。」
静かな声に怒りも無いし責める気配も無い。ただ、長い旅の終わりを告げるような声だった。出会った頃の彼は少なくともこんな雰囲気の男では無かった。全てを恨み呪いそれでも死ねなくなったあの時の彼は居ない。
当時を思い出しながら羽依は目を閉じると、そして小さく頷いたけれど、雨流だけは気付いてしまった。楽羅の顔に残る影を。それは救われた顔ではなかった。帰る場所を見つけた顔でもなかった。ただ、終わらせる事を選んだ顔だった。きっと、自分自身を……
「……。」
雨流は御神木、崩れた世界を見た後に楽羅を、羽依を見る。月宮様を見ると、静かに二人から離れた。不思議がる全員。
「私、ちょっと行ってきます。」
「は?」
悪戯を思いついた子供のような微笑みに真っ先に反応したのは天山神だった。スタスタと御神木に向かって進む雨流に「どこへ行くつもりだ。」と天山神。
雨流は振り返り、そして満面の笑みで言った。
「御神木、ぶっ壊してくる!」
一瞬の沈黙が落ちた次の瞬間、轟音が鳴り響く。白銀の神気が天を貫いた。
月光をそのまま形にしたような光は羽衣も、袖も、髪さえも白銀に染めて行く。月宮様がグッと膝を着いたのを羽依が支える。淡い気配が遠ざかるのに気が付きバッと雨流を見た。雨流を中心に白銀の光の中を青が流れていた。髪の先を、着物の裾を、波のように、静かな海のようにな深く美しい青が揺れている。白銀の中で決して消えない雨流という証。
その姿を見た羽依が目を見開き、月宮様が息を呑む。樹樹は言葉を失って、その光景を見る。これは、雨流の完全覚醒。次期月宮ではない。雨流の神力解放だった。その姿に天山神だけが小さく笑う。
「……やれやれ。」
呆れたように肩を竦めるが、顔はどこか嬉しそうだった。雨流が突然駆け出した。白銀の光を纏いながら、御神木へ向かって。その後ろを「待て」と言いながら当然のように天山神が追い掛けた。
世界の終わりへ。そして、新しい始まりへ向かって。
空は砕け、幾重にも走る亀裂の向こうに異界が覗いている。大地は裂け、神域を満たしていた清浄な気配は黒い瘴気に呑まれつつあった。形を歪ませた迷鬼が歩き吠え空を埋める。その様は世界そのものが腐り始めているようだった。それでも、遥か先。御神木だけは輝きを無くす事なく立っている。巨大な影となり全てを見下ろすように。その足元には、一人の男がいた。篠目だった。だがその姿はもう雨流の知る篠目ではなかった。
黒い文様が身体中を侵食している。腕も首も頬も。まるで呪詛そのものが人の形を取ったようだった。翡翠の面には無数の亀裂が入り、その隙間から漏れ出る緑の炎が揺れている。迷鬼達は彼の周囲に跪くが、その王自身が今にも迷鬼へ堕ちようとしていた。ぞわりと恐れる。だが、雨流は迷わなかった。
「……お兄様!」
その声に、篠目の肩が僅かに震えるが振り返らない。
「……今更来ても遅い。」
掠れた声だった。黒い文様が脈打つ。
「お前は私の為に月宮となり、御神木を壊す役目を担うのだ。」
ゆっくりと振り返ると、翡翠の面の奥から見えるその瞳だけが痛々しいほど寂しかった。
「さぁ。こちらへおいで、雨流。」
壊れた微笑み、伸ばされた手の震える指先。
「私の可愛い傀儡――」
「お兄様!!」
次の瞬間雨流は飛び出していた。迷鬼も瘴気も呪詛も、そんなものは関係ない。そのまま篠目へ抱きつく。
「……っ!」
篠目が目を見開いて離そうと突き飛ばそうとする。が雨流は絶対離れない。
「離せ!」
黒い瘴気が暴れ、呪詛が悲鳴を上げる。それでも雨流は腕に力を込めた。
「嫌です!」
「雨流!」
「嫌です!!」
震える声は泣きそうな声だった。
「やっと会えたのに!」
篠目の身体が止まり雨流は顔を埋めると、まるで幼い子供のように。「お兄様……。」その呼び方だけで十分だった。
ー……羽依。
何百年も失われていた名前。何百年も呼ばれなかった名前。羽依。その存在を確かに繋ぎ止める呼び声の後、二人の目の前にふわりと大きな羽が二人を包む。それは、白銀の翼。夜空に広がる月光のような羽。月宮様だ。二人を覆うように、守るように抱きしめると篠目が息を呑む。
「……私は。」
震える声に黒い文様がまた広がる。
「私は迷鬼だ。既に消えかけている。」
何百年も抱え続けた絶望を吐き出すように。
「あなた達二人のいる光の中へ入る事等出来はーー」
「……すまなかった。」
篠目の言葉を遮ったのは月宮様だった。白銀の羽が揺れ、その腕が二人を更に強く抱き締める。
「羽依。」
その名を呼ぶ。父親だけが呼べる名前で。
「お前には辛い思いをさせてしまった。」
篠目の瞳が揺れ動き、蒼炎は目を伏せた。長い後悔を噛み締めるように。
「父が弱かったばかりに。」
その言葉だけで、篠目は、羽依は何も言えなくなった。
白銀の羽が広がり月宮様の神力が羽依を包み込んだ途端黒い文様が悲鳴を上げた。まるで居場所を失ったように、まるで拒絶されたように。呪詛は暴れ狂った。
「っ……!」
羽依が苦しそうに顔を歪めるが、二人は離さない。その温もりに包まれながら。何百年も身体へ食い込んでいた呪いが剥がれていく。ぱきり。小さな音が響いた。翡翠の面に亀裂が走る。一つ、また一つ。そして面は完全に砕け散った。緑色の炎が霧散すると黒い文様もまた風に溶けるように消えていく。
やがて、そこに立っていたのは篠目ではなかった。長い白の髪。透き通る翡翠の瞳。結った髪には羽を模した飾り。軽い和装。どこか蒼炎に似ていて、どこか雨流にも似ているが、その髪の一部だけは灰色だった。これは呪詛の痕。失われた時間の証は完全には戻れない。
それでも、十分だった。羽依は呆然と自分の手を見てから泣きそうな顔のまま笑った。
「……めちゃくちゃだ。」
掠れた声に雨流も笑い、月宮様も目を細めるその時だった。
「……篠目。」
楽羅が呼ぶと、羽依が振り返る。その動作で羽飾りの装飾がシャラと音を立てた。
楽羅は複雑そうにしながらも少しだけ笑う。本当に少しだけ。
「もう、やめにしよう。」
静かな声に怒りも無いし責める気配も無い。ただ、長い旅の終わりを告げるような声だった。出会った頃の彼は少なくともこんな雰囲気の男では無かった。全てを恨み呪いそれでも死ねなくなったあの時の彼は居ない。
当時を思い出しながら羽依は目を閉じると、そして小さく頷いたけれど、雨流だけは気付いてしまった。楽羅の顔に残る影を。それは救われた顔ではなかった。帰る場所を見つけた顔でもなかった。ただ、終わらせる事を選んだ顔だった。きっと、自分自身を……
「……。」
雨流は御神木、崩れた世界を見た後に楽羅を、羽依を見る。月宮様を見ると、静かに二人から離れた。不思議がる全員。
「私、ちょっと行ってきます。」
「は?」
悪戯を思いついた子供のような微笑みに真っ先に反応したのは天山神だった。スタスタと御神木に向かって進む雨流に「どこへ行くつもりだ。」と天山神。
雨流は振り返り、そして満面の笑みで言った。
「御神木、ぶっ壊してくる!」
一瞬の沈黙が落ちた次の瞬間、轟音が鳴り響く。白銀の神気が天を貫いた。
月光をそのまま形にしたような光は羽衣も、袖も、髪さえも白銀に染めて行く。月宮様がグッと膝を着いたのを羽依が支える。淡い気配が遠ざかるのに気が付きバッと雨流を見た。雨流を中心に白銀の光の中を青が流れていた。髪の先を、着物の裾を、波のように、静かな海のようにな深く美しい青が揺れている。白銀の中で決して消えない雨流という証。
その姿を見た羽依が目を見開き、月宮様が息を呑む。樹樹は言葉を失って、その光景を見る。これは、雨流の完全覚醒。次期月宮ではない。雨流の神力解放だった。その姿に天山神だけが小さく笑う。
「……やれやれ。」
呆れたように肩を竦めるが、顔はどこか嬉しそうだった。雨流が突然駆け出した。白銀の光を纏いながら、御神木へ向かって。その後ろを「待て」と言いながら当然のように天山神が追い掛けた。
世界の終わりへ。そして、新しい始まりへ向かって。

