悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


結は、落ちる。どこまでも、どこまでも。
白い光の中を下から強い風が吹いていた。
目を閉じたまま落下し続ける結の髪が舞い、やがてスウェットの裾がふわりと揺れ、淡い光が身体を包み込んだ。優しく、温かく、懐かしい光は失われた時間を取り戻すように、足元から光が駆け上がる。

スウェットが光の粒となって溶けていくと、代わりに現れたのは着物だった。
これは、月子から教わったあの日の薄桃の着物。
だが、それも束の間。
再び光が溢れると、裾が伸びて袖が揺れる。羽衣が舞い踊り、幾重にも重なる布に金糸の刺繍がシュルルと施された。これは幽世で着付けてもらった美しい装束。月宮様の娘としての衣。

雨流の衣だ。
光が収まると、月白色へ、青へ、藍色へと衣の色を変じていく間も、真っ逆さまに異界を落ちていた。

ー……雨流。

シャン。
鈴の音が響く。

ー…………雨流。

シャラン、シャララン
優しい声、懐かしい声に涙が零れた。どうしてだろう。胸が苦しいけれど、嬉しかった。あまりにも、懐かしかった。

ー……戻っておいで。

強い風が吹く。

ー……私の娘。

その声と同時に、世界が光に包まれた。
そこは、温かかった。柔らかな温もりと安心する匂いは、ずっと昔から知っていたような、そんな温もりがあった。
少女はゆっくりと目を開くと、視界に映ったのは眩いほどの白銀だった。白銀の衣と長い髪。自分を抱く大きな翼に触れて涙が滲む。
知らないはずなのに、知っていた。ずっと、ずっと昔から知っていた。ゆっくりと開かれた瞳はもう、黒ではない。透き通るような青。雨上がりの空を映したような青。ガラスのように美しい青に、真珠のような肌と墨を流したような髪は地に着きそうなほど長い。
少女は震える唇を開いた。何よりも先に、何よりも呼びたかった名を。
「……おとう、さま。」
一瞬だけ翼が震えた。
抱き締める腕に力が籠もるのは、神としてでも月宮様としてでもなく、一人の父として。何百年も待ち続けた娘を抱き締めるように。白銀の鳥は静かに目を閉じた。
「……おかえり」
掠れた声だけれど、確かな声。
何百年も待った。何百年も後悔した。何百年も探し続けた。ようやく腕の中へ戻った娘にたった一言だけ告げ、そして、ようやくその名を呼ぶ。
「おかえり、雨流ーーー」

ごふっ……
途端に、鮮やかな赤が散った。その一瞬、この場にいる誰も動けなかった。
きっと、雨流自身でさえ、自分の口から血が溢れた事を理解できなかった。
胸が痛い。息が苦しい。視界がぐらりと揺れる。
「雨流様!」
樹樹の血を吐く様な悲鳴が響き、崩れ落ちる身体を支えようと駆け寄る。だが、それよりも早く月宮様が雨流を抱き留めていた。
「雨流。」
呼び掛ける声に焦りが滲む。何百年もの時を経てようやく腕へ戻った娘。それなのに、その身体はあまりにも弱々しい。
「……何故だ。」
低く零れた声は怒りでも困惑でもない。恐れだった。
ようやく帰って来たはずだった。
だが何かがおかしい。何かが足りない。月宮様は雨流の額へ触れ呼吸を確かめ、神気の流れを探るけれど、その時「……もしや。」と静かな声が響いて視線をあげると篠目だった。全員の視線が向くと、篠目はそっと2人に近寄り、雨流を見つめながら小さく目を細めた。
「霊力が不安定なのでは?」
その言葉に樹樹が息を呑んだ。月宮様の眉が僅かに動いき、再び雨流へ手を伸ばす。確かめるように、慎重に、深く。そして長い沈黙が落ちた。
「……無い。」
ぽつりと漏れた声にサッと樹樹の顔が青ざめる。
「つ、月宮様……?」
「雨流の霊力が無い。」
その言葉に空気が凍った。雨流は既に意識を失い、苦しそうな呼吸だけが小さく続いていた。月宮様は静かに雨流を抱き上げると、そのまま踵を返して御神木へ向かった。

御神木の根元へ辿り着くと、月宮様は静かに目を閉じた途端、御神木が淡く輝き始める。
葉が揺れ、枝が伸び、光が舞う。白い花弁のような神気がふわふわと集まり、ゆっくりと形を変えていった。絡み合う枝、柔らかな葉と優しい光が、やがて一つの寝台となる。まるで揺り籠のような、雨流が生まれた時に眠っていた場所を思わせる寝床。月宮様はそこへ娘を横たえると、苦しそうだった呼吸が少しだけ落ち着いて、蒼白だった顔色も僅かに戻った。それを見た樹樹は安堵の息を吐くが、その表情はすぐ曇った。
「……まだ。御神木の近くでしか安定できないのですね。」
月宮様はそれに答えない。答えられなかった。それが事実だったから。帰ってきたけれど、まだ完全ではない。ようやく見つけた娘は今なお失われたままだった。

どれほど眠っていただろう。
ゆっくりと瞼が開くと、見慣れない天井だった。
木で出来た梁と優しく差し込む光ち近くからは葉擦れの音。何処にいるかは分からないが、鳥の囀りに雨流は静かに瞬きを繰り返した。
そこは雨流の私室。和室でありながら、どこか違う。
壁も柱も御神木の一部から生まれら柔らかな曲線を描く木々の窓辺には蔦が絡み、花が咲いている。まるで森の中の小さな家は、幻想的で温かな空間だった。静かだったけれど、そこには誰かがいる事は、見なくても分かった。気配だけで分かる。安心する気配、懐かしい気配、雨流は小さく微笑んだ。
すると。そっと頬へふわりとした感触が触れる。優しい手付きは、壊れ物を扱うよう。
「……おはよう。」
やはり、月宮様だった。雨流は少しだけ目を細める。
「……おはよう、ございます。」
その声はまだ弱く、身体も重い。起き上がる事すら難しかったが、それでも月宮様は静かに口を開く。
「雨流。」
「はい。」
少しの沈黙後
「天山神を探しなさい。」
雨流は目を数回瞬かせた。今の自分は満足に動けない。それは自分でも分かる。月宮様も分かっているはずだった。それでも、探さなければならない。何故なのかは分からないけれど、そうしなければならない事だけは理解できた。
「……はい。」
静かに頷いたその時だった。
「私達もついていきましょう。」
不意に聞こえた声に月宮様に支えられて起き上がった雨流が顔を向ける。
「え?」
いつの間にか部屋の入口には二つの影が立っていた。
篠目と楽羅に、雨流は目を丸くする。
「いつから居たんですか。」
「最初からだ。」
楽羅が平然と答えると、「ええぇ」と言う雨流に篠目が吹き出し、月宮様も僅かに口元を緩めた。ほんの一瞬だけ穏やかな空気が流れる。が、それもすぐに終わり月宮様は篠目と楽羅へ視線を向けた。

そして短く「頼んだ。」と告げる。その一言に込められた意味は重い。娘を託す言葉、未来を託す言葉。篠目は静かに目を伏せ、頭を下げた。
「承知しました。」
楽羅も小さく頷くと、雨流はそんな三人を見つめながら首を傾げた。まだ何も知らない。自分の霊力がどこにあるのかも、天山神が何処にいるのかも。

そして、これから始まる試練の意味も。
知らないまま雨流はゆっくりと拳を握った。
天山神を探す。その言葉だけを胸に抱いて。