悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜

その日は全国的に雨が降っていた。
空が泣いているような大雨は、記録的な豪雨だとニュースキャスターが告げていたのを車のラジオで聞いていた夫婦がいた。駐車場から家へ帰る時、妻のーー澄嶋深琴(みこと)がピタリと足を止めた瞬間から、夫婦の運命が変わった。
「……今、聞こえなかった?」
「ん?何が?」
夫ーー澄嶋陽人(はると)が聞き返すと、深琴が傘をさしながら顔を上げ、耳を澄ませる。
「赤ちゃんの声が……」
買い物袋を下げながら、雨音の向こうからか細い泣き声が響いていた。
耳と目を凝らし、「あっ」と声を出し買い物袋をその場において足を早めた。
少し進んだ街灯の下に、やはり赤ん坊がいた。
白い布に包まれた小さな命が、顔を真っ赤にして泣いている。だが、妙だった。この激しい雨の中で、その子だけは濡れていなかった。まるで、見えない何かが守っているように雨粒が途中で弾かれている。
「……っ。」
深琴は震える手をそっと伸ばして赤ん坊を抱き上げるその瞬間、ふわりと柔らかな光が溢れると、温かな光、優しい光。雨を遮っていた何か、赤ん坊を守っていた何かが、それが今。深琴の腕の中で静かに消えた。それは、安心したように、役目を終えたように赤ん坊へ沈んで行き、そしてゆっくりとその瞳が開かれた。
「……っ!?」
青だった。透き通るような青は、空よりも海よりも美しい青で、深琴はこんなにも美しい青を産まれてからただの一度も見たことは無かった。
深琴が息を飲んでいる間にその青が揺れた。ゆっくり、ゆっくりと黒へ変わっていく。人の子の瞳の色へ。ぴたりと。赤ん坊の泣き声が止まり、小さな手が深琴の服を握った。ぎゅっと、離れないように、失わないように。
「……っ。」
自然と涙が零れた。どうしてなのか分からない。初めて会ったはずなのに、この子が愛しかった。それは、どうしようもなく愛しかった。
深琴は眠ってしまった赤ん坊をそっと抱き締める。強く、強く。
「……この子の名前は。」
一筋の涙が頬を伝う。
「結。」
震える声だったけれど、迷いは無かった。
「陽人さん。私、この子を育てるわ。」

赤ん坊の胸には一本の短刀が抱かれていた。短刀は役目を終えたようにそこから自身を封じた。

雨流は眠った。長い長い眠りにつくように、そして一人の少女がこの、大雨の日に生まれた。結。
それが、人として生きる彼女の名前だった。


結はよく空を見上げる子だった。
まだ一歳にもならない頃からそうだった。深琴に抱かれていても、陽人の肩車の上でも。まず見るのは人の顔ではなく空だった。

青空、雲、飛んでいく鳥、夕焼け、月。
何を見ているのかと聞いても、本人にも分からない。ただ、見ていたかった。結はそれだけだった。

一歳。
結はよちよち歩き始めた。危なっかしい足取りで家の中を歩き、転んでは泣いて、抱き上げられ、落ち着いた頃にはまた歩く、そんな毎日だった。
「結。」
深琴が呼ぶと、結は振り返りぱちぱちと瞬きをしてから小さな手を伸ばした。
「ま……。」
その声に深琴が固まった。結は一生懸命に伝えようとするように、何度も口を動かす。
「ま……ま、まま。」
その瞬間深琴は泣いて、悔しそうな陽人はやがて大笑いした。結だけが何故二人が騒いでいるのか分からず、きょとんとしていたその日、深琴は人生で一番幸せだった。

三歳。
とにかくよく歩く子になった。その中でも散歩が好きだった。近所の公園、神社、川沿いの道、知らない道と、気付けばどこまでも歩いていこうとする。
「結っ!」
深琴が慌てて追いかけ結は振り返る。
「まま、みて!」
指差した先には鳥が電線の上で休んでいて、空へ飛び立つ瞬間だった。
「とりさんっ!」
「そうね。」
「おそらいく!」
嬉しそうに笑う姿に深琴はため息を吐いた。きっとこの子は、どこまでも行ってしまう子なのだろうと思った。

五歳。
結は迷子の常習犯になっていた。といっても本人は迷っているつもりがない。空を見ながら歩き、見つけた鳥を追いかけ、風の吹く方へ進む。それだけでいつの間にか知らない場所にいる。
「また迷子になったの?」
慣れたように近所の人が笑うが、結は首を傾げた。
「まいごじゃないよ?」
「じゃあどこ行くの?」
「わかんないっ!」
近所の人が「わんぱくさんめぇ!」と言うのに対し結はニコニコ笑うが、逆に陽人は頭を抱えた。

七歳。
雨の日が少し苦手になった。嫌いではない。むしろ好きだったけれど、その反面わけも分からずに胸が苦しくなるのだ。窓辺へ座りぼんやり雨を眺める時間が増えた。
「結〜?」
深琴が声を掛ける。病院に行っても「そういう年頃」や「季節の変わり目で〜」などとしか言われない。
「……。」
「どうしたの?」
しばらく考えた後に、結は首を傾げた。
「さみしいの。」
「何が?」
「わかんない。」
雨の音を聞くと、どうしてか。泣きたくなる時があった。深琴はそっと結に寄り添った。これしか出来ないと思ったからだ。

十歳。
よく夢を見るようになった。その夢は全て白い世界だった。大きな木からは光が降っている。心地のいい鈴の音が響き、その先に誰かがいる気がする。
でも、その人の顔は見え無いし、声も聞こえない。目覚めると全て忘れてしまい、夢を見た翌日は決まって空を見上げた。結は何かを探すように、何かを思い出そうとするように。

十三歳。
結は少しずつ大人になった。友達も出来たし学校も楽しかった。好きな音楽もあるし流行りの服も気になるどこにでもいる普通の少女だったけれど、変わらないものもある。それは、空を見ることと散歩。
特に雨上がりの空が結は好きだった。雲の隙間から光が差し込む景色を見る度に、胸の奥が温かくなるからだ。理由は分からないけど、懐かしかった。

十五歳。
雨の日の事、深琴は初めて気付いた。
結が窓辺に座り静かに涙を流していた。
「結?どうしたの?」
慌てて駆け寄ると、結は自分でも驚いたように頬へ触れた。
「あれ。なにこれ」
本当に分からなかった。悲しくも辛くない。本当に何も無い。それなのに、涙だけが零れていた。
「……変なの。」
結は困ったように笑ったが、深琴は何も言えなかった。
ただ優しく。抱き締めた。
「お母さん?」

そして、十六歳の誕生日の日……

甘い物が好きな結のお気に入りの大きなチョコレートケーキに刺さった蝋燭をフッと消した。
3人で歌ったバースデーソングの音程があってないよ!と笑う結の声に、つられて笑う両親。
何も変わらないはずの日だった筈なのに、徐に立ち上がった結は、窓際に近寄ると、夕暮れの空を見上げた。
「……結?」
突然の行動に両親が戸惑った。夜空にはゆっくりと雲が流れている。あの動きからして強い風が吹いている。
「……昔から変わらないわね。」
「そうだな。」
深琴はギュッと膝の上で拳を握った。蝋燭の煙の香りがやたらと目にしみた。

陽人が静かに立ち上がると、「結。」と呼んだ。
空から視線を外して2人を見る結は「ん?」と答えると、二人を見て首を傾げる。
「渡したい物があるんだ。」
珍しく真面目な父の声と深琴も黙っていた。誕生日プレゼントを渡すにしては、様子が変だ。
やがて陽人は古い木箱を持って戻って来た。見たことのない箱だった。その丁寧に磨かれた木箱は、一目でずっと大切に保管されていたのだと分かる。
「これは、十六年間、お父さんが預かっていた物だ。」
結は目を瞬く。陽人がゆっくりと木箱の蓋を開くと、中には一振りの短刀が納められていた。
黒い鞘には美しい細工。どこか懐かしい気がするのに見た覚えは無かった。
「……綺麗。」
思わず呟いたその瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
理由は分からないけど、ただどうしてか目を離せなかった。それは、まるでずっと昔から知っている物を見るようだ。
陽人と深琴は顔を見合わせると、静かに話し始めたのは16年前の大雨の日の出来事。
「その話をしようか。」
結が結になる前の話を、誰も知らない始まりの話を。窓の外では、雨が降り始めていた。

結はその間何も言えなかった。頭が追いつかない。
自分は拾われた子供。
自分が深琴と陽人の本当の娘ではない。
そんな事、一度も考えた事が無かったけれど、二人の顔を見れば分かった。嘘ではない事くらいすぐ。
「……。」
結は視線を落とし、短刀を再び見る。
黒い鞘は吸い込まれそうな静けさ。やはり、胸が苦しかった。とても懐かしくて、指先が勝手に動く。自然に引き寄せられるように。
「結。」
深琴が呼ぶその声が少しだけ震えていた。
「大丈夫よ。」
結は小さく頷くと、そして短刀へ手を伸ばし、指先が鞘へ触れた瞬間……ぱきりと、小さな音が響いた。
「……え?」
結が顔を下げた。足元には淡い光が床から溢れるように広がっている。
「な、に……?」
光は瞬く間に大きくなると、足元から上へ上へ包んでいく。その光はとても温かいけれど、どこか恐ろしい。
「結!」
深琴が立ち上がった。
「結!」
陽人も叫ぶ。結は混乱していた。何が起きているのか分からない。ただ身体が羽のように軽い。光が身体を覆っていく。
「お母さん……!」
思わず声が出た深琴が手を伸ばす。
「結!」
「お父さん!」
陽人も手を伸ばす。あと少し、本当にあと少しだったとき、何かを噛み締めるような深琴の表情に、伸ばしていた手が止まった。
「…結…行ってらっしゃい」
「おかあ、さん?」
力強く頷く陽人は深琴を支えながら「体には気をつけなさい」と言った。更に混乱する結の体を光は容赦なく包み込む。
そして、最後に指先が触れる寸前。眩い光が弾けた。

リビングに残ったのは沈黙だけだった。誰も動けない中、深琴は呆然と立ち尽くし陽人も言葉を失っていた。
「……あれ。」
深琴が胸を抑えて呟く。胸が痛い。苦しい。息が出来ない。何かがおかしいけれど、何がおかしいのか分からない自然とテーブルを見ると、誕生日ケーキがあった。プレートの文字は消えてしまっているけど、三人分のお皿とフォークに飲み物に、一つだけ空いた席は誰の席だっただろう。
必死に考えるけど、思い出せない。なのに、涙だけが溢れた。
「いや……。」
声が震える。
「いやよ……。」
何が嫌なのか分からない。何を失ったのかも分からない。それなのに、胸が張り裂けそうだった。深琴はその場で崩れ落ちる。陽人が優しく寄り添う。
ぽろぽろと涙が零れて止まらない。
理由も分からないまま、陽人もまた空席を見つめていた。胸の奥が張り裂けそうに痛い。何かを失ったと、それだけは分かるけれど、何を失ったのか思い出せない。思い出せないのに悲しい。どうしようもなく、悲しかった。窓の外で雨が降り始める。静かな雨だった。

まるで、誰かの代わりに泣くような雨。