悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


「っ、ふざけんじゃねぇ!!」
競り人の怒号が響くと、我に返った妖達も一斉に騒ぎ始めた。「何だ今のは!?」「人になりやがったぞ!」「聞いてねぇぞそんな話!」競り人は顔を真っ赤にしていた。当然だ。
商品が勝手に持ち主を選んだ。しかも目の前で。例え抜ければお前のものだと言っていても。
「おい!!」
競り人が天山神を指差す。
「お前は俺の商品だろうが!」
怒鳴り、叫ぶ。だが、天山神は振り返りもしなかった。
ただ、静かに口を開く。「黙れ。」たった一言。それだけだった。競り場の空気が凍り付いて、妖達が息を呑む。競り人だけが気付かない。
「はぁ!?誰に向かって言ってやがる!」
引かない。いや、引けなかった。今更引けば幽世の笑い者になる。だから愚かだとしても叫ぶ。
「俺が金を払った!俺が管理してた!俺のもんだろうが!」
その瞬間、ぞわりと空気が震える。競り人の顔から血の気が引いた時には遅かった。

付喪神。それも千年を越える神刀の殺気を真正面から浴びてしまったのだ。
「ぁ――――」
競り人の喉が引き攣り足が震える。声が出ずに呼吸も出来ない。ただ、圧倒的な恐怖だけが全身を支配していた。そして、白目を剥いて泡を吹くとそのまま音を立てて倒れ込んだ。
静寂の後、競り場に居た妖達が一斉に後退る。誰も近付こうとしないし、誰も声を出せない。競りどころではなかった。
「行きましょうか。」
篠目が目を細め、何事も無かったように言うと、楽羅は呆れたように息を吐く。
「最初からこうなると思っていた。」
「でしょうねぇ。」
雨流は小さく苦笑したその横で天山神だけが当然のような顔をしている。そして四人は競り場を後にした。誰も引き留めないし、引き留められない。それだけの存在がそこに居た。

門を潜った、幽世と狭間の世界。
懐かしい空気、御神木の香り、静かな風。
そして、社の前に立つ一人の男は、月宮様だった。
天山神の足が止まる。
「……。」
長い沈黙には、千年以上の時間がそこにあった。妖だった頃の蒼炎、神となった蒼炎、月宮となった蒼炎。その全てを知る最後の刀だった。琥珀色の瞳が細められると、「……変わったな。」と静かな声。それだけだったけれど、その一言に月宮様は微かに口元を緩める。懐かしい声を聞いたように、懐かしい時代を思い出したように、そしてーー
「そうだろうな。」
それだけの短い返答。否定はしないし、言い訳もしない。ただ受け入れる。自分が変わった事を、歩いてきた時間を、失ったものを、得たものを、全て含めて。そうだろうな、と。
それに対して天山神は何も言わなかった。その返答だけで十分だった。そして、ゆっくりと視線を動かす。雨流の隣の笑みを浮かべる男へ、篠目へ。その姿を見た瞬間、天山神の目が僅かに細められた。
「そして」
空気が一瞬で変わる。先程までの穏やかな空気が消え、楽羅が眉を動かし雨流も首を傾げるのに対し、篠目だけが笑っている。
「なぜお前がここにいる。」
静かな声だったが、その声音には明確な警戒があった。篠目は肩を竦め「おや。」と楽しそうに笑うのに、天山神は笑わない。琥珀色の瞳が篠目を見据える。見間違えるはずが、忘れるはずがない。
「……雨流を異界へ落としたのは」
低い声、冷たい声、そして。
「お前だろう。」
沈黙が落ちた。樹樹が目を見開くと雨流も息を呑む。
だが。篠目は驚きもしなかった。ただ困ったように笑うと「上手く隠していたんですけどねぇ。」とあっさりと認めた。雨流の肩が揺れる。
「篠目さん……?」
呼びかけても篠目は答えない。その代わり、静かに右手を持ち上げた。上へ向けられた掌の中心からふわりと緑色の炎が灯る。
「既に始まっている。」
ぞわりと悪寒が走った。雨流だけではない。天山神も樹樹も空気そのものが震える。
「……君の覚醒は。」
篠目は雨流を見るその目には笑みも優しさも無かった。
「ただの一端に過ぎないんだよ、雨流。」
「何を……」
「さぁ。」
篠目が微笑む。その笑みはどこか寂しかった。
「最後の仕上げに向かいましょう。」
次の瞬間、緑色の炎が空へ投げられ、轟音が響き空間そのものが悲鳴を上げた。狭間の世界を覆っていた結界が、まるで紙のように裂けると空へ巨大な亀裂が走った。
「なっ――!」
樹樹が言葉を失い、雨流も目を見開く。
「なに……なにしてるんですか、篠目さん!」
叫ぶが、篠目は首を傾げるだけだった。
「なに?」
不思議そうに。本当に不思議そうに。
「まだ気付かないんですね。」
「……?」
「やはり。君は私と同じになってしまったのですね。」
緑の炎が揺れ、雨流の背筋を冷たいものが走る。
「愚かで何も知らなかった、あの時の私と同じ。」
炎を浮かべ、ふわりと消すと、現れたのは翡翠(かわせみ)の面を見た瞬間雨流の口から声が漏れた。
「あ……れ……」
知らないはずなのに知っている。あの時は……そこまで考えて胸の奥が痛んで、ギュッと手で抑える。
その面を見た月宮様も静かに歯を食いしばった。篠目は翡翠の面を顔へ当てゆっくりと微笑んだ。
「では、また後日」
緑色の炎が足元を覆い、その視線は月宮様へ。そして雨流へと流れると
「戦場で会いましょう。」
炎が爆ぜ、その姿が消える。楽羅と共に。残されたのは静寂だけだった。

結界が破られた空に走る亀裂。遠くから聞こえる悲鳴はどこの世界のだろう。
放たれた数多の迷鬼の気配に樹樹は青ざめていた。雨流も駆け出そうとするが、「雨流。」と静かな声が聞こえ振り返ると月宮様だった。
そこに焦りも怒りも無い。ただ静かに御神木を見上げている。
「お父様!」
「私にはーー」
そこで言葉が止まる瞬間、地面が震える。
ー……ガシャンッ!
地面を突き破るように現れたのは鎖だった。
一本、また一本、さらに一本と重たい鉄の鎖が月宮様の身体へ巻き付いていく。腕、足、胴。そして白銀の翼。
それら全ては、まるで罪人を拘束するように。
「っ……!」
樹樹が息を呑み、雨流も言葉を失った。天山神だけが静かに目を細めると「……そういう事か。」と言い放つ。その姿に月宮様は苦笑した。
「ずっと隠していたのだがな。」
鎖が軋んで、重たい音を立てる。
「私にはもう、あれを止める力がない。」
その視線の先には御神木があった。神域を支える大樹、そして全ての始まり。「少し。」月宮様は静かに目を閉じた。
「昔話をしようか。」

今よりも昔。千も万も昔の話。
蒼炎は自由を愛した鳥の妖だった。風の向くまま空を飛び、気が向けば山を越え、眠くなれば木の上で眠る。そんな妖だった。誰よりも強かったが、傲慢だった。誰にも縛られない、誰にも命令されない。それが蒼炎だった。だが、ある日突然大きすぎる力に呼ばれた。
抗う間もなく引き寄せられ、気が付けば見知らぬ世界に立っていた。
「なんだここは。」
青のような緑のような目をぎらつかせながら、そう言った事だけは覚えている。
目の前には巨大な御神木。見上げる程の大樹と、そしてーー主神(しゅしん)。全ての世界を司る世界の神だ。
『今日よりお前を月宮とする。』
意味が分からなかった。男とも女とも大人とも子供とも言えぬ声。全ての星を人型に象った見た目の主神が現れたのは後にも先にもアレだけ。
「……断る。」
主神が消えたあと、取り残された蒼炎の答えは否。
だが、断れなかった。気が付けば役目は与えられ。妖力とは違った大きな神力が身体へ流れ込み逃げ場は無くなっていた。その日から、蒼炎は「月宮様」になった。
そして、長い間ずっと共にあった大太刀の天山神は封じられた。唯一共にあった刀。唯一気を許していた存在のその姿は消えた。
「……面倒な事になった。」
本当に、心の底から思った。だから何度も逃げた。狭間の世界から抜け出そうとした事は一度や二度ではない。
何十回も、何百回も、何千回も……だが、出られなかった。結界は蒼炎を拒んだ。月宮という役目は蒼炎を離さなかった。そんな蒼炎の元へ送り込まれたのが、樹樹だった。
小柄な神使はよく働き、よく喋り、そしてよく叱った。
「月宮様、働いてください。」
「嫌だ。」
「駄目です。」
そんなやり取りを何度繰り返したか分からない。蒼炎は全てを諦め始めていた。ここに、愛していた自由は無く、天山神も居ない退屈な世界だった。だが、ある日突然その退屈は終わった。
何処かからか小さな泣き声が聞こえたのだ。狭間の世界で生まれた子供。神力を宿した子供の事を蒼炎は最初何も思わなかった。ただの子供だ。生きていても死んでいても関係ない。そう思っていた。だが、気付けば見ていた。何故か目で追っていた。赤子は動かない。それでも、笑えば安心した。理由は分からなかった。今思えば。最初から答えは決まっていたのだろう。その子は。蒼炎の神力を受け継いでいた蒼炎の子だった。ある日蒼炎が昼寝をしていると、羽を掴まれた。
ここに来てから色を変えた白銀の羽。その一本を小さな手がぎゅっと握っていたのだ。
いつの間に四つ這いが出来るようになっていた?
「……おい。」
無理矢理離そうとするが、離れない。もう一度引っ張るが、離れない。終いには……ぶちっ!
「いっってぇな!」
白銀の羽が一本抜けたのが、余程楽しかったのか、子供は楽しそうに笑っていた。その逆に蒼炎は呆れた。だが怒れなかった。むしろ、つられて笑ってしまった。不思議だった。何故こんなにも愛しいのか、何故こんなにも気になるのか。その答えを知る前に。蒼炎はその子へ名前を与えた。
「……羽依(うい)」
初めてだった。誰かに名前を与えたのは、初めてだった。誰かを抱き上げたのは。そして、それが最後だった。もう一度名前を呼ぼうとした瞬間、世界が揺れて空間が裂けた。抱いていた子供の身体が光に包まれる。
「……羽依!?」
返事は無く、小さな身体は一瞬にして蒼炎の腕の中から消えた。異界へ流されたのだと悟り、蒼炎は探した。
狂ったように御神木を越えて異界へ行こうとしたが、出来なかった。地面から現れた鎖が。腕を。足を。翼を。
全てを縛ってしまったからだ。
そして、何百年ぶりかに現れた主神は言った。
『神は個を愛してはならない。』
その声は冷たい。
『神は全を愛するべし。』
蒼炎は目を見開いて拳を握るだけで何も言えなかった。
言葉が出なかった。ただ、見下げた腕の中だけが空っぽだった。初めて抱いた子供。初めて愛した存在。その温もりだけが消えていた。それから何百年も何千年も。行ける範囲で探したし、待った。信じ続けた。そして今、ようやく分かった。あの日失った子供は。ずっと探し続けた存在は……月宮様はゆっくりと顔を上げ見えない瞳で遥か遠くを見るように、静かに告げた。
「あの子は、私の息子。」
その声に迷いは無い。
「あの子は……羽依だ。」
長い年月を越えて辿り着いた確信は、父親だけが持つ確信へ。
「間違いない。」

どことも知れぬ異界で、空も地も境界すら曖昧な世界に、緑色の炎だけが静かに揺れている。
楽羅は黙ったまま歩いていた。篠目もまた何も言わない。しばらくしてから、楽羅が口を開く。
「……後戻りは出来んぞ。」
「ええ、そのつもりです。」
「何故そこまでする。」
楽羅が篠目を盗み見る。短い問いに篠目は足を止めた。異界の果てを見るが、そこに何もない。本当に何もない世界は、自分が育った場所だ。その光景を眺めながら静かに笑う。
「そうですねぇ。」
いつもの口調にいつもの声。だが、その奥にあるものだけが違った。
「一人は、さみしかったんですよ。」
楽羅は何も言わないし、言えなかった。篠目は笑うけれど、その目だけは少しだけ寂しそうだった。
「……何も無かった。名前も。家族も。居場所も。」
緑色の炎が揺れ、その光が翡翠の面を照らした。
「だから。」
篠目は空を見上げる。
「終わらせたいんです。誰も私みたいにならないように。」
異界の風が吹く。誰もいない世界に、その言葉だけが静かに溶けていった。