楽殿には未だ微妙な空気が流れていた。
篠目は笑いを堪えようとして失敗しているし、雨流は納得がいっていない。そして楽羅だけが頭を抱えていた。
「……不貞腐れている事は分かりました。」
雨流が真顔で言うと「それは良かった。」と楽羅は全く良くない顔で答えた。
「良くないです。」
「そうだな。」
しばらくの沈黙、やがて楽羅は小さく息を吐いた。
「だが、今ので一つ分かった。」
雨流が顔を上げる。
「お前は天山神を見つけた。」
「……はい。」
ー……そらされたけど。
「だが、それだけだ。」
「?」
不思議そうな雨流を見ながら楽羅は静かに続ける。
「霊力探索には段階がある。」
風が吹いて白い布が揺れると、鈴が小さく鳴った。
「一つ目は見つける事。」
楽羅は指を一本立てた。
「そして二つ目。」
指もう1本立てて、そのまま雨流を見る。
「掴む事だ。」
「掴む……。」
雨流はその言葉を繰り返した。
「霊力は流れるんだ。離れるし、隠れる。先程の様に逃げる。」
静かな声が神楽殿へ響く。篠目は未だに笑っている。
「だから見つけただけでは意味が無い。」
楽羅は立ててた指を曲げて、拳を握った。
「捕まえるんだ。逃がさない様に、見失わない様に。」
その言葉に雨流は自然と息を呑んだ。楽羅は少しだけ目を伏せると、その横顔はどこか寂しそうだった。
「二度と離さないようにな。」
優しく風が吹いて鈴が鳴る。雨流は黙っていた。
何故だろう。その言葉だけが妙に胸へ残って、二度と離さない。二度と失わないという言葉には、まるで誰かを失った事がある人の言葉だと思ってしまった。
「……もう一度だ。今度は掴め。」
雨流は静かに頷くと、再び目を閉じて呼吸を整える。
遠く、遥か遠くの琥珀色の気配を探す。居る。確かに居た。相変わらず不機嫌そうな気配。だが、今度は違う。見つけるだけじゃない。
掴む。逃がさない。
その瞬間、神楽殿に風が吹き荒れた。
ゆらゆら揺れていた白布が大きく舞い上がり、鈴が強く鳴り響く。
シャン
シャラン
シャランッ
強い霊力が雨流から溢れ出したのだ。
楽殿に風が吹く。揺れる白布。響く鈴の音。雨流は静かに目を閉じていた。
遠く、遥か遠くの琥珀色の気配を探る。
見つけた。確かに居る。だが今度は違う。見つけるだけでは意味がない。掴む。逃がさない。絶対に見失わないと、楽羅の言葉を思い出す。
『捕まえる。』
『逃がさない。』
『見失わない。』
『二度と離さないようにな。』
その言葉が胸の奥へ沈んでいくと、雨流はゆっくりと息を吸った。そして、手を伸ばす。
霊力へ?いいや、天山神へ。その瞬間だった。
ゴォッ!!!
神楽殿を強風が吹き抜け、白布が一斉に舞い上がり、激しく鳴り響く鈴の音。
シャン、シャン!
シャラン、シャンシャン!
シャランッ!!!
まるで嵐だった。
雨流から溢れ出した霊力が楽殿を満たしていく。淡い青白い光は夜空の星々を砕いて散らしたような輝き。
篠目の笑いが止まり、楽羅も息を呑む。
目を閉じている雨流だけが知らない。今、この場に満ちている霊力がどれほど異常なのかを。
「……。」
遠くに確かに感じる。天山神は、雨流の気配に逃げようとしている。離れようとしている。それでも、今度は離さない。
雨流はゆっくりと目を開いた。その瞳を見た瞬間、篠目も楽羅も言葉を失った。
青。美しい青。けれど普段の青ではない。
夜空に散る星々を閉じ込めたような輝きは深く澄み渡りどこまでも美しい青だった。
雨流は真っ直ぐ前を見ると、その視線の先の誰にも見えない場所で、琥珀色の瞳がこちらを見ていた。
「……離さない。」
静かな声がこの場に響いた。
不思議なほど強い決意の声は願いではない。宣言だった。
「もう二度と。」
霊力がさらに膨れ上がり、白布が激しく揺れた。鈴が壊れそうな程鳴り続ける。
「離れる事をーーー」
胸が痛んだ。身体が悲鳴を上げる。それでも止まらないし、止めない。雨流は真っ直ぐ前だけを見つめた。
「許可しない。」
その言葉が遠く、遥か遠くの離れた場所へ届いた瞬間、琥珀色の瞳が揺れた。
不機嫌そうに、拗ねたように、相変わらずこちらを見ようとしない。
けれどその瞬間、ほんの少しだけ。ほんの少しだけだった。天山神が振り返る。
青と琥珀の二つの視線が重なった。
本当に一瞬、けれど確かに。天山神は振り返ったのだ。
雨流の瞳が僅かに細められ、見つけた。そう思った瞬間だった。
ぶつり。
何かが切れる音がした。
「あ……。」
視界が揺れ、身体から力が抜けていく。霊力が弾けるように霧散すると、鈴の音が遠ざかる。舞い上がっていた白布が落ちていき、世界が元の明るさへ。
「……っ雨流!」
篠目の声が聞こえる。けれど、もう何も見えない。最後に感じたのは、遠く。本当に遠く。それでも確かに存在する琥珀色の気配だった。
そして雨流の意識は静かに闇へ沈んでいった。

