神楽殿には静かな風が吹いていた。
天井から幾重にも垂れ下がる白い布が揺れるたびに光を透かし、まるで雲の中に居るようだった。布の隙間からは御神木の枝が見える。心地の良い鈴の音と葉擦れの音。ここは、とても穏やかな空間だった。
その中央へ座る雨流は自然と背筋を伸ばし膝の上に手を置いて姿勢を正すと、その感覚が少し懐かしかった。
まるで学校の授業を受ける前のようで、雨流は小さく目を細める。結として生きた十六年は、今も確かに自分の中にあった。
「結さん……いいえ、雨流さんは、霊力についてどれ程ご存知ですか?」
篠目の問いに、雨流は静かに首を横に振った。
墨色の髪が静かに揺れる。
「……いいえ。」
「では、そこから話しましょう。」
篠目は静かに目を細める。
「まずーーー」
霊力とは存在そのものである。
妖にとって妖力が命であるように。
神にとって神力が存在そのものであるように。
霊力もまた同じだった。
名を持ち、形を持ち、世界に存在する為の根源。それが霊力。例え現世に、住む普通の人であっても少なからず霊力は持っているものだ。故に、失われれば存在は薄れて、名は薄れ、やがて己を失う。それこそが迷鬼。
名を失い、存在を失った者達だった。
「なら、私は霊力が空っぽの状態だから、気配が薄いんですね。」
今朝方、月宮様は確かにそう言った。
『気配が薄いな』と。視力を失った月宮様は気配で世界を知る。だからこそ分かったのだろう。今の雨流が不完全だという事を。
手を伸ばした月宮様へ、雨流は自らその手を掴みにいった。ここに居ると伝えるように、安心して欲しいと願うように。
「でも、篠目さんは何でそんなに詳しいんですか?」
雨流はそっと立っている篠目を見上げた。
「霊力の事だけじゃない。迷鬼の事、存在の事、異界とか現世とか……そんなに詳しいなんて。」
篠目は少しだけ黙る。珍しく、本当に珍しく考えるような間があいた。
「そうですねぇ。」
揺れる布を見上げる篠目。
「必要だから、ですかね。」
「必要?」
「そうですよ。」
篠目は静かに笑った。だが、いつもの顔ではない。
「生きるのに、必要だからです。」
それ以上は語らない。雨流も追及はしなかった。聞いてはいけない気がしたからだ。すると、篠目はふっと表情を消し、先程までの空気が切り替わる。
「では、始めます。」
雨流は自然と姿勢を正した。その仕草がまた少しだけ懐かしい。篠目は静かに口を開く。
「……天山神を探してください。」
雨流は瞬きをした。
「……えっと、どうやって?」
「そうですねぇ。」
篠目は少しだけ考え、そして。
「雨流さん。」
静かな声で問い掛けた。
「天山神の気配は覚えていますか?」
雨流は考える。黒い鞘、体の上へ置かれた短刀、触れると何故か安心した存在、十六年間ずっと傍にあったもの。
「……覚えていると思います。」
「では目を閉じてください。」
素直に言葉に従い、ゆっくりと瞼を閉じると世界から色が消えた。
「何が聞こえますか?」
「す、鈴の音。」
「他には?」
「えっと、風です。」
「他には?」
「御神木の葉っぱの音。」
聞こえる音全てを言ってから篠目は頷く。
「では、その全てを忘れてください。」
「え?」
思わず目を開きそうになるのを「駄目ですよ」に耐えた。
「聞こうとしなくて良いのです。」
篠目の声は相変わらず静かな声だった。
「聞くのではなく、感じるのです。」
雨流は再びしっかりと目を閉じた。
鈴の音が響く。聞こえる。風が吹く。聞こえる。葉が揺れる。聞こえる。その全てを手放していくが、どうしても何かしらが聞こえてしまう。聞こえないはずの音までーー……
「集中なさい。」
トン、とおでこに篠目の指先が優しく触れた。
雨流は静かに深呼吸をしてから、改めてゆっくりと水の中に入るようなイメージをした。ここは、深海。音を絶たれた水の底だ。
「うん、いいですね。では、聞こえなくなったら探りなさい。貴方は知っている筈です。天山神の色を、音を、気配をーーー……。」
篠目の声の後、やがて、何も聞こえなくなった。何も感じなくなった。
広い闇の中に一人立っているような感覚に、不安になるけれど、逃げない。探さなければならないから。天山神を。自分の半身を……その時だった。
ー……カラン。
小さな音が響いた気がした。鈴のような、どこか懐かしい音。
「……!」
雨流の肩が震える。暖かいし、優しくてだけど少し寂しい。そんな気配。遠い。とても遠い。それでも、確かにそこに居る。
「篠目さん……。」
目を閉じたまま呟いた。「何か、います。」神楽殿に沈黙が落ちる。篠目も楽羅もまた黙ったまま。だが、二人とも分かっていた。今、ほんの僅かだが。雨流が天山神へ繋がった事を。
ー……カラン、カラン
鈴のような音が響いた。
暖かい、懐かしい、優しい。確かにそこに居る。雨流は息を呑んで、その気配へ意識を伸ばすと、ぱちり、と振り返った時に視線が重なった。
青と琥珀。
本当に一瞬だけ互いの瞳が交差する。
「……!」
見つけた。間違いない。天山神だ。
そう確信した瞬間、琥珀色の瞳が細められ、そして。
ふんっ。
そんな声が聞こえた気がした次の瞬間。
ぷいっ。
綺麗に顔を逸らされた。
「……??????」
雨流が手を伸ばしたまま固まった。もう一度気配を辿り、あぁ、……居る。確かに居る。間違いなく居る。
だが、やはり顔はこちらを向かない。
「……。」
沈黙数秒。雨流は考える。そして、ただ一言。
「……は?」
目を開いた。完全に開いた。あの場所から抜け出し、音が戻るが、楽殿に静寂が落ちる。
「今。」
雨流がゆっくり篠目を見る。
「逸らしましたよね?」
篠目の肩がプルプルと震えた。
「篠目さん?」
「……っ。」
「篠目さん……」
「……くっ、ふ、ふふ、ふふふふっ」
駄目だこりゃ。篠目の肩の震えが止まらない。
「今、完全に逸らされました。無視されました。わ、私見つけたんですけど!?」
指を誰も居ない空間へ向けた。
「見つけたのに逸らされたんですけど!?」
思ったより声が大きくなった。篠目は俯いたまま肩を震わせている。完全に使い物にならなかった。その様子を見守っていた楽羅が深々と溜息を吐くと、ゆっくりと近寄り雨流の隣へしゃがみ込むと「失礼する。」と言い肩へ手を置いた。静かに目を閉じてから楽羅は妖力を流して雨流が繋いだ霊力を辿った。
そして、数秒後。楽羅もまた沈黙した。
「……。」
何とも言えない顔をしている。
「どうしたんですか?」
雨流が聞くと楽羅は片手で額を押さえて、それから大きく息を吐く。
「……不貞腐れてやがる。」
「はい?」
意味が分からない。
「誰がですか?」
「天山神がだ。」
「…………。」
沈黙の後
「…………は?」
やっぱり意味が分からなかった。その横では。とうとう堪えきれなくなった篠目が顔を覆っていた。
「ふっ……あ、はははは、はは!」
やがて声を出して笑いだした。篠目の肩が震える。
「篠目さんっ!」
「ふふっ……す、すみま、ふ、ふはっ!」
「……。」
雨流のジト目。だがもう遅かった。篠目は完全に笑っていた。

