悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜

月宮様の声が静かに響くが、雨流は答えなかった。
答えられなかった。どうしたいのか自分でも分からない。だから、ただ一度だけ頭を下げて踵を返した。驚いた樹樹は少し慌てた様子で、天山神は静かに雨流へ続き、月宮様もそっと口元を緩めただ静かに見送った。
次の瞬間、一瞬にして景色が揺らぐと、神域の空気が遠ざかり御神木の気配が薄れていく。
そして、雨流は現世へ降り立った。見た目はそこら辺に居る様な町娘の姿で。薄い青の着物。

久しぶりの現世。頬を撫でる空気、遠くから聞こえる人々の声、夕暮れの匂い。何も変わらない。見慣れた町並み、見慣れた空、見慣れた帰り道。思わず足を止めて、空を見た。どれだけ離れていたのだろう。ほんの少しだったはずなのに、随分と久しぶりに感じた。
茜色に染まる空のその向こう側、遥か遠くからほんの一瞬だけ、何かが砕けるような音が聞こえた気がした。まるで硝子に亀裂が入るような音に町の人々は気付かない。誰も空を見上げないし、何事も無かったように歩いている。
雨流もまた、何も言わなかった。ただ静かに視線を戻して歩みを進めた。夕暮れの町は穏やかだった。
だからこそ、少しだけ胸が締め付けられた。この景色を守りたいと思った。理由は分からないけれど、そう思った。

少し進んでから、見えたそこに心臓がしれずに早く動き、少し緊張した面持ちで万事屋の扉を開くと、からん、と来客を知らせる鈴が鳴った。
「いらっしゃい。」
聞き慣れた声、雨流は思わず顔を上げると、そこには月子が居た。いつも通りの笑顔。いつも通りの万事屋。何も変わらない。奥から現れた大吾。ギュッと裾を握った。おかえりと言ってくれる……そのはずだった。
「おや。」
月子は首を傾げながら、雨流を見る。初めて見る子供を見るように。
「どこの子だい?」
「え……」
思わず「え」と声が漏れるが、月子は不思議そうな顔をするだけだった。
「もしかして、迷子かい?」
大吾も近寄って来て
「誰か探してるのか?」
と、聞いてくるその声は、知らない。本当に。何も覚えていないという声に雨流は唇を噛んで、そして。小さく笑った。
「……いえ、少し寄っただけです。」
月子はそうかい、と優しく微笑む。肯定も否定もせず。いつもの笑顔。それだけだった。そこに「結」はいないし、結を知る者もいない。雨流は「お世話になりました」と一礼すると静かに店を出た。月子の「ちょいと、あんた!?」と言う声を聞かなかった事にする様に扉を閉めた。からん、と鈴が鳴ったその音が少しだけ遠く聞こえた。

夕暮れ時の寺子屋も賑やかだった。
子供達の笑い声、走り回る足音。懐かしい声。懐かしい景色。けれど、誰も雨流を知らない。
「姉ちゃん誰だ?」
無邪気な声に雨流は笑う。
「秘密。」
そう答えるしかなかった。真太は「へんなのー」と言うと、教室の奥へ走って行ってしまった。陽の光が差し込む場所に取り残された。ここに結の居場所は無かった。
最初から存在しなかったかのように、綺麗に消えていた。

甘味処の暖簾が揺れ、店先から甘い香りが流れてきた。
何度も来た場所。何度も笑った場所。けれど……
「いらっしゃい!お客さん、ちょうど良かった!これ、私が作った新作なんです!良ければ……ーーーお客さん、大丈夫ですか?」
店主は、彩乃は首を傾げ、何も言わない雨流を不思議そうに見た。その目は初対面の客を見る目だった。
雨流は少しだけ目を伏せると「ありがとうございます」と言いながら席へ座る。
「この季節限定なんですけど、沢山敷き詰めた果物に寒天を流して固めたんです。目も味も楽しめてーー」
彩乃の説明に、小さな串に刺してある寒天を口に入れて、口いっぱいに広がる甘い味と果物の酸味に感動する。相変わらず菓子作りが得意な子だ。
「美味しい。でも、砂糖を減らして果物の味を引き立てて。それから、もう少し硬い方が食べやすいよ。果物入れる時に水分を減らしてみて。見た目を変えるなら型を変えるのもいいよ。」といつもの調子で感想を告げると、驚いた顔の彩乃が「ちょ、まって、もう1回!」と紙と鉛筆を取って言った時に、そこは誰もいなかった。唯一、机の上には美しい装飾の青と桃色の花の髪飾りが置いてあるだけ。彩乃は慌てて外に出るが、そこには誰もいなかった。

気が付けば雨流は神社へ来ていた。
石段を上る。一歩また一歩。見慣れた景色。見慣れた場所。鳥居を潜ると相変わらず境内は静かだった。
風が吹いて木々が揺れる。雨流はゆっくりといつもの場所へ向かい腰を下ろした。街が見える場所。結がよく座っていた場所。夕暮れの町はとても綺麗だった。
ここには人が居る。笑い声があるし、誰かが帰っていく。誰かが明日を迎え、結が居なくても。世界は変わらない。当たり前のように続いていくそんな世界。
「……っ」
胸が苦しかったし泣きそうだった。でも、泣けなかった。泣いたら本当に終わってしまう気がしたから、ただ空を見上げる。
「……雨流、帰るぞ。」
何も言わずに着いてきてくれた天山神の声にそっと頷いてゆっくり立ち上がる。帰ろうと思って踵を返した時、そこに居た人物に立ち止まってしまった。でも、覚えているわけがない。そんな都合のいい考えを取り払い、1つ会釈して通り過ぎようとした時、「結。」と聞こえた。聞き間違えるはずのない声に雨流の足が止まる。呼吸が止まって心臓だけがうるさく鳴った。
夕日が沈み始めていた。雨流の足元が淡く光る。時間が無い……「あ、」身体が少しずつ消えていく。龍之介もそれに気付いた。だが何も聞かなし何も言わない。ただ涙を流した雨流を強く抱きしめた。
「りゅう、のすけ……っ色々な物を見てきたの……。」
震える声は止まらない。
「嫌な事もあったし、今だって大変で……それで、分からなくなっちゃって……みんな覚えてなくて……最後にここへ来たら、貴方が……。」
龍之介が抱きしめる腕に力を込めた。
「大丈夫だ。」
雨流が顔を上げると、龍之介は笑った。泣きそうな顔のまま。「お前の好きにしたらいい。」の言葉に雨流の肩が震えた。
「……なんなら、俺も連れていけよ。」
思わず泣き笑いしながら「むりだよ」と言う。龍之介は最初から分かっていた。だから、静かに言う。
「待ってる。」
夕日が沈んでいく。雨流の体が透け始めた。
「何年でも何十年でも。」
抱きしめる腕は離れない。
「ずっと。」
雨流はありがとうも。さようならも。何一つ。言わない。最後に小さく笑い、そして光となって消えた。
夕日が沈んで境内に夜が訪れる。風の中、微かな声だけが残った。
ー……待ってて。
龍之介は目を閉じ、小さく笑った。
「……あぁ。待ってる。」