悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


目を開くと、最初に感じたのは温もりだった。柔らかな羽毛と優しく包み込む気配に、雨流はゆっくりと瞬きを繰り返す。

白銀の翼。大きな羽。自分を守るように包み込んでいるそれを見て、自然と口元が緩んだ。
「……おとうさま。」
「起きたか。」
静かな澄んだ声だった。月宮様は雨流の傍らに座っていた。見えないはずの瞳がこちらへ向けられ、雨流は少しだけ身体を起こした。
「無茶をしたそうだな。」
その言葉に視線を逸らす。覚えがあり過ぎた。
「……見つけました。」
小さく呟くと、月宮様の羽が僅かに揺れた。
「そうか。」
それだけだった。叱責も責める言葉も無い。ただ、そこには安堵だけがあった。
雨流は目を閉じる。不思議な感覚だった。育ての親である陽人も、深琴も。現世で出会った大吾も、月子も覚えている。全部覚えている。忘れてはいない。なのに、少しだけ遠い。
まるで昔の夢のようだった。胸の奥へ手を当て、そこにはまだ残っている事に安堵した。
大切な思い出も、家族も、十六年も。だけど自分はもう結だけではない。雨流だった。最初から、ずっと。
「……おとうさま、行ってきます。」
ゆっくりと立ち上がると、月宮様は静かに「気を付けなさい」と言うと、名残惜しそうにそっと翼を揺らした。
それだけで十分だった。ここから先は雨流が解決しなければいけない問題だからだ。

雨流は部屋を出ると、その廊下の柱に寄りかかって待っていた2人の気配に気がついた。
「体調は?」
楽羅が問い、雨流が笑う。
「大丈夫ですよ。」
「大丈夫そうな顔ではありませんが。」
篠目が苦笑すると、雨流は少しだけ首を傾げた。
「そうですか?」
「そうです。」
即答だった。

三人は社の廊下を歩く。
御神木の中に築かれたその場所は静かだった。
吹き抜ける風と遠くで鳴る鈴の音、差し込む柔らかな光。楽羅を先頭に篠目と雨流が並び
三人は幽世へ向かう為に社の奥を進んでいた。
「場所は分かっていますか?」
「はい。」
雨流が頷き「幽世ですね?」と言うと、頷く篠目が「その通りです。」と、答えた。
どうやら眠っている間に天山神を探ってくれていたようだ。
「現在、天山神は幽世の競りへ流れ着いています。」
「競り?」
「売買の場だ。」
首を傾げた結に答えたのは楽羅だった。
「妖も。呪具も、人間も売られる。幽世の競りに売れない物は無い。」
雨流は思わず眉を寄せた。
「……ひ、人も?」
「そうだ。」
即答だった。それがあまりにも当然のように。
「買い手が付けば生きる。付かなければ死ぬ。競りとはそういう場だ。」
雨流は少しだけ黙ると、嫌な場所だと思った。だが、今はそれよりも気になる事がある。
「天山神もそこで売られているんですか?」
「はい。ですが、正確には売れ残っています。」
「???」
篠目は肩を竦める。
「価値の分からないものほど欲しがる者は居るものです。それに。天山神は少々特殊ですからね。」
雨流は黙ったまま聞いていた。胸の奥にある繋がりは今も消えていない。遠く、遥か遠くに琥珀色の気配だけが伝わってくる。少し不機嫌そうに、少し拗ねたように、少し不安そうに。それは、相変わらずだった。思わず小さく息を吐くと、「取り戻します。」と静かな声だが出た。そこに迷いは無い。篠目が目を細め楽羅も何も言わない。その答えを待っていたからだ。
「なら行くぞ。」
改めて進み出した時、不意に篠目の足が止まる。
「……?」
自分でも理由は分からなかった。ただ、何となく。視線が向いた。廊下の奥、閉ざされた襖。使われている気配のない部屋。
それだけ。本当にそれだけだった。
「……。」
胸の奥が妙にざわつく。懐かしいような、寂しいような。そんな感覚だけれど、理由が分からない。篠目は僅かに眉を寄せた。
「篠目さん?」
横を歩いていたはずの雨流の声が前から聞こえ、はっと我に返った。
「え?」
そこには不思議そうな顔をした雨流がいた。篠目は一度だけ襖へ視線を戻したが、何も無い。何も分からない。だから「……いえ。」と小さく笑う。
「何でもありません。」
「……置いていくぞ。」
すこし先で止まる楽羅の声が飛ぶ。
「ああ、それはいけませんね。」
篠目は肩を竦め、再び歩き出した。雨流もそれ以上は聞かない。三人の足音が遠ざかっていく。
残されたのは、閉ざされた襖だけ。静かな廊下と誰も居ない部屋。