幽世への門を潜る独特の空虚は、未だに慣れない。
視界が揺らいだ次の瞬間、鼻を突いたのは酒の匂いだった。次に怒号、笑い声と獣の唸り声に様々な音が入り混じる。雨流は思わず足を止めた。
「……。」
それを見渡すと、異様な光景だった。
この場に妖が溢れている。角を持つ者、獣の耳を持つ者、人にしか見えない者。その全てが当たり前のように行き交っていた。でも、雰囲気はあの通りの祭りの雰囲気よりももっと野蛮じみている。
「雨流さん。」
篠目の声に振り返ると、先程までの柔らかな笑みは消えていた。
「私たちから離れてはいけませんよ。」
珍しく真面目な声だった。
「そうだな。」
楽羅も周囲を見渡す。その姿は、先程とは違い優しさが全て取り払われている。
「お前の常識が通用する場所ではないからな。」
雨流は小さく頷いた。
「……はい。」
その返事に二人は僅かに安堵し、歩みを再開させた。しばらく歩居ていると、雨流の視線は自然と周囲へ向いた。檻、鎖、読めない値札、最初は何かの商品だと思った。だが違う。檻の中に居たのは「人」だった。少し変わった妖も居る。種族が分からない子供も居るのに、その光景に誰も驚いていないし、誰も気にしていない。それがこの場の当たり前だからだ。思わず雨流の足が止まる。
「商品です。」
篠目が静かに言った。まるで心を読んだように。
「人も。妖も。価値があれば売られます。」
雨流は何も言わない。ただ見つめ、やがて。小さく目を伏せた。
「……嫌な場所ですね。」
その言葉に楽羅が鼻を鳴らした。
「嫌でも存在する。「こういう場」は無くならん。」
短い言葉だった。それ以上は語らない。だが、その言葉にはどこか怒りが込められていた。
やがて通りの先に巨大な建物が見えた。異様な熱気、歓声、叫び声、金の匂い……欲望の匂い。
「着きましたよ。ここが、競りの会場です。」
雨流はその建物を見上げた時、胸の奥で微かに琥珀色の気配が揺れたのに気がついた。
まるで、早く来いと言うように。
競り場の中は異様な熱気に包まれていた。
酒の匂い。血の匂い。獣の匂い。様々な臭いが混ざり合い空気そのものが重くて雨流は思わず眉を寄せる。
怒号が飛び交い、笑い声が響く。
値を吊り上げる声と商品を品定めする声。
雨流は黙ったまま歩いていた。篠目と楽羅を見失わないように。それでも、周囲を見ないようには出来なかった。檻の中で膝を抱える少女、鎖に繋がれた妖、値札を首から下げられた青年、誰もそれを異常とは思っていない。それがここの当たり前だからだ。
「……。」
雨流は視線を伏せると、胸の奥が重くなる。嫌な場所だ。本当に嫌な場所だった。
だが、その時胸の奥が小さく震える。
カラン。
鈴のような音。
「……!」
パッと顔を上げる。居る。近い。今までとは比べ物にならない程近くから、天山神の気配を感じ取った。
「気付きましたか?お見事ですよ。」
篠目が横目で笑うと、雨流は小さく頷いた。
「……はい、近いです。」
「ええ。」
「恐らく最奥だ。」
楽羅が短く答えると、三人はさらに奥へ進む。競り場の喧騒が大きくなる。歓声、怒鳴り声、笑い声。
そして、高く設けられた競り台の近くには多くの妖が集まり、一つの品を囲んでいる。
「次の商品だ!」
競り人が叫ぶと、歓声が上がる。妖達が身を乗り出すその中央の競り台の上に見えた物に雨流の足が止まる。
黒い鞘だ。
「……。」
時間が止まった気がした。ずっと探していた。ずっと追い続けていた。雨の日も、夢の中でも気配を辿り続けたその存在が、今目の前にある。
ー……カラン。
胸の奥で鈴の音が鳴り、競り人が天山神へ手を伸ばしたその瞬間だった。
「それはーーー」
静かな声。決して大きくはないが、不思議なほどよく通った事で、競り人の手が止まる。妖達が振り返り、篠目も楽羅も驚いた顔のまま何も言わない。ただ見ていた。
「私の……」
雨流は真っ直ぐ競り台を見る。その青い瞳にはもう迷いは無かった。
「触れる事を。」
一歩、前へ出る。
「誰が許しましたか。」
競り場が静まり返った。ざわついていた空気が凍り付くが、競り人は目を瞬かせた後に豪快に笑った。
「嬢ちゃん。」
ニヤリと口を歪める。下卑た笑みに雨流は一切表情を変えない。雨流に近寄らせない様に楽羅が牽制。競り人がそこから近寄らなくなり、天山神を指さした。
「こいつぁ今や、俺の商品だ。」
雨流は首を傾げた。本当に不思議そうに。
「違います。それは私のです。」
静かな声は絶対に譲らない声。
「返しなさい。」
妖達が笑った。怒った。馬鹿にした。あちこちから野次が飛ぶと、競り人がニィと笑った。
「なら持っていけ!」
雨流がピクリと指を震わす。
「嬢ちゃんに、抜けるならな!」
競り人の言葉に観客達がザワついた。
「その刀は抜けねぇ。何十人と試した。」
競り人が鼻で笑い「ほら。」と天山神を持ち上げる。沸々と形容し難い感情が膨れ上がる。
「やってみろよ。この刀は鞘から一寸も抜けねぇ。抜けたらその使えねぇ刀は、お嬢ちゃんのもんだ。」
自信に溢れる競り人が台に天山神を戻し、馴染みのある鈴が鳴ったのが聞こえた瞬間、この場の音が一切遮断された。
『……何しに来た。』
雨流の瞳が僅かに和らいだ。

